二章 白の雪が夏に溶ける

第5話 白の雪が夏に溶ける.1

 北宿雪姫と出会ってから、かれこれ三ヶ月。


 穏やかだった太陽は烈日となり、アスファルトを熱して地を這うもの炙ることに使命感を見出し初めた頃のことだ。


 教室はすでにみんなの装いが変わっていた。鬱屈とした黒を思わせる冬の制服から、澄んだ晴天を、水を、茜色の夕暮れを想起させる白い夏の制服になったのだ。


 元々、僕は袖丈の短い夏の制服が好きではない。


 メキメキと伸びた身長。それに必死で追いつこうと伸びた細い手が、肘から先もさらされてしまうからだ。


 しかし…今年の夏は少し違った。


 僕は頬杖をついた姿勢でなにげなくを装い、視線を斜め向かい、教室の角の席にやった。


 そこでは僕と全く同じ姿勢で窓の外を見つめている北宿雪姫の姿があった。


 退屈そうな、あるいは、何かに苛ついているような面持ちの彼女は、窮屈そうに足を組んでいた。


 僕は、雪姫の曲げた腕やスカートの裾からこぼれる足の白さに心を奪われていた。


 見たこともない、北の雪景色が頭に浮かぶ。


 誰とも言葉を交わさない、孤独な少女。だというのに、彼女の横顔に寂しさは見えなかった。


 雪姫は自分を生きている。


 そうして僕がじっと彼女を盗み見ていたところ、いつの間にか隣の席についていた生徒に声をかけられる。


 「夕凪さん、おはよ」


 相手のほうに顔を向ける。隣の席の生徒かと思っていたがそうではなかった。


 「おはよう、神田さん」


 神田樹(かんだいつき)――比較的早いうちから僕に話しかけてくれていたクラスメイトの一人である。


 「今日も天気が良くて、暑いね」


 会話下手な僕に雪姫が教えてくれた、必殺、天気の話題。


 これで妙な顔をされることは少ないため重宝しているが、乱用しているせいか、この間は樹に『天気の話、好きだね』と見当違いの解釈をされてしまった。


 別に好きではないが、理由を説明することも難しかったため、はにかんでごまかした。昔だったら考えられない、協調性のある態度だ。


 「ねー、日に日に暑くなってくね。嫌になっちゃう」


 「暑いの嫌いなんだね」相手の言葉を繰り返したところ、樹に、「暑いのが好きな人なんているの?」と不思議そうに返された。


 なかなかどうして、会話とは難しいものである。


 だいたい、神田樹とはこうして当たり障りのない会話しかしない。


 彼女らクラスメイトがこういう浅い会話――もとい、誰とでもできそうな会話を好むことは最近になってようやく理解できたことの一つだ。


 なんでこんな中身のない会話に時間を割くのかと疑問だったが、どうやらこれが彼女らにとってのコミュニケーションツールみたいなものらしく、不可欠の存在であるようだった。


 『彼女ら』に溶け込む努力をしている僕も、最近はすっかりこういう会話に慣れ親しんでしまった。そうでないのは雪姫と話をしているときだけだが、どちらに意義を感じるかは愚問である。


 早く雪姫との時間が来ないだろうか、と視線を隣の席に座るクラスメイトから雪姫に移す。


 「夕凪さんは夏が好き?」


 そんなことは一言も言っていない…と思いつつも、空っぽの会話に興じる。


 「少なくとも、僕は嫌いじゃないかな」


 「へぇ」


 短い相槌の後、何を思ったのか、樹が僕の机に片手を置いて覗き込んできた。


 「だったら、私も好きになっちゃおうかな?」


 自分で言ったくせにどこか落ち着かない様子で垂れた前髪を払う樹を、僕は怪訝に思って小首を傾げる。


 「なにを?」


 「んー…さあ、なんだろう」


 要領を得ない会話だ。しかし、これに意味があると雪姫は語る。彼女が言うならきっと真実だ。


 「よく分からないけど、誰が何を好きになるかはその人の自由だ、よ。だから、好きにすればいい…と思う」


 最近は言葉遣いにも気を払っている。


 普段使っている男言葉は、僕にとっては一番しっくりくるものだったから変えたくはなかったが…これが『友だち』や『恋人』を作るのに大事だというなら受け入れるべきだと我慢している。


 無論、雪姫の前では気にはしていない。彼女もそれでいいと言うし、自然体でいられる場所を削るのは忍びないものがある。


 「ふふ、夕凪さんって不思議」


 一瞬だけ驚いた顔をした樹は、そのうち満足そうに微笑んでそう言った。


 「よく言われる。変わり者だって自覚はあるよ」


 「目立つよね、色々と」


 「…話し方、変かな?」


 気になっていたことを尋ねれば、彼女は少しだけ真剣な顔をしてから、意地悪そうに口元を曲げた。


 「まあ、普通の女の子は『僕』って言わないかな」


 久しぶりに受けた指摘に、僕は心臓が止まりそうになった。


 心臓の回転が速くなり、体温の上昇も感じる。昂揚しているのが自分でもすぐに分かった。端的に言えば怒りを覚えたのだ。


 『そんなの僕の勝手だろ』。


 少し前だったら絶対にそう答えただろう言葉を脳内で唱えながら、ぎゅっと机の下で拳を握る。


 「そ、うなんだ…」


 「うん、みんな『私』でしょ?」


 体中の僕の血が、細胞が、心臓の鼓動に合わせて拡縮して、『言いたいことぐらい口に出せ』と急かしている。


 それができなかった『私』を『僕』は情けないと嫌ったのに、『僕』は今、何をやっているのだろうか。


 これを抑え込むことが、友だちを、パートナーを作ること?


 違うだろう、と僕の中の大事な思い出が顔をしかめる。


 僕だって、そう思った。


 でも、直後によぎった雪姫の顔を思い出し、彼女がしてくれた助言を無為にしたくないとこらえることのほうを選ぶ。


 すると、樹が不思議なことを口にした。


 「本当はね?夕凪さんと話したがってる人、多いんだよ」


 「僕と?」


 思わず聞き返すと、彼女はにかんでみせた。愛らしい表情だと、僕はなんとなく思った。


 「うん。夕凪さん、美人だもん。――でもね、自分のことを『僕』って呼ぶ人は、ちょっとだけ変わってるって思うから、話しかけてもいいのか迷うんだって」


 美人、という単語はお世辞だと直感した。そういう表現は雪姫のような人間にこそ相応しい。


 僕は樹の言葉に我慢できず、顔をしかめた。


 「変わってる人だと話しかけてもいいのか分からないって、どういう理屈だ」


 つい、普段の低い地声が出た。


 クラスでは意識して高い声で話しているから、樹は少し驚いた顔をしている。


 しかし、彼女はそれで臆すことはなく、むしろ愉快そうに笑った。


 「あはは、みんな集団からはみ出したくないんだろうね。あ、誤解しないであげて。『僕』って、やっぱり目立つから」


 馬鹿にされている、と感じた僕は目元を吊り上げて神田樹を座ったままの姿勢で睨んだが、彼女は相変わらず飄々と笑って、「ごめん、ごめん」と言うばかりだ。


 そんな彼女の顔を見ていると、まともに怒る気持ちも失せ、僕はため息混じりに問いを投げた。


 「はぁ…だったらどうして神田さんは、『変わっていて話しかけづらい、普通じゃない』僕に話しかけるんだ」


 皮肉を込めて、つい雪姫にやるみたいにやってしまう。


 すると、樹はその言葉を待っていたとばかりに満足そうに微笑んだ。それから、辺りを見渡し、自分たちに視線が集まっていないことを確認すると、僕の耳に顔を近づけて囁いた。


 「私も、普通じゃない女の子だから、かな」


 


 あれは一体、どういう意味があったんだろう…。


 そんなことを考えながら僕は、夏の容赦ない日差しから逃れるべく、商店街の分厚い屋根の下で人を待っていた。


 その場で樹に言葉の意味を尋ねたが、彼女はただ恥ずかしそうに、嬉しそうにはにかむだけで答えという答えは口にしなかった。


 話す機会が多い、というだけで特段仲が良いわけではない。それでも、耳朶を打った囁きは心の隅に居座り続けている。彼女が吐いた、『僕』という一人称が普通じゃない、という久しぶりの呪言も忘れかけるほどにその言葉を気にしていた。


 しかし、それから五分ほどが経ち、待ち人が現れたときにはそのことすらもどうでもよくなるほどの衝撃を受けてしまった。


 「早いのね、夕凪」


 背後からの一声。すぐに雪姫だと気づいた。


 「あ、おはよう、雪姫…」


 振り返りながら、片手を上げる準備をしていた僕は、彼女の姿に目を丸くして言葉を失う。


 ゴシック調の黒のミニスカートに、黒のオフショルダーを身にまとう柳雪姫は、初夏を含みきれなかったアスファルトの熱の中、幻みたいに立って僕のほうをじろりと見つめていた。


 てっきり、雪姫の私服はもっとボーイッシュなものとばかり思っていたので、僕は思わず言葉を失って、彼女のつま先からつむじまでを観察してしまう。


 陽光が焼くかもしれないと考えると、それをさらし続けていることが罪深いことなのではないかと思わせる、白い肌。


 そう、白だ。新雪を彷彿とさせる、白。


 「人のことをジロジロと…なに、あんた、人間のメスが珍しいの?」


 「え、あ、嫌、僕は…」


 失礼なことをしていた自覚があったので、つい言い淀んでしまう。


 「た、ただ、思ったより女の子らしい格好をするもんだな、って…驚いただけで…」


 言葉を紡いでいても、肌に浮いた鎖骨が気になって仕方がない。


 最近、ただでさえ雪姫から視線を逸らすことに四苦八苦するのに…こんなふうではどうにもならない気がする。


 「ふぅん」


 受け取りようによっては怒られかねない僕の言葉を、雪姫はどこかふてぶてしく笑う。


 「ま、あんたは想像どおりって感じね。夕凪」


 「…それ、どういう意味だ」


 「そのままの意味よ」と彼女は僕のことを指さした。「適当なTシャツにジーパン。人の貴重な休日を使わせておいて、そのへんのコンビニにでも行くわけ?」


 「べ、別にいいだろう」


 「ふん。まあいいわ」


 挑戦的な笑みで鼻を鳴らす雪姫だったが、機嫌が悪いわけではなく、むしろ、上機嫌であるように僕の目には映った。


 彼女のようなひねくれた人間は、調子が良いときほど皮肉を放ったり、口が悪くなったりするものなのである。


 「それで?今日はどこに行くのよ」


 雪姫が僕を追い越しながらそう尋ねた。


 風を切って彼女の足が前後する度に、スカートの裾が揺れる。蠱惑的な白い輝きが、僕の心を惑わすせいで一瞬だけ反応が遅れた。


 僕は雪姫が怪訝な顔をしていることに気づくと、ごまかすように首を回し、「それは雪姫が決めてくれるんじゃないのか」と当たり前のように問い返した。


 「は?」


 「は、ってなんだ。はって」


 「…いや、あんた、本気?」


 「なにがだ」


 「どこに行くか、私が決めるって」


 「もちろんだ。『友人役』として、僕に一般的な友人関係のなんたるかをいつものように教授してくれるんだろ。そういう話だったじゃないか」


 「そういう話だったじゃないかって…」


 雪姫はしばし唖然とした顔で僕を見たかと思うと、そのうち嘆息を漏らして肩を竦め、うわごとのように、「これだからナチュラルぼっちは…」と呟いた。


 雪姫曰く、彼女自身は人工のぼっちで、僕は天然物のぼっちらしい。つまり、自分は好き好んで独りでいるが、僕のほうはなるべくして独りになっているということだ。


 なんとなく理屈は通っている気がしたが、どうにも僕は気に入らなくて、目くじらを立てることが続いている。


 結局、僕らの行く先は雪姫が決めてくれた。もちろん、余計としか思えない小言とセットではあったが、ご機嫌な様子ではあるので良しとした。


 「喫茶店にでも行くわよ」と吐き捨てるように言った雪姫の隣を歩く間も、僕は彼女より高い目線から覗いてしまう、白い肌の隙間に注意が逸れてばかりだった。


 


 『喫茶店』とかいう実態の明らかではない――もっと言うと、本当にそんなものがあるのかと疑っていた店の中は、僕が小説や漫画、アニメなんかで想像していたより普通だった。


 馬鹿みたいにファンシーな装飾も、目が回るような値段の飲み物もない。まぁ、ちょっと割高とは思うが、人に作ってもらって、片付けまでしてもらうのだから仕方がないのだろう。


 メニューを読んで、ものの数秒で注文を決めた雪姫とは対照的に、僕はコーヒー一つ決めるのに時間を要してしまった。


 不慣れ、というのもあるが…こうして色々と選択肢があると迷ってしまう性が僕にはあった。


 雪姫が頼んだパンケーキと僕が頼んだサンドイッチ、それから、二人分のコーヒーがテーブルに並ぶ。


 インスタントとは違う風味がするが、この味の違いに何倍もの値段差に相当する価値があるのかは甚だ疑問だった。しかし、それを口にすると雪姫が怖い顔をしたので素早く別の話題に切り替えた。


 当たり障りのない会話が続いた。別に、屋上でもできるような会話だ。


 だけど僕は、それで十分楽しむことができていた。


 普段とは違う装いをした雪姫との、普段とは違う場所での会話。


 中身は同じのくせに、新鮮な感じがする。


 僕は『幸せ』というものがどんな箱に詰まっているかは知らない。だけど、雪姫との時間は間違いなく、乾いていた僕の心を潤してくれている。


 サンドイッチを口に運びながら、そんなセンチメンタルなことを考える。


 (これが、『友だち』なんだろうか…)


 舌が感じ取る卵とマヨネーズの味わいにも集中できず、上の空で雪姫の白い面持ちを見つめていると、不意に彼女は身を乗り出して左手を伸ばしてきた。


 「ちょっと、夕凪。マヨネーズついてるわよ」


 オフショルダーの胸元から艶やかな白い谷間が見えそうになって、僕は弾かれたように顔を背けた。


 空振った指先に雪姫は面食らったふうな顔つきになる。


 「なに。どうしたのよ」


 「…」


 僕が無言でいるせいで、彼女はますます怪訝そうに顔を歪める。


 顔が熱い。


 北宿雪姫の白が、僕の心を惑わせている。


 「…夕凪?大丈夫?」


 普段は聞けない、雪姫の心配そうな声。


 「あ、いや…」


 友だちが少し露出の多い服を着ていて、たまたまきわどい角度で視界に入っただけだ。


 それなのに、どうしてこんなにも平静ではいられなくなるのだろう。


 僕の充足感とは縁遠かった心は、何を感じたのだろうか。


 「どうしたのよ?体調が悪いなら、そう言って」


 声と表情に宿る不安が段々と強まっていく様子に申し訳無さを覚えつつあった僕は、正直に言うべきか悩んだ。


 彼女に叱責されるか、侮蔑の眼差しを向けられるかすることを考えると気が引けた。しかし、このまま姿勢も変えずに覗き込まれることも落ち着かなったので、僕は素直に考えを口にする。


 「雪姫、その…」


 「なに?」


 こてん、と小首を傾げる仕草。


 角度も相まって非常にあざとい。彼女にそのつもりはないと分かっていても、ごくりと喉が鳴るほどだ。


 「そ、そういう服装で、あまり無防備に上体を倒すものじゃない。目のやり場に困ってしまう」


 「は?――あ…」


 雪姫は自分の胸元に視線を落とすと、ハッとした顔つきになって慌てて身を引いた。


 叱られそうだと思った。だけど、こちらの予想とは裏腹に、雪姫は顔を真っ赤にして両腕で自分の体を抱くと、上目遣いでこちらをじっと睨むだけ睨んで、やがて、視線を逸らすのだった。

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