第6話 白の雪が夏に溶ける.2

 しばらく、妙な時間が続いた。


 お互いに言葉を発さず、ちまちまとコーヒーと昼食を口に運んでいる一方、何度も何度も一瞬だけだが視線は交差していた。


 雪姫の顔がずっと赤いままだから、僕のほうも変わらず熱が抜けなかった。


 恥ずかしがるくらいなら、そんな格好しなければいいのに…と考えてはみるものの、ドキドキするこの心臓は、決して雪姫に対して呆れのような感情は抱いてはいない。とはいえ、どんな言葉で表せばいいのかは分からない。


 何気なく時間を気にしているふりをして時計のほうへと視線をやる。


 すでに席に着いてから三十分近くが経過している。店を出ないと迷惑になるだろうかと雪姫に問えば、彼女は、「喫茶店なんて、一杯のコーヒーで長居する場所なのよ」とあっけらかんに説明した。


 互いに顔の赤みが引き始めてからは、再びとりとめもない話を始めた。そうすることが自然な流れだったからじゃない。そうしないと、落ち着かなかったからである。


 だから、僕がその話題を出したのは本当にただの気まぐれだった。


 「そういえばこの間、よく分からないことを神田さんに言われたんだ」


 「神田?」


 「そう。あぁ…クラスメイトの」


 「知ってる」


 途端に険しい顔に変わった雪姫を怪訝に思いつつも、僕は先日、神田樹に言われたことを雪姫に話した。


 うろ覚えで語った内容だったから、どこまで正確だったかは分からないが…まあ、概ね間違ってはいないはずだ。


 雪姫は僕の話を聞き終わると、むすっとした顔で、「で?」と頬杖をついてみせる。


 「で…って?」


 「そ・れ・で?そんな話を私に聞かせて、あんたはどういうつもりなのよ」


 「なんだ、急に怒るなよ」


 「怒ってないわよ。なんで私がそんなことで怒らなきゃいけないのよ」


 だったら、誤解を招くような態度を避けるべきだと僕は片眉をひそめる。しかしながら、段々と勢いを増す火柱のように不機嫌さが加速していく雪姫の様子を見て、すぐに矛を収める。


 「いや、ただ…結局のところあれはなんだったんだろう…って思っただけだ。忘れてくれ」


 「ふぅん」


 唇を尖らせた雪姫。猫みたいに大きく、吊り上がった両目が不審そうに僕を捉えて離さない。


 気づかないうちに逆鱗に触れてしまったらしい。もしかすると、僕の知らないところで神田樹となにかしらの因縁があるのかもしれない。


 僕は言い訳もできず、カップを口に運んで中のコーヒーを飲んでいるふりをした。


 二人の間に言葉がなくなる。


 雪姫は不機嫌そのものといった顔でそっぽを向いているし、さっきまで美味しい気がしていたコーヒーの味も、なんだか薄ぼんやりとしてしまい、ただの苦い液体に早変わりしてしまっていた。


 神田樹の話題など口にしなければよかった、と小さくため息を吐くと、それを聞いたらしい雪姫がようやくこちらを向いて声を発した。


 「本気で分からないの、あんた」


 「え?なにが?」


 待望の言葉に飛びつく。彼女からのパスなんて、普段はほとんどないのだ。


 「神田が言ってたことの意味。本当に分からないのかって聞いてんのよ」


 「妙なことを聞くなぁ。分からないから雪姫に尋ねたんだろう」


 僕がそう答えると、また雪姫は黙り込んでしまった。ただし、今度は僕の胸の内を探るような視線を向けてきている。


 綺麗なオニキスに見つめられて悪い気はしないが…どれだけ探ったって、僕のなかには何の他意もないのだから、それはそれで申し訳ないような気もした。


 ややあって、不審感の消えない瞳で雪姫が問いかける。


 「夕凪、あんた神田のこと知らないの?」


 「神田さんくらい知っている。馬鹿にするな」


 「そうじゃなくて、あいつがどんな人間なのかよ」


 神田樹がどんな人間か?


 僕はその問いを受けて、不覚にも口元を綻ばせてしまった。


 どんな人間なのか、知っているといえば知っているが、知らないと言えば知らない。そもそも、何をもってして表現できれば、その個人を的確に説明していると言える?基準があまりにも不明確ではないか。


 肩を竦めつつ、「クラスメイトとして、知ってることくらいは知ってるさ」と返す。


 「なにそれ。神田とは、たまにあんたも話してるでしょ。だいだいは知ってるんじゃないの?」


 「雪姫、その言い分はまかり通らないな」


 「はぁ?なんでよ」


 僕は良い機会だ、と思い、自分のことはあまり語りたがらない雪姫を指差す。


 「家族を除けば――いや、除かなくても、僕が一番長く時を共にしているのは雪姫。君だ。だけど僕は、雪姫のことはほとんど何も知らない」


 まさか自分が引き合いに出されるとは思ってもいなかったのだろう。雪姫は口をぽかんと開けて僕の顔を見つめていた。


 「言葉を交わす量と、その人に対する知識量は必ずしも比例しない。つまり、僕は神田樹についてほとんど何も知らないし、雪姫についてだって聞かされてない」


 だから、僕個人としてはもう少し雪姫のことを知りたいと思っている。


 これをチャンスにそう伝えてみようか、と頭が一瞬だけ悩んだところ、次の瞬間には雪姫は腹立たしそうに顔を歪め、口を開いていた。


 「うっさいわね、気障ったらしく、ごちゃごちゃ言ってんじゃないわよ。このナチュラルぼっち」


 ぶすり、と言葉のナイフで一刺しされて、僕は表情を強張らせる。


 「ぼ、僕は…」


 弁明をしようと思った。


 前口上が長い自覚はあるが、それは雪姫に普段はお願いしづらいことを自然な流れで言うためであって、断じて、気障ったらしくお説教したかったわけではないのだ。


 しかし、僕が口を開きかけた刹那、雪姫が聞き捨てならないことを口走った。


 「…神田樹は、自分がレズビアンだとカミングアウトしてるわ」


 


 「れ、レズビアンって…」


 僕はその言葉――フィクションや一般常識の知識としては知っているが、身近に、リアルに存在するものとしては耳慣れない言葉――を受けて、思わず口ごもってしまう。


 「なにその反応。今どき、珍しいものでもないでしょ」


 雪姫は明らかに反応に困っている僕を見ると、どこか怒ったような口調でそう告げた。そして、彼女が神田樹と同じ中学校出身であることを説明し、昔から樹はああして自分の性的指向のことを公にしていたと語った。


 「神田さんが…そうか…」


 同性愛者、レズビアン。


 そうか。ようやく僕は合点がいった。


 「――『普通じゃない女の子』か。ふっ…気の利いた表現だな」


 「かっこつけてるところ悪いけど、あんた、自分が置かれている状況のこと、ちゃんと分かってんの?」


 苦笑ともつかない微笑みを浮かべる僕に、雪姫が前髪をかき上げながら言う。


 「状況?」と間抜けにもオウム返しすれば、彼女は『ほら見ろ』とでも言いたげに肩を竦めてため息を吐いた。


 「神田樹はレズビアン。それで、わざわざあんたに遠回しにそれを言う。――夕凪、神田はあんたに好意があるんじゃないの」


 雪姫の言葉に、僕はぽかんと口を開けた。


 樹が、僕に好意を持っている?


 まだ話すようになって一ヶ月もないのに、たかだかそんな短い期間で僕を好きになるだって?


 「なんで?」


 気づけば、僕はそう口にしていた。


 そうだ。そんな馬鹿な話はおかしい。


 フィクションの世界に浸って生きてきた僕だが、どのような作品でも、あまりに惚れっぽいヒロインやその他のキャラクターたちには辟易してしまう性格であった。


 だって、人を好きになるって…そういうことじゃないだろう。


 見た目の好みとか、雰囲気とか、そんな釈然としないものに運命を感じてしまうのが人の性だって?


 …そういうものなのだろうか?僕が恋愛を知らないだけで、みんなそうやっているのだろうか?


 「知らないわよ」と雪姫は淡白に言う。「あんたがなにかしたんじゃないの?」


 「してない。そもそも、話だってまともにしてない。そんな相手を好きになるなんて、おかしいだろ」


 「おかしくなんてないわよ。一目惚れって言葉があるでしょ」


 僕は正論を口にしているつもりだったから、雪姫が即座に否定してきたときは正直、むっとした。


 「人の見た目だけで好きになるなんて、そんなの俗物すぎやしないか」


 「俗物?あんた、何様よ」


 今度は雪姫がむっとして返す番だった。


 「腐るほどいるわよ、人の見た目に惹かれて好きになる人間なんて。私はそれが悪いとは一ミリも思わない。だって、それから中身も好きになればいいだけだもの」


 「中身を好きになれなかったらどうするんだ」


 「そのときは続かないだけでしょ」


 「無責任だ」


 僕が吐き捨てた言葉に、雪姫は鼻を鳴らす。


 「はっ、お綺麗ですこと。――夕凪、あんた恋愛に夢見過ぎ。現実はフィクションとは違うのよ」


 僕はその瞬間、頭が沸騰しそうになる錯覚を覚えた。


 友だち、恋愛、レズビアン。


 フィクションでしか知らない、この世の中のあれこれ。


 そんな狭い世界しか持ち得ない僕を見透かされたような気がして、僕は悔し紛れにじろり、と雪姫を睨んだ。


 当然、僕の睨みなんかで怯むはずもない雪姫は、もう一度鼻を鳴らしてから説教を続ける。


 「そもそも、一目惚れって容姿に関することだけじゃないわ。例えば、そう、その人のふとした行いや言葉に惹かれる可能性だってある」


 「行いや言葉…」


 なるほど、その視点はなかった。


 「僕の言動にそんな魅力があるとは思えないが…見た目に惹かれた、と言われるよりよっぽど説得力はある」


 その発言を僕らしいと笑った雪姫は、少しだけ機嫌を良くしてコーヒーのお代わりを注文した。


 まだ居座るつもりらしい。僕もコーヒー一杯では落ち着かないから、お代わりを頼む。


 コーヒーのお代わりが来る間も、僕と雪姫は神田樹の――というよりも、恋愛事の話を続けた。


 「…ま、あんたの見た目もまあまあだとは思うわよ」


 「ぼ、僕の見た目がか?」


 からかわれているのかと思ったが、こちらを見向きもしない彼女の様子に、揶揄されているわけでも、お世辞を言われているわけでもないことに気づく。


 とはいえ、その言葉を真っ直ぐ受け止められるほど、僕は自分の容姿に自信がなかった。少なくとも、雪姫や樹のほうが愛らしくて人気が出そうな感じがする。


 「どういうつもりか知らないが…それを言うなら、雪姫のほうが可愛いだろ」


 「は、はぁ!?」


 唐突に大きな声を出した雪姫に、周りの客や店員が一斉にこちらを向く。僕はそれを恥ずかしいとも思わなかったが、雪姫はわざわざ四方に頭を下げてみせた。


 ごほん、と一つ咳払いした彼女は、じっとりとした視線を僕に向ける。


 「そ、そんな言葉で私をからかえると思ってんの」


 「いや、そっちこそ…」


 奇妙な沈黙が広がる。体がむずむずしたが、何か言葉を発する勇気は僕にはなかった。


 そのうち、店員がやって来てコーヒーのお代わりを注いだ。


 良い香りに包まれて、どちらからともなくカップに口をつける。


 ずず…と液体をすすった後、示し合わせたように僕たちは視線を交差させた。


 澄んだオニキスを彷彿とさせる、雪姫の瞳。その瞳の中に、僕が映っているわけだが、どうしてか、とても自分とは思えないくらい変な顔をしていた。


 それにしても…あの綺麗な瞳を占領していると考えると、僕は贅沢者なのかもしれない。


 数秒が経てば、さらに雪姫の頬が赤みを増した。


 すっと、横に逸らされる視線。照れている、と僕でも分かった。


 「…前にも言ったように、最近の僕は思ってもいないことを言うのに段々と慣れてきている」


 誰かがぼそり、と言葉を紡ぐ。それが自分だと気づいたときは慌てたが、自然とその先を考えることができた。


 「だからこそ…雪姫にまでお世辞は言わない。お前の前でまで、自分を偽るようなことはしたくない」


 言外の意図が伝わったのだろう、雪姫も、「あっそ」と素っ気なく頷いて、それ以上は何も言及しようとはしなかった。


 しばらく、無言の時間が続いた。最初の一杯よりも何倍も早くカップの中のコーヒーはなくなった。


 すでに店に入って、一時間余りが経過していた。


 「そろそろ出ようか」と僕が出した提案に雪姫は無言で頷いた。


 だから僕は、荷物を持って立ち上がろうとした。だけど、彼女がそれをする気配を見せなかったため、怪訝な顔で雪姫の様子を窺った。


 すると、彼女はやおら顔を上げて、その桜色の唇を開いた。


 「ねぇ、最後に一つ聞いてもいい?」


 「なんだ、雪姫がこちらの都合を聞くなんて…らしくないぞ」


 皮肉の染み付いた口がそう言ったから、僕はてっきり、『うっさい。真面目に聞け』ぐらいは言われると思っていた。


 しかし、雪姫は顎を引いて真面目な顔つきになると、そのまま僕の返事を待っていた。


 しょうがないため、「なにを聞きたいんだ」と僕も再度、椅子に腰を下ろす。


 雪姫は少しの間、言葉を紡ぐことを躊躇している様子を見せた。だが、そのうち覚悟が決まったのか、ゆっくりと問いを口にした。


 「気持ち悪いと思わなかった?」


 「なにをだ」


 要領を得ず、僕はすぐさま問い返す。


 「…レズビアンに、好かれてるかもって、話を聞いて」


 「あぁ、そんなことか」


 僕は、あの雪姫が襟を正して聞くことだから、とんでもないことを聞かれるのではないかと身構えていた。


 だからこそ、答えの分かり切っている問いに拍子抜けして、ため息混じりに言葉を返した。


 「告白されて気持ち悪いと思うかどうかに、性的指向は関係ない。僕がそいつを嫌いかどうかが重要だろう」


 持論を述べた僕は、少しだけ気分が良くなっていた。


 思えば、雪姫とはこういう時間が長い気がする。つまり、自分の思っていることを隠さずに語れる時間だ。


 それを聞いて彼女がどんな反応するかは、それこそ双方の価値観の違いによって左右される。


 呆れられるときもあれば、不愉快そうに顔を歪められることもある。かと思えば、ちょっとだけ嬉しそうにされたり、手放しの共感を得られたりすることもある。


 でも、今回は…。


 「…そう」


 雪姫は感情の読めない顔でそう呟くと、何もなかったみたいに荷物片手に立ち上がり、会計のほうへと足を動かした。


 喜怒哀楽の読めない、珍しい応対だ。


 人付き合いの経験が乏しい僕はそのとき、彼女が感情を押し殺しているなんてこと、小指の先ほども考えることはなかったのだ。

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