第4話 さよなら、ダークヒーロー.4

 雪姫とこうして屋上で会うようになって、一ヶ月と半分。


 幸か不幸か、部活動に興味がなかった二人は、暇さえあれば放課後こうして落ち合った。それは特に、二人の間に『友だち』の設定が追加されてから顕著だった。


 初め僕は、雪姫と友だち役として付き合っていくことになったものの、だからといって何をどうすればいいか皆目検討もつかなかった。


 しょうがないことだ。そもそも、人生を通して『友だち』と呼べる存在に恵まれなかったからこそ、僕はかつての憧れ(ダークヒーロー)を捨ててでもそれらを欲したのだ。


 その疑問を雪姫に尋ねれば、彼女は一瞬だけ困惑した表情を見せてから、なぜか怒ったふうに紅潮して、「ちょっとは自分で考えたの?」と僕を責めた。


 だから、僕なりにさらに考えを深めてみて、その内容を彼女に伝えた。


 「背中を預けるとか?」


 「は?なんの影響よ、それ。漫画?ゲーム?」


 「…そうだよ。悪かったな」


 おっしゃるとおり、ゲームの影響だ。自分の人格を形作ったものの影響と考えれば、自然ではある。


 「ふぅん、意外とオタク趣味なのね」


 雪姫はそれからしばらく険しい顔で僕を睨んでいたかと思うと、ため息混じりに肩を落とした。


 「…一緒に遊びに出かけるとか、他愛もない話するとか、そんなんじゃないの?知らないわよ、私だって」


 「まあ、それもそうだな」


 雪姫のほうが、少なくとも校内でのコミュニケーションは乏しい。いや、自分を除けば皆無といってもいいのかもしれない。


 そんな相手に助言を請うのも変な話だったが、雪姫のアドバイスのおかげで話せる人間が増えたのは間違いない。


 最近は、定期的に話しかけてくるクラスメイトも増えていた。そのどれもが僕が望んだような理解者ではないものの、やはり、好き好んで声をかけられれば嬉しいものはある。


 「だったら、来週の休日にでもどこか出かけるか?」


 「どこかって、どこによ」


 「さあ、僕は知らない」


 昔から、本質的にインドアな僕は、当たり前ながら雪姫の問いに対する答えを持ち合わせてはいなかった。


 「そうでしょうね」とどうでもよさそうに返す『友だち役』に、僕は肩を竦める。


 「じゃあ、他愛もない話…は、いつもやっているな」


 「そもそも、他愛もない話って何よ。定義を言いなさいよ、定義を」


 「そんなものに定義もくそもないだろ」


 自分で発した言葉を耳にしながら、最近、雪姫の影響で口が悪くなった気がする…と僕は自分で自分を分析する。


 六月も終わりが近い。


 照りつける日差しは、段々と夏の烈日を想起させるものに近づいているし、ただ話をするだけにしてもここではなくてよくなっている。


 それでも、不思議と僕はこの場所を待ち合わせの場所に選んでいた。


 クラスでは誤解を受けるような反応(例えば、変な皮肉とか)をしないために気を遣っているから、たまには肩の力を抜ける、人のいない場所にいたくなるのだ。


 雪姫も、教室では絶対に話しかけるなとうるさい。そのため、この場所に集まることに文句はないらしかった。


 「…それなら、結局は今までどおりね」


 雪姫が吐息混じりに漏らした声はどこか残念そうで、僕はできればそんな彼女を満足させたいと頭をひねる。


 よくよく考えれば、彼女が残念がるはずもないのだから、そんな気遣いは無用だったのだ。


 だけれども、そのときの僕は雪姫が自らの白いうなじを伏し目がちに撫で上げる様を見て、どうしても沈黙するわけにはいかないと思った。


 「だったら、下の名前で呼ぶなんてのはどうだ」


 「は?」


 物憂げに見えた雪姫の顔がみるみる間に歪んだ。


 「そのほうがよっぽど友だちらしい気がしないか?」


 「いや、いやいや、は?無理。あんた、私が自分の名前を嫌いなこと知ってるでしょ」


 「まあ」


 「まあ――じゃないわよ、ばか。舐めてんの?」


 強い言葉で僕の提案を跳ね除ける雪姫。


 なるほど、よほど自分の名前が嫌いらしい。彼女は元々拒絶的な人間ではあるが、強い言葉を使うときは心底気に入らないときか、照れ臭がっているときだけだ。


 今回は前者ということだろう。後者にしては顔が怖い。照れ臭さが微塵も見えない。


 「そうか…」


 僕は自分が出した意見が完膚なきまでに却下される様に、深々とため息を吐いて空を見上げた。


 夏の匂いがすぐそこまで来ている、青天井。あてもなく流れ行く白い雲は、夕暮れを探して西へと向かう。


 「雪姫」


 ぼそり、と彼女の名前を呼ぶ。


 実際に発してみると、これがなかなか素敵な響きだった。


 喉の奥から舞い上がった言葉は、舌の上で甘美に踊った。


 確かに変わった名前だが、文字も語感も文句のつけようもないくらいに美しい。


 一般的に名前に使用されないというだけでキラキラネームと揶揄され嫌われてしまうことには、少し納得のいかなさを覚える。


 「僕は綺麗な名前だと思うんだがな…」


 なんとなく自分の感想を呟いて雪姫を見やる。すると、彼女は顔を真っ赤にしてこちらを見つめているところだった。


 口をパクパクと金魚みたいに開閉しているから、せっかくの知的な面持ちが間抜けに見えてしょうがない。


 「どうした?」


 不思議に思いそう尋ねれば、彼女はぷいっ、と顔を背けた。


 何か気に障ることでもしただろうかと怪訝に思っているうちに、雪姫のほうから会話の口火を切ってくれる。


 「夕凪。そういうの、誰にでも言ってるの?」


 「そういうの?」


 曖昧な表現だ。雪姫にしては珍しい。


 「だから…な、名前が綺麗だとか、誰にでも言ってるのって聞いてるの!」


 「あぁ」と僕は得心したような、そうではないような、薄ぼんやりとした返事をしながら頭の後ろをさする。


 「僕も、最近は思ってもいないことを言うのが上手くなったからな…考えてみれば、増えたのかもな」


 「…あっそ」


 「だからこそ、北宿にまでそんな余計な気を遣うつもりはない。ああいうの、疲れるんだ。たまに馬鹿馬鹿しく思えてしまうこともある。…ふっ、今さらやめる勇気もないのにな」


 近頃、自分の意志で望んで変わろうとしているにも関わらず抱いてしまう複雑な心境を吐露すれば、雪姫は自嘲気味に笑う僕とは打って変わって、ちょっとだけ唇を尖らせて満足げに応じた。


 「なによ、それ。どっちなの、はっきりしなさいよ」


 「なんだ、北宿。今日はやたらと察しが悪いな。調子でも悪いのか?」


 「…いいから、答えなさいって」


 僕は雪姫のよく分からない催促に促され、「北宿にはお世辞は言わない。馬鹿らしいだろ」と答えてみせた。


 すると雪姫は、ぎゅっ、と唇を閉じてなにかをこらえるような顔をした。


 だから僕は、てっきりこちらの解答が気に入らなかったのだろうと予測した。そういうときにしつこく同じ話題を続けると、彼女は決まって激昂するので、自分なりにスマートに話題を切り替えた。


 近づく期末テストの話、夏の匂いがする雲や空の話、最近、決まって話しかけてくれるクラスメイトの応対方法が分からないという話…。


 いつもだったら、投げやりなときもあるが話の相槌だけは必ず打ってくれる雪姫が、なぜかずっと黙っていた。


 横目で静かに様子を窺えば、雪姫はぼうっとしたような顔でじっと青い空を見つめていた。


 それこそ、一点を凝視して…その先に何か大事なものでもあるみたいに、熱心にやっている。


 少しして、ようやく雪姫に動きがあった。ただ、動きとはいっても、膝を抱えて頭をその間に埋めただけだ。殻にこもっている具合は加速してしまった。


 「おい、北宿、大丈夫か――」


 「馬鹿みたい」


 不意に、突き放したみたいな声。


 気になっていたとおり、やはり、彼女を怒らせてしまっていたか…と僕が謝罪を口にしかけたそのとき、もぞり、と雪姫が膝の間から顔を覗かせた。


 「この気障野郎。馬鹿みたいなこと言わないでよ、あー、ほんと、馬鹿みたい」


 色白な雪姫の頬が、耳が、血のような赤に染まっている。


 新雪に落ちた血の雫を思わせる彼女の表情に、僕の息は止まる。


 綺麗だ、と思った。それ以上の言葉はなかった。


 小学生でも使えるような、チープな言葉。


 北宿雪姫の美しさを、羽化寸前の少女が魅せる耽美さを、それらを表現する術を持たないことをこんなにも情けなく思うことは今まで一度もなかった。


 自分だって、その一部なのに。


 でも、雪姫は違った。


 僕とは違う何かを、彼女は持っている。


 僕が焦がれてやまない――やまなかったなにかを、彼女は胸のうちにたぎらせ、生きている。


 「ふんっ、そんな馬鹿みたいなことを言うくらいなら、勝手に呼べば?北宿でも、雪姫でも。ふん…そうよ、勝手にされるぶんには、しょうがないんだから…」


 僕はその日から、北宿雪姫のことを『北宿』ではなく、『雪姫』と呼ぶようになった。


 たったそれだけの変化だ。口にする文字数は変わらない。


 たった、それだけのこと。


 月と太陽が入れ替わり続ける荘厳な大自然の摂理に比べれば、語る必要もないこと。


 それなのに僕はその日以降、雪姫と一緒にいる時間のいくらかばかりか、自分自身でも訳の分からない胸の高鳴り、締め付け感を覚えるようになったのだ…。

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