第4話『舞と鍵穴』
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### **デンジャラスアウトसाइडBeautyズ**
### **第四話『舞と鍵穴』**
さゆりが神殿の「聖域」で人の心を洗い、まゆみが酒場の「魔境」で人の心を掴み始めた頃、次女のナオミは、王都の光と影が最も鮮やかに交錯する場所――市場(スーク)を舞っていた。
彼女は、旅芸人の一座に紛れ込んでいた。特定の元締めに所属するわけではなく、日によって違う一座に加わり、日銭を稼ぐ。その舞は、見る者を虜にした。時にはヌビアから来たという情熱的な戦士の舞を、時にはナイルの精霊を模したという幻想的な水の舞を。彼女の体はまるで上質な粘土のように、どんな役柄にも自在に変化した。
しかし、その舞は彼女にとって、生活の糧であると同時に、優れた「商品見本」でもあった。彼女は、観客の中から自分を最も高く買ってくれる「客」を常に見定めていた。金払いの良さそうな商人、退屈を持て余している貴族、そして何より、瞳の奥に切実な「願い」や「企み」を隠している男たちを。
その日、ナオミの目に留まったのは、香辛料貿易で財を成したという商人・アズワンだった。彼は市場の特等席で、ナオミの舞を値踏みするように見ていたが、その視線には欲望よりも、焦りと苛立ちの色が濃く浮かんでいた。
舞が終わり、ナオミが観客から投げ銭を集めていると、アズワンの使いがそっと近づいてきた。
「我が主人が、お主と話がしたいと」
案内されたのは、市場の奥にある豪奢な天幕の中だった。アズワンはナオミを座らせると、単刀直入に切り出した。
「お主の舞、見事だった。特に、あの猫のようにしなやかな身のこなしが気に入った」
彼は地図を広げ、ある屋敷を指差した。
「今宵、ライバルである宝石商・カディールの屋敷で宴が開かれる。そこへ臨時雇いの踊り子として潜り込み、奴の取引帳簿がどこにあるかを探ってほしい」
それは、踊り子への依頼ではなかった。密偵への依頼だ。
ナオ-
-ミの唇に、微かな笑みが浮かぶ。ようやく、まともな「仕事」が来た。
「報酬は?」
「成功すれば、これだけ払う」
アズワンが提示した銀貨の袋は、ナオミが市場で一月かけて稼ぐ額よりも多かった。
「お断りします」
ナオミの即答に、アズワンは面食らった。
「…足りぬと申すか」
「いいえ」
ナオミは、ゆっくりと首を横に振る。
「わたくしはただの踊り子。そのような危険な真似は…」
彼女はそこで言葉を切り、潤んだ瞳でアズワンを見つめた。その表情は、か弱く、世間知らずな少女そのものだった。
アズワンは舌打ちする。この手合いは金だけでは動かない。彼は、懐から小さな袋を取り出した。
「…これは、東の国から取り寄せた特別な香油だ。どんな女も美しくすると言われている」
ナオミはその香油を受け取ると、悪戯っぽく微笑んだ。か弱き少女の仮面は消え、そこにはしたたかな夜の蝶の顔があった。
「話が分かる方で、ようございました。…それで、その帳簿はどんな特徴が?」
その夜、ナオミは宝石商カディールの屋敷にいた。
アズワンの手配で、宴の余興を演じる踊り子の一団に、彼女は少しも違和感なく溶け込んでいた。今日の彼女が演じるのは、「砂漠に迷い込んだ旅の娘」。物憂げで儚げなその姿は、男たちの庇護欲を強く掻き立てた。
やがて宴もたけなわとなり、ナオミの舞の番が回ってくる。
彼女は広間の中心に進み出ると、静かに音楽に身を委ねた。ゆったりとした、夢見るような舞。しかし、その動きの一つ一つが、計算され尽くしていた。
右手を天に掲げる動きで、広間のシャンデリアの配置と警備兵の視線の死角を確認する。
しなやかに体を反らせる動きで、主賓席に座るカディールの鍵束が、どの腰袋に収められているかを記憶する。
回転する動きで、客たちの視線を自分一人に集め、他の踊り子たちが壁際に追いやられるよう誘導する。
そして、舞がクライマックスに達した瞬間。
ナオミは大きく跳躍し、まるで体調を崩したかのように、主賓席の近くにふらりと倒れ込んだ。
「きゃっ…!」
悲鳴と、周囲の男たちの驚きの声。カディールが慌てて駆け寄り、彼女の腕を取って助け起こす。
「大丈夫か、娘さん」
「申し訳ありません…少し、目眩が…」
ナオミは、か細い声で言いながら、カディールの腕を借りて立ち上がる。
その、ほんの一瞬の接触。彼女の指先は、まるで水が砂に染み込むように滑らかに動き、カディールの腰袋から鍵束を抜き取っていた。
その後、ナオ-
-ミは「体調が優れないので」と広間の隅で休むことを許された。誰もが彼女を心配し、気遣う。しかし、その同情の視線が作る「壁」の内側で、彼女はすでに次の行動に移っていた。壁のタペストリーの影に隠れ、抜き取った鍵束の中から目当ての鍵を瞬時に選び出す。書斎の鍵だ。
彼女は、まるで影そのものになったかのように、壁際を滑るように移動する。人の視線、柱の影、音楽の音量、その全てを味方につけて。彼女のしなやかな体は、どんな鍵穴もすり抜ける鍵そのものだった。
書斎に忍び込むと、すぐに目当ての帳簿を見つけ出した。彼女はそれを盗まない。ただ、記憶するだけだ。数ページをめくり、重要な取引相手の名前と数字を脳に焼き付ける。
宴に戻った時、彼女は再び儚げな踊り子に戻っていた。鍵束は、カディールが別の客と談笑している隙に、いつの間にか元の腰袋へと返されていた。
仕事は、完了した。
これは、ただの始まりに過ぎない。
ナオミという女は、どんな場所へも「派遣」され、どんな役柄にもなりきり、そして必ず目的を遂行する。
彼女の舞は、人の心を惑わすための罠。
彼女の体は、どんな扉も開けるための鍵。
王都の夜に、男か女かも定かぬ不思議なカリスマが生まれ、そしてもう一人、どこへでも忍び込む危険な夜の蝶が、その羽を広げ始めていた。
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