第四話:冴えないオッサンの生存戦略
エリアーナと名乗った彼女は、自分の腕の傷に顔をしかめた。ゴブリンの爪が掠めたのだろう、浅いが出血が続いている。
「手当てをしないと」
健司は、ほとんど反射的に彼女のそばに膝をついた。前職で安全衛生委員をやらされていた時に叩き込まれた、応急処置の知識が頭をよぎる。
「動かないで。まずは止血だ」
自分の服の裾をためらいなく引きちぎり、清潔そうな部分で傷口を強く圧迫する。エリアーナは驚いたように目を見開いたが、健司の真剣な眼差しに、何も言わずに身を任せた。
「追っ手は、また来るだろう。それも、今度はゴブリンではない」
応急処置を終えた後、エリアーナは厳しい表情で言った。彼女を追っているのは、王国の転覆を狙う反乱軍の一派らしい。
絶望的な状況。だが、健司の頭は、不思議なほど冷静だった。プロジェクトが炎上し、納期と予算と仕様変更の板挟みになった修羅場に比べれば、まだマシだ。敵の正体と目的がはっきりしているだけ、対処のしようがある。
「いくつか、確認させてほしい。追っ手の規模は? 彼らの目的は、あなたの身柄の確保か、それとも殺害か? この森の地理には詳しいか? 安全な場所まで、あとどれくらいだ?」
矢継ぎ早に飛ぶ質問に、エリアーナは面食らったようだったが、その問いがいずれも的確で、状況把握に不可欠なものであることを即座に理解した。彼女は、健司をただの記憶喪失の男ではないと再評価し、簡潔に答えていく。
追っ手は5人程度の小隊。目的は生け捕り。森の先にある人間の街まで行けば、協力者がいる。距離は、歩いて半日ほど。
「半日か……。夜通し歩くのは危険すぎる。どこかで夜を明かして、体力を回復させるべきだ」
健司は周囲を見渡した。「リスク管理の基本は、最悪の事態を想定して、打てる手を全て打つことだ。まずは痕跡を消そう。彼らが追跡のプロなら、足跡や血痕を見逃さないはずだ」
健司は、大きな枝を使って地面を掃き、足跡を乱した。血の匂いを消すため、近くの沢から水を汲んできて地面に撒く。その手際の良さに、エリアーナは感心したように息を呑んだ。
「あなたは一体……何者なのだ?」
「ただの……しがない中間管理職だよ」健司は自嘲気味に笑い、続けた。「敵を欺く最善の方法は、敵の予想を裏切ることだ。彼らは俺たちが必死に街へ向かうと思っているだろう。だから、俺たちは敢えて逆方向へ少し進み、それから大きく迂回して街を目指す。そして、途中で罠を仕掛ける」
「罠だと? 素人に作れるようなもので、あの連中が止まるとは思えんが」
「殺すための罠じゃない。足止めと、心理的な揺さぶりをかけるためのものだ」
健司はそう言うと、森のツタやしなやかな若木を使い、原始的なブービートラップを仕掛け始めた。キャンプ好きの同僚から聞いた知識と、子供の頃の秘密基地作りの記憶が、妙に鮮明に蘇る。
「こんなもので……」
「意味はあるさ。敵はこれを警戒して、進軍速度を落とさざるを得ない。神経をすり減らし、判断力を鈍らせる。俺たちが稼ぎたいのは、時間と、敵の焦りだ」
その言葉には、数々のデスマーチを乗り切ってきた者だけが持つ、奇妙な説得力があった。エリアーナは、目の前の冴えない中年男が、得体の知れない策士のように見え始めていた。
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