4.埋もれた思い出

見知らぬ青年はそう言うと、場所を変えようかと言ってグラウンドの隅にある小さな林へと歩き出した。その後に続いて林へと歩く。

「……で、君は誰なの?」

警戒を解かず、みそらが慎重に尋ねる。すると、彼は参ったと言わんばかりの乾いた笑みを浮かべた。

「まぁ無理もないか。青喜田って名前、覚えてないかい?」

「アオギタ……」

気づけば、みそらと顔を見合わせていた。目が合ったみそらは、力なく首を振った。当然、僕にも覚えが無い。そうして、僕達姉弟が揃って青喜田君を見つめると、彼は少し呆気に取られてから、首を振った。

「忘れていても仕方ないか。僕は、君達と同じクラスになったことが無いからね」

それなら、覚えていないのも無理ない話である。小さい中学校とはいえ、一学年につき三クラスあった。卒業から八年も経てば、大半の同級生のことは忘れてしまう。彼には申し訳ないが、覚えている方が珍しい気がした。

「それで、その青喜田君が何の用なの?」

すみれ先輩が首を傾げる。すると、彼は林の中でも一際大きな木にもたれかかって、僕達を見つめた。

「時羽君達は、惣助先生のお葬式に出るために戻ってきたんだよね?」

彼の言葉に、みそらと揃って頷く。

「僕は呼ばれていないから出ることは出来ないんだけど、久しぶりに先生の名前を聞いたら、思い出したことがあってね。その思い出の中に君たちがいたから、僕の記憶に間違いが無いかどうか確かめたかったんだ」

「……え?」

少しまどろっこしい言い方に、呆けた声が出てしまう。そんな僕を見て、彼は咳払いをした。

「要するに、僕の中で記憶を整理して、僕なりに先生を弔いたいから、その記憶について確かめたい、ということだよ」

そこまで言われてようやく納得がいった。お葬式に出られない以上、自分の中で先生の死について整理するしかない。そのために、僕達に協力してほしい、ということだろう。彼の気持ちは、何となく分かる気がした。僕が彼の立場なら、きっと同じようにしている。

「ふぅん。それで、その『思い出』って何?」

まだ警戒しているのか、みそらが険しい声で尋ねる。すると彼はふいに空を見上げた。

「あれは、丁度今日みたいによく晴れた日だったな」

その瞬間、夏にしては涼しく爽やかな風が、僕達の間を吹き抜けていった。風の吹いてきた方向に目を向けると、誰もいないグラウンドを見つめるように立っていたサッカーのゴールのネットが、穏やかに揺れていた。今日みたいに晴れた日に、この林で、僕は。そこまで考えた瞬間、頭の中を閃光が駆け抜け、すっかり埋もれていた記憶が溢れるように蘇ってきた。

そう、あれは、悲しいくらいに晴れた初夏の日だった。

『ったく、アイツら、逃げ足だけは速いんだよなぁ』

そうぼやきながら、惣助先生が箒で落ち葉を掃除する。放課後の掃除で、僕達姉弟とあと二人が当番になっていたのだが、障害者とは一緒にいたくないとか何とか言い残し、掃除を放棄して帰ってしまったのだった。みそらと二人で途方に暮れていたところ、先生が代わりに掃除をすると言ってくれたため、三人でこの林を掃除していたのだった。

『けど、落ち葉の掃除ってのは悪くないかもな。こういう落ち葉の下には、大体何かの幼虫がいるって――』

先生の陽気な独り言を後目に黙々と掃き掃除をしていた、その時であった。突如、手首を掴まれた。見ると、僕の手を掴んだのは惣助先生であった。先生は、僕の手首を見ると、一言だけ言った。

『……ツラいのか』

その言葉に、僕は何も言えなかった。惣助先生が見ていたのは、僕の手首にあった自傷痕であった。シャーペンやボールペンで入れた何本もの線状の歪な傷が、皮膚に血を滲ませて生々しく刻まれている。そう、学生時代の僕には、深刻な自傷癖があった。誰かに暴行される度に、この生命を否定され呪われる度に、障害者だ知恵遅れだと道化に仕立て上げられる度に、僕は負の感情を己の身体に傷として刻み込んでいた。最初は腕に刻んでいたものの、みそらに見つかってこっぴどく叱られたため、見えにくい手首に刻むようにしていたのだった。だが、惣助先生の観察眼は鋭く、見えにくいはずの手首の傷跡を見つけた。

『これ……時羽! あれだけダメだって――』

箒を捨てて声を荒げたみそらを、先生は無言で手で制した。それから、手首の傷跡を指でなぞった。

『この傷の数だけ、お前の心が壊されたってことだよな。これだけ苦しい思いをしていたのにまるで気づかないなんて、担任失格だな、俺は』

そう言って自嘲気味に乾いた笑い声を上げると、先生はポケットから何かを取り出そうとした。先生が何をしようとしているのか。すぐに分かった僕は。

『おい……時羽?』

先生の手を、振りほどいた。僕に、そんな価値は無い。

『担任失格だなんて、言わないで下さい。悪いのは、僕なんです。僕がもっと強ければ、僕が『普通』であれば、僕が我慢さえすれば、全部丸く収まる話です』

先生は、何も悪くない。間違ってもいない。悪いのは、あくまで僕である。

『僕には、何の価値も無いんですよ。みそらにも、先生にも、心配してもらう程の価値なんて無い。こんな傷を負うのだって、当然の報い。だから、僕は――』

そこまで言いかけた、その時だった。

『譲れないな』

先生はそう言って、強引に僕の手首を掴んだ。それから手早く絆創膏を貼り付けた。

『価値なんてモンは、誰にも決められない。俺にも、みそらにも、時羽自身にも、な。悪いが、これは譲れない』

『そんな……先生も僕を――』

否定するんですか、そこまでは言えなかった。先生が、僕の口をつまんで塞いだからであった。

『否定なんかするか。少し見方を変えてみたらどうだって言ってるんだ』

『見方、ですか?』

みそらが首を傾げる。一方の先生は頷くと、僕の口を解放してくれた。

『時羽は、自分に価値が無いと言ったな。なら、どうしてみそらはお前のことを庇ってくれるんだ?』

『それは……』

酔狂だ、と言いかけて飲み込んだ。その言葉が、あまりにも残酷であることは、僕にも分かった。

『みそらにとってお前は家族で、ただ一人の弟だから、だろ。別に時羽がみそらに何か利益をもたらしてるわけじゃない。それでもみそらにとっては、それだけ時羽が大切なんだよ。家族だから、弟だから、大切にしたい。そこに金かなんかと同列の『価値』なんて物差し持ってくる方がナンセンスってモンだろうよ』

みそらにとって、僕はただ一人の弟である。家族であり、弟である。それだけで、みそらにとって僕はかけがえのない存在なのだろう。そこに、損得なんて無機質なものは要らない。金品を測るかの如く『価値』という物差しを用いて測るのは、確かに合わない気がした。家族が大切という感情に、理由も利害も必要無い。だが、同時に一つ疑問も浮かんだ。

『なら僕は、他人のために生きるんですか?』

その言葉に、先生は微笑んだ。

『最初はそれでもいいだろう。誰かがいるから、生きる。そんな生き方もダメではない。ただ、そうして生きていった先で、自分のために生きたり、自分がこの人のためならって思えたりできたらいいよな。いや、多かれ少なかれ、そんな生き方になる時が必ず来る』

そう言われ、絆創膏の貼られた手首を見つめる。自分がどうかではなく、他人に必要とされているから、生きる。逆に言えば、その人がいなければ、あるいは必要としなくなれば、生きる意味が無いという、他力本願で不安定な生き方。でも、案外この世界はそんな『寄りかかり』で成り立っているのかもしれない。誰かは誰かのために生きて、その誰かも、他の誰かにとって大切な存在だから、生きている。お互いに寄りかかり合う、そんな世界。そしてその果てに、自分の意志で立って生きる時が来る。自分の指すら見えない暗闇の中に、一筋の光が差した気がした。

『俺だって、しっかり仕事しなきゃカミさんにどやされるから生きてるんだ。あ、いや、別にお前たちは二の次とかそういうことじゃなくて……』

途端に先生の口が回らなくなる。折角いいことを言っていたのに、台無しである。だが、それが先生の良さである。何より、どしゃ降りの僕の心をほんの少し晴らすには、その言葉だけで十分であった。気づけば僕達は、笑い合っていた。

そう、晴れて少し暑い、初夏の日の放課後のことであった。

「……って話。覚えてるかい?」

青喜田君の声で、我に返る。彼の思い出は、僕の心にも確かに刻み込まれていた。埃を被って埋もれてしまってはいたが、忘れることなどない、大切な思い出である。

「そういえば、そんなこともあったね。でも、なんで君が知ってるの?」

みそらがそう言うと、彼は微笑んで頷いた。

「あの時、僕もグラウンドの掃除を任されててね、近くを掃除してたんだよ。それで聞こえてたのさ」

彼の言葉に、みそらがなるほどと頷く。それならば、あの時のやりとりを覚えているのも納得である。

「僕も先生には少なからずお世話になったからね。あんな風に生徒に寄り添えるんだって、記憶に残ってたんだ。うん、これで僕も、先生の死と向き合えそうだよ。協力してくれてありがとう」

そう言って、青喜田君が背を向けてその場を後にしようとする。その時、僕は反射的に声を上げていた。

「どうして、わざわざ教えてくれたの?」

その声に、彼はゆっくり振り返った。そして。

「確認したかったのと……君の背中を押すため、かな」

それだけ言い残し、林を後にしてしまった。熱い風が吹き抜ける林に、僕達三人だけが取り残される。

「うーん、本当にあんな子、いたかな? 時羽に友好的なら、私も覚えてると思うんだけど」

みそらが首を傾げる。確かに、僕に対して敵対的な人こそ多かったが、普通に話してくれる人は極めて珍しかった。まして、僕に、先生に関する思い出話をしてくれるくらい、友好的な人物は。単純に優しい青年で片付ければ済む話ではあるが、それでは腑に落ちない何かがあった。

「彼には悪いけど、忘れちゃうことって誰にでもあるよ。だから、気にしても仕方ないって」

慰めるように言う先輩に、揃って頷く。それから、僕たちも林を後にし、校門へと歩き始めた。改めて学校を見渡すと、意外と小さかったことを実感する。あの頃は広いと思っていた空間も、こうして大人になって見てみると、思いの外小さいものである。広くて仕方なかったグラウンドも。そう思った、その時だった。

「グラウンド掃除なんて、無かったはず……」

ふと、思い出した。グラウンド掃除は野球部の仕事だったため、普通の生徒は請け負っていなかった。つまり、青喜田君の言葉は嘘ということになる。

謎多き青年、青喜田君。彼は、何者なのだろうか。

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