第二章

 微睡む意識の中で、俺はいつもあの人のことを見ている。微かにルビーの色が走る髪の毛に、目を奪われる。

 ああ、覚えている。まだ、ちゃんと覚えている。輪郭、瞼、声。

 うるさい。なんだ。邪魔しないでくれ。アラームか。執拗なまでの電子音が騒々しい。俺はどうにか瞼を半分開き、ベッドライトを点ける。アラーム時計の所在を確認し、その頭を軽く叩く。デジタルの時計が七時を示していることを認識すると同時に音が鳴り止む。何もなかったような顔をして静寂が再び寝室を満たす。

 あれ、なんだっけ。ついさっきまでなにかを見ていた。そうだ、とても良い夢を見ていた気がする。なんだったか。

 続きを見ようとして再度目を閉じてみるが、俺の期待とは裏腹に徐々に脳が冴えてゆくのを感じる。

 もどかしさに身体をゆらされて、渋々目を開く。そうして目覚めると、いつも忘れている。その、惜しくも消えきらぬ余韻だけが、枕元に浮かんでいる。掬いあげようとするが、手は雲よりもずっと儚い何かを掴んで、それで終わる。洗面所に立つ頃には、跡形もなく蒸発している。

 またか。これで何度目だろうか。あの日から俺は、妙に確かな喪失感を抱えて呼吸することを強いられている。

 なんとやりきれないことだろう。世界の誰一人として、それを思い出せる人はいない。目を開いた次の瞬間には、それを世界に記録する術を取り上げられている。

 この虚しさを何が埋めてくれるのか。まさに今俺の口に吸い込まれんとするこの食パンではないだろう。この穴を塞ぐ任務は、彼には荷が重すぎる。休日に決まって淹れるホットミルクはそれなりにこの穴を満たしてくれる。案外大した傷ではないのかもしれない。

 それにしても、と思う。

 今日はなんだかやけに体が重い。昨夜の一件が案外堪えたのだろうか。肉体の疲労よりも精神的なそれを強く感じる。窓際で体を丸めるロッカーは、欠伸をする俺の阿呆面を笑っている。

 朝は嫌いではない。一日の始まりというのはなんだかそれだけで希望のようなまやかしを与えてくれる気がする。ただし早起きは嫌いだ。朝の身支度の全自動代行マシンが欲しい。俺の全身に貼られた電気パッドが神経に電気信号を送って、勝手に洗顔や着替えを肉体に強いるのだ。もしくは、お湯や石鹸の泡を一思いにぶっかけてくれても良い。ああなんと画期的なマシンだろう。現代のトーマス=エジソンの出現を願ってやまない。

 そうは言っても、今の世界のどの国を探したって、そんな者はきっと現れないのだろう。

 〈火雨の日〉。文字通り、炎が空から降り注いだ日。人間の愚行、その最果て、環境破壊と戦争。現代のユーリイ=ガガーリンがいれば、「地球は黒かった」とでも言うのかもしれない。数多くの文明と人口が戦火に炙られ、灰色の瓦礫の下に葬られてしまった。

 俺が住むR–01地区は、そんな焦げた地球の復興を目指す開拓地の一つだ。元々は一つの大陸を丸ごと統べる大国の都市であった。

 もう、あれから十年が経っていた。忙しなかったあの喧騒を、今となっては思い出すことも出来ないでいる。

 ロッカーへの餌やりもそこそこに、俺はこの素晴らしい朝に惰眠を貪る人間を起こしにゆくことにする。今日はいつもと違って起こすべき対象が二人いる。まずは。

 「プーマ、起きろー。朝飯できてるぞ」

 「……うん」

 掠れた声の返事が聞こえる。毎度のことだ。数分もすれば部屋から姿を現すだろう。

 さて、もう一人の方だ。女はリビングで昨夜と変わらぬ姿勢で眠っている。人形のようなやつだ。

 呼びかけようとして、そういえばまだ名前を知らないな、と思った。

 「おい、起きれるか。朝だぞ」

 肩を揺らしながらそう呼びかける。その時、女の上着のポケットから何かが落ちる音が聞こえた。万年筆の掛かったメモ帳だった。女が昨夜筆談に使用していたものだ。横開きになっていて、黄褐色の表紙には「リン」という文字が端正に手書きされている。


 俺はその名前を知っている気がする。

 

 好奇心が一ページ目を開こうとしたところで、女の頭が動いた。急いでメモ帳から手を離す。俺は何食わぬ顔で「おう、起きたか。飯できてるぞ」と言い、女の視線をテーブルの食パンに促した。女は数秒、状況を掴めないといった困惑顔を見せたが、やがて何かに気づいたようにメモ帳を手に取り、書いた。

 『ありがとうございます。顔洗ってきます』

 俺がそれを読むや否や、女は立ち上がってキッチンの方へ駆け出した。

 「おい、洗面所はあっちだぞ」

 そう叫んで洗面所の方を指差してやると、女は瞬時に引き返し、正しい方向へと進んでいった。

 忙しないやつだ。

 二人が食卓につく。プーマは眠い目を擦っている。女は先ほど起床したばかりとは思えぬ整った身だしなみで朝食を口に迎える。

 「カンさん、今日は一日暇なんだよね?」

 今日は日曜日だった。

 「そのはずだったんだが。流石にそこの姉ちゃんをほっとくわけにもいかないからなあ」

 「えー、なんだよ。せっかく遊べると思ったのに」

 俺は一応の申し訳なさを覚えるが、年齢に似合わぬ彼の物判りの良さには助けられることも多い。

 「そういえば姉ちゃん、名前なんて言うんだ?」

 プーマは女の方に向き直って尋ねる。女はメモ帳に書いてプーマに見せる。

 「リン? へー」

 それだけ言うとプーマは急に興味を失ったように再びパンに齧りつく。自分から訊いておいてその対応はこちら側が肝を冷やしてしまう。

 リンは俺の方にもメモ帳を向ける。その端正な文字は、裏表紙に書いてあった筆跡と全く一致する。

 「リンさんはどこから来たの?」

 つい今し方あれほど興味が失せたと思われたプーマがリンに尋ねる。

 昨日俺が似たような問いを尋ねたときのように、リンはやはり眉を顰め、何か迷ったような顔でメモ帳に慎重に何かを書く。しかし、果たしてその内容は予想外のものだった。

 『私の私情に巻き込まれてもらえますか?』


 向かったのは、家から小一時間ほど歩いた場所にある廃墟だった。見たところ五階ほどの高さがあるようだが、暗くてはっきりとは判らない。何に使われていたのかも判らない。病院……に見えなくもない。入り口の門には鎖が繋がれている。


 俺はこの建物を見たことがある気がする。


 リンは、「こっちよ」とでも言うように迷わず歩みを進める。彼女に率いられ、俺たちは門の壁に沿って廃墟の裏側へと回った。

 今朝リンは、自らの正体とここに来た目的を明かした。メモ帳を何枚か捲った先に、文字がびっしりと書かれているページが現れる。恐らく事前に用意しておいたものなのだろう。

 「はじめまして。リンと申します。隣の地区から来ました。越境が禁止されていることはわかっています。しかし、私にはどうしても為さなければならないことがあって、ここR−01地区に侵入しました。とある人を探しています。協力していただけませんか」

 そこまで読み上げると、俺は思わずプーマと目配せをした。

 地区間の越境者など、出会ったこともなければ聞いたこともない。それが物理的に可能なのかという点にも疑問が残る。しかし、現に目前の彼女がそう言うのなら、きっとそうなのだろう。今はリンの話を信じるほかない。

 「それで、誰を探してるんだ?」

 越境の禁忌を犯してまで会いたい人なのだから、リンにとって極めて重要な人物であることには違いない。旧友か、恋人か、家族か、それとももっと関係の深い何者か。

 『少し説明しづらいのですが、簡単に言うと私の父です』

 ふむ。これまたなんとも煮え切らぬ返答で困惑する。ただの親子関係を「説明しづらい」ということがあるだろうか。なにか計り知れぬ因縁を感じる。しかしまあ、『父』という部分だけ見ればそれほど意外でもない。十年前の〈棲み分け〉が為されたときに袂を分かちてしまったのかもしれない。

 しかし、恐らく二十歳前後であろうリンの父親ということは、俺と同世代だったりするのだろうか。歳の近い知り合いはいくらでもいるが、昔娘と離別したというような話は誰からも聞かなかったような気がする。残念ながら現段階ではなんら心当たりがなかった。

 知り合いの顔を思い浮かべているうちに、リンが続けてメモ帳を見せる。

『父の居場所を突き止める手がかりになりそうな場所があって、そこに行きたいんです』

 そう伝えられて、俺とプーマ、それからロッカーはリン先導の下、件の廃墟へと向かうことになったのだ。

 まだまだ疑問は尽きぬが、ここまで来てしまったからにはついてゆくほかない。

 俺たちは廃墟の入り口から見て反対側に辿り着く。リンは勝手口らしき扉を見つけると、少し躊躇した後、意を決した表情でドアノブを回した。

 扉は不自然なほど自然に開いた。一応ドアノブには鍵穴らしき斑点が見えるが、もはや機能していないらしい。

 開いた扉から廃墟の中を伺うが、全くと言っていいほど先が見えない。おそらく何らかの廊下に繋がっているのだろうということだけがかろうじて判る。

 リンは素早くメモ帳に「行きましょう」と書いてみせた。しかし、俺はこれより先へ歩みを進めることに少しの抵抗を覚えていた。

 彼女の覚悟が決まっていても、俺の覚悟は決まっていない。一寸先は暗闇だ。灯りは持ってきたものの、こんな不気味な場所にそそくさと足を踏み入れるには幾分か光量が頼りなかった。しかしそれ以上に、あまりにも知らないことが多すぎる。リンの生い立ちを知らない。彼女が『父』なる人を探している目的を知らない。この廃墟に何があるのかを知らない。まだ互いに出会って二十四時間も経っていない。言ってしまえば得体の知れぬ人間同士にほかならない。彼女がなぜ俺にそこまで期待を寄せるのかも解らないし、俺がなぜここまでついてきてしまったのかも解らない。それでも、ここで引き返すという選択肢を採ることにも、やはり幾分かの抵抗があった。

 心に渦巻く葛藤に、プーマの声が重なった。

 「うおー! 冒険みたいでワクワクしてきた。な、カンさん。早く行こう!」

 屈託のない彼の声色は、俺の心に一筋の風を吹かす。心を布団にして眠っていた俺の童心が、寝ぼけ眼を開いた気がした。

 俺はひとまず、その感触を信じてみることにした。

 ロッカーが小さく「なー」と鳴く。歯車の動き始める音がする。

 外から扉へと吸い込まれてゆく空気に背中を押され、俺は重い一歩を暗闇に踏み入れた。

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