第8話 馬鹿の分かれ道
病院に行くよう言い張る母を振り切り、月曜日の朝はいつもより早く家を出た。昨日、一昨日とオッサンとは会っておらず、私は祓い屋の修行が始まるのを楽しみにしていた。
三日前の登校日よりも通学路には人が少なく、黒い塊のこびりついた獣の姿は遠くからでもすぐに分かった。途中まではバス停に向かう道と同じだが、猿を引き連れていたのは、私の制服と同じグレーのチェック柄のスカートだった。恋のおまじないが学校で広まっているのだろうか。そう危ぶんだが、獣がまとわりついていたのは
「杏奈……! アンタ、まさか……」
私の声に気づいて振り向いた杏奈は、まるで焦げたトーストを口へ入れたみたいに顔をしかめた。朝からツイていない、そんな心の声が聞こえてきそうだった。私が近づくと、杏奈は腕を組んでため息をついた。
「あのさぁ、夏休み明けデビューは、よそでやってくんない?」
予想もしていなかった言葉に、私は柄にもなく固まってしまった。二の句が継げずにいると、杏奈は目を細めて口元を引き上げた。
「ごめ~ん、図星だったぁ? あんた、昔っからそうだったもんねぇ~」
「昔から……って?」
誠意のこもらない謝罪をされ、私に訊けたのはそれだけだった。
「私、霊感あるんですぅ~、ってヤツ。ずっとイタイと思ってたんだよねぇ~。さすがに高校入ってからはおとなしかったから卒業したんだと思っていたんだけど、なんなの? 金曜日のアレ。男子殴っただけじゃ足りなかったの? 血のりまで用意しちゃってさぁ~」
言葉を失う私に反し、杏奈は饒舌だった。
「古っい祠に行った後だし、目に異常も出てたからあんたに声を掛けられてドキッとしたけどさぁ~。さすがに目から血を流すとか……引くわー」
さんざん馬鹿にされ、私は拳を握りしめた。私の霊感を信じないのは構わないが、杏奈の身勝手な考えに腹が立っていた。獣がいるということは、杏奈は恋のおまじないに手を出したのだ。神様に怒りを向けられたことは信じないくせに、恋を叶えてもらおうなんて、なんて虫のいい考えなのだろうか。
「一昨日も家に押しかけてゴミ持ってくるし、マジなんなの?」
「だがら、アンタたちが……」
私が拳を持ち上げると、杏奈の足元で動きを止めていた猿が私の前に来た。穴のような瞳が一瞬だけ輝き、殴る必要はないと諭された気がした。私は頷いて拳を収めた。
「なっ、何よ?」
「別に……もういいや」
私が殴らなくても、杏奈のことは神様が罰してくれる。
言い負かせたと思ったのか、杏奈は鼻を鳴らして私に背を向けた。怒れる神と去っていく幼馴染に私がかける言葉はなかった。
私はそのまま引き返して別の道を進んだ。学校へ行く気は失せており、サボり場所としてよく使う土手に向かう。手を頭に、仰向けで寝転がりながら、夏よりも高くなった空を眺めた。
「よう、生きていたか」
上からオッサンの声とともに、ぬっとオレンジジュースの缶が現れた。視界に入るそれを反射的に受け取ったが、缶の表面は乾いていた。
「……ぬるいんだけど」
「この前、酒屋でもらったやつだからな」
私の文句に悪びれた様子もなく、オッサンは胡坐をかいて座ると、着物の懐から缶コーヒーを取り出した。水滴の浮いた缶を開け、一口飲んでからオッサンは訊ねた。
「お前、名前は?」
「
「大塚」
三日前、私はオッサンの弟子になると決めたのに、名前も知らなかったことにようやく気が付いた。
私はぬるいオレンジジュースを飲む気にならず、芝の上に置いて指で缶の淵を揺らした。雫に似たキャラクターが懐かしく、幼いころに叔母さんの家でよくごちそうになったのを思い出す。私は寝転がったまま、大塚のオッサンを仰ぎ見た。
「生きていたか、ってどういう意味?」
「お前がただの馬鹿か、性根の腐った馬鹿かを確かめさせてもらった。クズならいくら謝っても神様に赦してもらえないだろうからな」
私は驚いて起き上がった。
「はぁっ!? 試してたのかよっ」
死をちらつかせて私を弟子にするつもりと言っていたのに、どういう了見だろうか。私がオッサンにつかみかかろうとすると、オレンジジュースの缶が倒れて転がった。腹が立つが、人からいただいたものを無下にしてはいけない。私はオッサンを睨みつけたまま土手を下った。缶は川の手前、伸びた草の下で止まっていた。
「ったりめーだろ? お前みたいな馬鹿にはリスクが付きまとうんだよ。性根が腐っていれば、大抵は自分の力に溺れるからな」
相手を見誤る危険もある、と言われ、私はぐうの音も出なかった。夜の公園で大塚のオッサンと再会しなければ、私はあのまま祠に向って命を落としていただろう。それこそ馬鹿みたいに。
「……で、私は合格なのかよ?」
「まあな。だが、その前にひとつ言っておく。祓い屋になったら、負けは許されない。お前が喰われれば災厄レベルの化け物が誕生するからな」
「了解」
私は頷いてオレンジジュースの缶を拾った。表面が汚れて、ますます飲む気が失せてしまった。恵比寿、と大塚のオッサンが私を呼んだ。
「俺がお前を負け無しの祓い屋に育ててやる。これ以上にない天職だ、覚悟しろ」
私は自然と笑みが浮かぶのを感じた。
「いいね。負け無しって響きが特に。じゃあこれからよろしくな……センセー!」
大塚のオッサンは、どう見ても師匠ってガラじゃない。少し考えた末に、私はセンセーと呼ぶことにした。缶をブラウスの裾で拭いて、センセーの隣に腰を下ろす。センセーは視線を学校の方角へ向けた。
「……アイツ、お前の友達か?」
センセーが杏奈の事を言っているのが分かった。私は小さく首を振った。
「違う」
「ならいいや。もって一週間……いや、一週間も持つなら慈悲深いくらいの罰当たりだな、ありゃ」
私は膝を抱えて穏やかに流れる川を見つめた。杏奈から嫌悪を向けられた理由が、いくら考えても私には分からなかった。
しばらくしてセンセーが呟いた。
「……助けたいか?」
「なんで? これも試験かなにか?」
訊ねたけれどセンセーは答えてくれなかった。私は正直に言った。
「助けたくない」
杏奈には化け物や神様の姿が見えないから仕方がないのかもしれないけれど、私の話を信じてくれなかった。杏奈の分まで神様に謝った私を信じてくれなかった。
センセーは缶コーヒーをすすると
「それでいい」
と言った。何となくだけれど、私が「助けたい」と答えても、杏奈たちを助けることはできないのだと思う。彼女たちは私だけでなく、神様の信頼も裏切ったのだ。
「よし。正式な弟子となったお前に、師匠の俺から最初の教えをやろう」
「教え?」
わざわざ師匠を強調し、センセーはにやりと笑った。
「信じようとしない人間より、お前を信頼してくれる人間を大事にしろ」
私の背中をセンセーは温かい手で強く叩いた。
「要は味方を大切にしろって事だよ。そうすれば、何を言われても、つらい経験をしても立ち直れる」
センセーの言葉は背中の痛みとともに、反抗期真っ只中だった私の心へすんなりと入っていった。
「分かった」
私は缶のプルタブを引き上げた。暗い缶の口を見下ろして訊く。
「……センセーも、幽霊が見えることを信じてもらえなくて、げんなりした事があんの?」
センセーは間延びした声で「いや?」と言った。
「俺、神社の息子で一族郎党霊感持ち。味方が山ほどいたからなーんもしんどくなかった」
「ムカつくほど弟子に寄り添わねえな……」
慰めるだろフツー。こういうときはよ。
私は半眼でセンセーを睨んだが、すぐにやめた。知り合って間もない中年に気を遣われるよりも、正直に話してくれるほうがいい。私はジュースを一口飲んだ。
「まずっ」
生ぬるいオレンジジュースは、やっぱりおいしくなかった。
◇
次の日、私は学校の廊下で杏奈とすれ違ったけれど、お互いに何も言わなかった。杏奈の足元に獣の姿はなく、代わりにつま先から膝まで障気で真っ黒に染まっていた。もう警告の段階は終わったのだろう。目に異常はないようだった。
杏奈とつるんでいた二人も同様に黒く染まり、四日目には障気が目元まで達して誰が誰だか区別できなくなっていた。
私はセンセーに電話をかけた。
「明日だと思う」
次の日の夜、私はセンセーと祠に向かった。センセーは必要ないって言ったけれど、私は杏奈の最期を見届けたかった。
祠から出てきた白い猿は障気を身にまとい、獣へと変貌を遂げた。一週間前に歩いた道を通り、青いプランターの置かれた家に行く。長い手足をするすると動かし、獣は壁を登って二階へと姿を消した。窓に杏奈らしき人影が見える。
部屋の明かりが消え、しばらくすると杏奈の悲鳴が聞こえてきた。
ほんの数秒のようで、永遠に続くかのようだった。
叫び声が止むと、明かりがもとに戻った。人影はなく、白い猿が地面に着地した。神様に拝礼するセンセーを見て、私も慌てて頭を下げた。
昼間の暑さを忘れた風が頬を撫でる。甲高い鈴虫の鳴き声とともに、耳の奥では杏奈の断末魔がいつまでも残っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます