第6話 路地の先には

 翌日、視力の回復は見られなかったが、私は退院を許可されて家に帰った。医者からは週明けの月曜日に外来を受診するよう言われている。オッサンから教わった対処法が上手く行けば、再会することはないだろう。

 何をするにも眉間にシワを寄せ、足取りも遅い私の外出は禁止されていた。土曜日の今日は家族の全員が家にいる。私は家族の隙を見計らって家を抜け出した。後で叱られるだろうが、私にはやらなくてはいけないことがあった。


 手を軽く前に出しながら、祠を目指してゆっくりと進む。夜よりも道は歩きやすいと思っていたが、人や車の往来が多い昼間には違った怖さがあった。自転車は死角から突然現れたように感じるし、日差しが眩しすぎて薄目しか開けない。自動販売機の青色が見えた時には、思わず安堵あんどの息をついた。


「ここか……」


 角を曲がって進んで行くと、縦に長い一坪ほどの土地が開けていた。囲いの中央に祠とおぼしき石の塊が見える。

 小さな鳥居をくぐり、石段を2つ上がると周囲の音が消えた。どこかの家から漏れ出ていたテレビの音も、車の走行音も、ツクツクボウシの鳴き声さえ聞こえない。

 私は祠の前に立ち、両手と両足を揃えて背筋を伸ばした。


「申し訳ありませんでしたっ」


 腰を折り、深々と頭を下げる。

 神様に謝罪すること。

 それが、オッサンから教わった対処法だった。


 昨夜、公園からの帰り道で、オッサンから神様に謝るよう言われ、私は拍子抜けした。


「謝る、だけ……?」


 お供え物を持って行くとか、御経を唱えるだとかが必要だと思っていた。私が疑問を口にすると、オッサンは「お前なぁ……」と、呆れ声を上げた。


「謝るって言っても、心の底からじゃねぇと逆効果だからな」


 それに、この場合は御経じゃなくて祝詞のりとだ、とオッサンは私の間違いを訂正した。


 末っ子ということもあり、私は家族からたっぷり可愛がられ、母の言葉を胸に自分の思うまま生きて来た。校長室へ呼び出されても、母はその場を収めるための謝罪を私に強要しなかった。そんな母が、一度だけ謝るよう私を叱った事がある。八つ当たりで姉をぶってしまった時だった。6つ上の姉は泣き喚いて駄々をこねる私を許そうとしたが、母は頑として譲らなかった。


 悪いことをしたら謝る。


 単純だけど、とても大切な事だった。相手が人間であろうと、神様であろうと関係ない。


 ズズッ


 のっぺりとした石畳を見つめていると、祠から石の擦れる音が聞こえて来た。扉が開いたのだろう。湿度の高い、重たい空気を感じ、肌がチリチリと熱を持ち始めた。

 私は頭を下げたまま目を閉じた。闇となった視界の代わりに、耳が周囲の様子を伝えてくる。きたない猿――神様が祠から這い出て来た。爪で石をひっかき、長い毛から泥のような塊がポトリと滴り落ちる。神様は四肢をゆっくりと動かし、品定めするかのように私の観察を始めた。穴のような黒い瞳で私を見つめているのだろう。熱を感じた肌は痛み始め、体が火照ってくる。


 この熱は神様の怒りなのだ。


 荒い息が耳にかかり、私は思わず身を固くした。背中にズシリと重みを感じる。押しつぶすような圧に私は背中を丸めて、曲げた膝に手をついた。


(土下座でもしろってのか?)


 思わずもたげた反抗心を、私は首を振って追い払った。相手は良い神様だ。頭ではわかっていても、脳裏にちらつく穢い猿の姿を思い浮かべると憎しみが湧いてくる。目頭に熱が籠もり、私は奥歯を食いしばった。長年持ち続けていた化け物への嫌悪感は、そう簡単に消えてくれない。

 もし強い霊感なんて持っていなかったら、私は憎しみと無縁の穏やかな人間になれていたのだろうか――。


「おねえちゃん、おわった?」


 幼い子供の声か聞こえ、私は目を開いて顔を上げた。ぼんやりとした視界に、黒目がひとつ見えてくる。


「えっ、あっ……」


 先ほどまで感じていた痛みや熱、重さがなくなっていた。瞬きして焦点を合わせると、目の前に白い眼帯をした男の子が立っていた。

 私が驚いて返答できずにいると、後ろから「こら、シュンちゃんったら」と年老いた女性の叱り声がした。


「うちの孫がすみません。お邪魔になってしまいましたか?」


 お参りに来たお婆さんと孫だろう。


「いえ、大丈夫ですよ。お先にどうぞ」


 そう言って私が振り向くと、お婆さんは「あら」と低い声でつぶやいた。取り繕うように続ける。


「……それじゃあ、失礼するわね」


 祠のある敷地は狭く、私は石畳を降りて隅に移動した。まだ神様から許しを得ておらず、私の視界は悪いままだった。男の子は小さな手を合わせて、熱心に祠を拝んでいる。何度も私を窺うお婆さんが気になったが、私は二人がお参りする様子を眺めた。オッサンが「れっきとした土着神どちゃくしん」と言っていたのを思い出す。


「あっ」


 祠が白い光に包まれ、私は小さく声を上げた。屋根の上に白い何かがいる。姿はよく分からないが、あれが本来の神様なのだろう。光から伸びた手が、男の子の頭上にかざされた。手の先から小さな光が零れ落ち、男の子の中に入っていった。

 男の子は顔を上げ、ポケットから取り出した白い物体を祠に置いた。


「シュンちゃん!」


 お婆さんの制止を無視して、男の子は弾むような足取りで私の前に立った。


「おねえちゃんにもあげる」


 そう言って私に拳を突き出した。私が片手を差し出すと、折りたたまれた紙を渡された。顔を近づけてみると、白い折り紙で作った猿だった。私はしゃがんで男の子に目線を合わせた。


「ありがとう」


「ソレ、ここの神さまなんだよ。目を治してくれるんだ」


 眼帯を指さして笑う男の子につられて、私も顔を緩めた。今もこうして信仰を寄せられている神様を、私は足蹴にしたのだ。オッサンの言う通り私は馬鹿だった。


「ごめんなさいね」


 ふたたびお婆さんに声をかけられ、私は膝を伸ばした。順番を譲ってもらったことを気にかけているのだろう。私が口を開こうとすると、お婆さんは言った。


「また、おまじないに来た子だと思ったのよ」


「おまじない?」


 お婆さんは「ああ、やっぱり違ったのね」と祠を振り返った。


「あなたぐらいの子たちの間で、はやっているらしいのよ」


 お婆さんによれば、祠のお供え物を使った恋のおまじないが女子高校生の間で行われているらしい。なんでも、供えられたさかきの葉に針で好きな人の名前を書くと、恋が成就するそうだ。


「この間、向こうの神社に四人来ててね。葉っぱを持っていたから、もしかして、って思っていたのよ」


 名前を書いた榊の葉は別の神社に持って行き、賽銭箱の中に入れる。そちらの神社でも迷惑行為として、近所では問題になっているという。疑ってごめんなさいね、とまた謝罪を口にすると、お婆さんは手提げから真新しい榊を取り出した。


「手伝います」


 よく見れば、石畳の上にむしられた榊の葉が何枚も落ちていた。お婆さんが榊を取り換える間、私は男の子と葉を拾い集めた。葉には針で引っ掻いた傷がいくつもあり、端が破けていた。葉の下からガムの包み紙が出てきて、私は怒りを感じた。


「ここには一応、管理する神主さんがいらっしゃるんだけどね。夏は暑いでしょう? 傷んだ榊をお供えしたままにするのは申し訳ないから、地域の人でマメに取り換えているのよ」


 だけどねぇ、とお婆さんは古い榊を私に見せた。枝には小さな葉が数枚しか残っていなかった。榊は塩で清めてから包んで捨てるそうで、私は拾い集めた葉をお婆さんに渡した。ガムの包み紙は握りしめて手の中に隠す。ポケットには男の子からもらった折り紙がある。ゴミなんかと一緒に入れたくなかった。


「いろいろ教えて下さって、ありがとうございます」


 私がお辞儀をすると、お婆さんも「葉っぱを拾ってくれて、ありがとう」と言って、男の子の手を引いて帰って行った。


 二人が路地を曲がって見えなくなると、祠から重苦しい空気が漂い始めた。私は背筋を正して後ろを向いた。怒りをあらわにした神様が、変貌を遂げていた。

 熱を持った痛みが再燃する。

 私はまだ赦されたわけじゃなかった。

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