第5話 オッサンの話

 男が酒で濡れた手を洗う間に、私は近くのベンチに座った。胡坐あぐらをかこうとしてスニーカーが酒で湿っていることに気づき、仕方なく足を投げ出す。水道の近くには街灯があり、真下に立つ男の姿は私の目にもよく見えた。年は中年といった頃合いで、和服を着ているせいか、男にはどこか老成したような雰囲気があった。

 もっとも口は悪いようで、


「それで馬鹿者女、いつから視えるんだ?」


 たびたび私を馬鹿呼ばわりするのが気に食わなかった。

 このオッサンを殴るのは正体を知ってからでも遅くはない。私は怒りにブレーキをかけて質問に答えた。


「生まれた時から……それに、視えるだけじゃなく触れる」


「間違いないとは思っていたが、やはりお前だったか。噂の化け物女は」


「んだよそれ……」


 散々馬鹿と呼ばれたが、意識を失う直前にオッサンが「化け物女」と言っていたのを思い出す。水音が止み、オッサンは一升瓶を地面に置いて私の隣に腰掛けた。


「同業者の間で噂になってたんだよ。この辺りにハラエの知識も無く、あの世の連中を素手でぶん殴って消す、化け物みたいな女が居るってな」


「……同業者って? ハラエってなんだ?」


 影を追っ払ったことからして、オッサンにもあのきたない猿の姿は見えていたはずだ。私をラリアットで止めたのなら、オッサンには穢い猿を追いかけられると困る事情があるのだろう。そう予想はついたが、オッサンが何者かは見当がつかなかった。


「ハラエってのは簡単に言うと、おはらいのことだ。けがれや災い、悪霊や化け物なんかをこの世から取り除く行いを指す」


 漢字一文字で『はらえ』と書くそうだ。私が頷くと、オッサンは説明を続けた。


「俺はその祓を専門に行う『はらい屋』だ。お前みたいに素手で退治するほどの力はないが、俺は神様の力を借りて化け物を祓っている」


「その酒を使って?」


 私が顎をしゃくると、オッサンは笑った。


「酒も使うが、これはただの急場しのぎだ。なにせ商売道具はすべて置いて来ちまったんでな」


 取りに帰るのが面倒だった、と言う。


「じゃあ、何をしに来たんだ?」


「噂の化け物女をとっ捕まえに来た」


 オッサンは私が倒れて救急車に乗せられた後、搬送先を探していたそうだ。私は近場の病院に運ばれたが、目を覚まさないうちに家族が来た。面会時間ギリギリまで粘りそうな家族だったため、明日に出直そうとしていたところ、私が現れたというわけだった。


「それで、とっ捕まえてどうすんだよ。どっかに売っぱらう気か?」


「いや。弟子にする」


「……ハァ!?」


 私は思わずオッサンを見たが、視界が悪くて表情までは分からなかった。


「霊感持ちには先天性と後天性がある。お前の場合は先天性だな」


 それも常識外れの力を持っている、とオッサンは言った。


「化け物をあの世へ送るには、祓う為の知識や技能が必要になる。段階を踏んで修行して、やっと攻撃ができるようになるのが普通だ。強めの霊感持ちでも、なんの技術も無く、素手で退治する奴なんてそういない」


「へぇ〜、やっぱ私ってスゴイんだ」


 私は早くも祓い屋という職業に興味を覚えていた。ムカつく化け物を殴るのが仕事なんて、天職じゃないだろうか。私が好意的な反応を示すと、オッサンはふんと鼻を鳴らした。


「確かに凄い力だが、厄介でもある」


「厄介?」


 悪霊や化け物は人間の魂を食らって力を得ている、とオッサンは説明した。人間が死ぬと、その魂は四十九日の間この世にとどまっている。その時、強い恨みや未練が残っていると、あの世へと旅立つことができずに幽霊となってしまう。その幽霊が、魂やほかの幽霊を喰らうと悪霊となるのだという。


「いわゆる心霊スポットが出来上がるのも、この仕組みによるものだ。一度でも魂を喰らった悪霊は、常に飢餓感を抱えている。悪霊が魂やほかの幽霊を引き寄せて喰らい続けた結果、どんどん災いを引き寄せるんだ。この災いは生きている人間にも悪影響を及ぼす」


 オッサンは言葉を切ると、私に向き直った。ザリッと砂を踏む音が聞こえた。


「お前みたいな強い霊感を持つ人間の魂は、悪霊にとってごちそうだ」


「ごちそう?」


「ああ。もしお前が悪霊に負けて魂を喰われると、その悪霊は一息に強い力を得る。力を得た分だけ、襲われる飢餓感も大きい。そうした悪霊が次に何をするかと言えば……さらなる獲物探しだ」


 先天性の霊感持ちが喰われた後は大抵、目も当てられないような惨事が起きるのだという。災厄クラスの死人が出る、とオッサンは言った。悪霊だけでなく、化け物でも同じ事が起きる。


 ごちそうと言われて私には腑に落ちたことがあった。今までやたらと悪霊や化け物に付きまとわれていたのは、奴らが私を喰う為だったのだ。その所為で私は今まで、嫌な思いもたくさんしたし、身体的な傷も負った。慣れないうちは、人間関係にもヒビが入った。

 私は家族に恵まれ、後悔しないよう自分の思うままに生きてきた。それを家族や友達は私の「強さ」だと言うが、全ての霊感持ちが強いわけではない。悪霊や化け物といった奴らは、特に気が弱くて優しい人間を付け狙う。祓い屋になれば、そうした人たちを助けることができるのだろうか。


 昼間の汗が噴き出るような暑さは無くなったものの、まだ熱帯夜を思わせる気温だった。それでもベンチの後ろにある草むらから、甲高い虫の鳴き声が聞こえてきていた。

 オッサンは地面に置いた一升瓶を持ち上げた。


「俺が健気に奉仕活動をしていたのも、それが理由だ。お前の血は悪霊や化け物を引き寄せる」


 穢い猿を追いかけた私は目から多量の血を流していた。オッサンは道路に落ちた私の血が悪霊や化け物を寄せ付けないよう、清めた酒を撒いて祓っていたそうだ。黒くて気づかなかったが、スニーカーにも私の血が付着していたのだろう。わざわざ口に含んで吹きかける必要はない気もするが、問いかけると「少量で広範囲に撒けるだろ」と返された。


「祓い屋の間で噂になるぐらいだ。どうせお前は悪霊や化け物を無視できないだろ? だったら俺の弟子に……」


「なる!」


 私はオッサンの言葉をさえぎって返事をした。ラリアットされたり、化け物呼ばわりされたりしたことは消し飛んでいた。私の心はそれぐらい祓い屋に魅かれていた。

 ゴトリ、とベンチに瓶を置く音がする。


「ったく、弟子にならなきゃ死ぬだけだ、って脅すつもりだったのによ……」


 調子が狂うぜ、とオッサンはため息をついた。


「……で、ちっとは見えているようだが、その目、どのぐらい悪い?」


「この暗さだとオッサンの顔が分からない」


 私は杏奈あんなたちのことを話した。オッサンのせいで穢い猿を見失ったが、私があのまま突っ込んで行ったら、魂を喰われていたのだろう。私は街で見かけた悪霊や化け物を片っ端から殴っていた。私より強い相手に出会わなかったのは、単に運がよかっただけだった。


「馬鹿が馬鹿を呼ぶってことか……」


 私の説明を聞き終え、オッサンは呆れた声を出した。またもや馬鹿と呼ばれたことに腹が立つが、杏奈たちのために堪えた。私の力が穢い猿に通じなかったのは事実だし、奴を倒すのにオッサンの知識が必要だった。


「杏奈たちがどんなヤバい場所に行ったか知らないけどさ、あの猿は危険なんだろ? どうやって倒せばいい?」


「……だから馬鹿だと言っているんだ」


 吐き捨てるようなオッサンの言い方に、私の我慢は長続きしなかった。杏奈は私の幼馴染だ。話したのは小学校低学年以来だったが、血を流して走り去った私を心配して追いかけ、救急車を呼んでくれた。

 私は拳を握って、ベンチから立ち上がった。


「何なんだよ! 馬鹿呼ばわりされるのは仕方がないにしてもさ、悪いのはあの穢い猿だろっ!」


 杏奈たちが心霊スポットに行ったことは馬鹿だと思う。相手の強さを知らずに勝負を挑んだ私も馬鹿だったが、穢い猿が憎むべき化け物である事に変わりはない。私は杏奈たちを助けたかった。


 私が拳に力を込めると、オッサンは息をついて言った。


「ありゃ化け物じゃない――神様だ」


 オッサンの言葉に、私は怒りが消し飛ぶほどの衝撃を受けた。


「か、神様ぁ? あの穢い猿が?」


 昼間に見た姿は、私に殴るのを躊躇ためらわせるほど汚くて醜悪だった。私は大きく息を吐き、体から驚きを追い出した。戦意を失った私が力なくベンチに腰を落とすと、オッサンは笑った。


「おいおい、習っただろ? 人を見た目で判断しちゃいけませんって」


「そうだけど……」


 神様と言われれば、文字通りの神々しい姿を想像するものではないだろうか。なかなか信じようとしない私に、オッサンは神にも強さや種類の違いがあることを教えてくれた。


「化け物になってしまった神もいるにはいるが、今日お前がケンカを売っちまったのは、れっきとした土着神どちゃくしんだ」


 あの自動販売機を曲がった路地の先には小さな祠がある、とオッサンは言う。


「供え物が確認できたし、定期的に掃除もされているはずだ。あの神様はそれなりに力があるし、何より今も正当な仕事をしている」


「じゃあ、私の目が悪くなったのは……」


「神様に無礼を働いたんだ、罰が当たるに決まっているだろう?」


 私は汚い見た目から、神様を化け物だと決めつけた。人間だって見た目で判断されれば不愉快になる。それに私は神様を何度も踏みつけた。知らなかった、で済まされないことは私にも分かる。私は知ろうともしなかった。


「……オッサン、私はどうすればいいんだ?」


 私の声から毒気が抜けたことに気付いたのだろう。顔は見えなくてもオッサンが優しい笑みを浮かべたのが分かった。


「対処法は教えてやる。だが……」


 そう言うとオッサンは立ち上がって、


「送って行くから、今日はもう帰れ。その恰好、病院を抜け出して来たんだろ?」


 と私に手を差し出した。私はその手を取るのを渋った。


「このまま帰っても平気なのかよ」


「相手は神様だ。多少の猶予は与えて下さるよ」


 それに高校生が出歩いていい時間じゃない、とオッサンは至極真っ当なことを言った。初めは胡散臭そうなオッサンだと思っていたが、公園で酒を撒く姿が怪しかっただけで、悪い人間じゃなさそうだった。


 私はオッサンと並んで歩きながら病院へ戻った。三階の窓から抜け出したことを知ると、オッサンはまた私を化け物扱いした。

 病院の窓は閉まっており、私は一階の夜間出入口から入ることにした。警備員が常駐していたが、オッサンが「搬送先の病院を間違えた夫」を演じて注意をそらしてくれたおかげでバレずに通れた。オッサンの演技はなかなかのもので、呼気からアルコール臭が漂うほど酒を口に含んでいたことが功を奏した。


 私はすぐ病室に戻らず、霊安室のある場所に立ち寄った。周辺の廊下は暗かったが、奴らがうごめいているのが分かる。私が指を噛んで血をたらすと、奴らの動きが活発になった。

 どうやらオッサンは本当の事を言っているらしい。

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