第33話 水鏡の岸 ― 音の座標
東へ向かって三日、風は湿り気を帯び、空気に水の匂いが混じり始めた。森の切れ間を抜けると、そこに“水鏡”があった。湖ではない。地平の端まで広がる、静止した一枚の水面。空をそのまま映し、波ひとつ立たない。——風が止まっている。
ローウェンが息を呑んだ。「……風が、拒まれてる」
「音も、吸い込まれてる」ナギが笛を軽く鳴らしたが、音は水面に触れた瞬間、沈んだように消えた。
リィナの瞳に光が集まる。「ここが第二の試金石。けれど、入口がない」
湖岸の砂の上で、《ノア》が低く鳴った。
《観測:音の座標一致。試金石・水鏡域》
「どうすれば開く?」
《音を“映す”こと。発するのではなく、反響させる》
俺たちは水面の前に輪を作り、座った。風がないのに、周囲の草が揺れる。リィナが掌を水にかざし、ナギが笛を唇に当てる。音を出すのではなく、“思い出す”ように。
ローウェンの鐘が、まだ鳴らないまま震えた。
「レイジ。君の黒、《ノア》の音を少し貸して」
「ああ」
胸の奥が微かに熱を持つ。黒の拍が脈動し、それが四人に流れていく。リィナの瞳が青に変わり、ナギの指が笛の穴を静かに閉じた。沈黙が、共鳴になった。
そして——水面が、呼吸した。
波紋が一度だけ広がり、空の色が裏返る。湖面に映った“俺たち自身”が、立ち上がった。影ではない。もう一つの“輪”。
《試練開始:音の座標を合わせよ》
鏡の中の俺たちは、わずかに拍がずれていた。笛の音も、鐘の響きも、すべて一拍遅い。ノワールの“遅延”がここにも及んでいる。
「共鳴をずらして……一致させろってことか」
「でも、逆再生だよ」ナギが苦笑する。「音の波を逆に折りたたまないと」
リィナが頷き、瞳を閉じた。「私が映像のタイミングを視る」
黒が動き出す。俺の拍を起点に、ローウェンの風が反転し、ナギの旋律が逆向きに流れる。リィナの瞳が四人のリズムを束ね、時間が一瞬だけ“止まる”。
そのとき、水鏡の中の“俺たち”が同じ動きをした。左右も上下も反転したまま、完璧に重なる。
《座標一致——認証》
水面が音を返す。低く、透明な響き。世界の底から鐘が鳴ったような音。俺たちの胸の奥に、同じ拍が走る。
《第二試金石、通過。鍵断片:水——授与》
湖面の中央に、ひとつの光点が生まれた。波紋のように広がりながら、ゆっくりと手のひらの上に降りてくる。青白い欠片。透明で、しかし中心に黒い線が走っていた。俺はそれを受け取り、息を整えた。
「これで二つ目」リィナが微笑む。「灰と、水」
「残り、いくつだろう」ナギが欠片を覗き込む。
《推定:五》ノアが答える。
「五……つまり、あと三つ」ローウェンが言う。「でも、次は簡単じゃなさそう」
風が戻ってきた。最初は細い糸のように、次第に重なり、草を揺らす。ナギが笛を軽く吹くと、音がきちんと響いた。水面が再び静まり、鏡の中の影がゆっくりと沈んでいく。
「なあ、レイジ。さっきの“映った俺たち”、何かを言ってなかった?」
「ああ。聞こえた気がする」
「なんて?」
「——“選ばせ続けろ”って」
四人の間に、静かな拍が落ちた。
ノワールの意志がまだ届いている。けれど、それは命令ではなく、確かに“願い”だった。
夜になると、水鏡は星を映した。空と水が区別できない。俺たちは焚き火を囲み、欠片を掌に置く。
青い光が小さく揺れ、灰の欠片と共鳴して、薄い和音を作った。
「鍵が歌ってる……」リィナが呟く。
「なら、次も“音”を探そう」俺は笑った。
水鏡の岸を離れるとき、風が背を押した。草の音が拍子を刻み、遠くで鐘のような音が響く。ノワールの網の奥で、何かが微かに動いた。
——第三の試金石へ。選択の拍は、まだ止まらない。
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