第32話 北廃街の残照 ― 結ばれる空白

 灰の塔を後にして三日、北の空は薄く白んでいた。雲は低く、風は乾いている。俺たちは“北廃街”と地図に記された区画へ入った。建物は背骨だけを残し、窓は空を映す穴になっている。人影はない。けれど、空気が誰かの足音を覚えている。

 路地を曲がるたび、胸の《ノア》が一拍遅れて脈を打つ。灰の塔で差し出した“過去の一日”が、まだ体のどこかで軋んでいた。音が遠い。匂いが薄い。強い風が吹くと、感情の輪郭が紙のようにめくれる。

「辛い?」とリィナ。

「痛みはない。ただ……何かが、軽い」

 答える自分の声も、薄い紙の裏から聞こえた。ローウェンが風を撫でて頷く。

「穴は、冷たい風を呼ぶ。だから埋めるなら、温度を入れなきゃ」

 ナギが笛を握り直し、笑った。「あったかい音、あるよ」

 広場に出ると、割れた噴水の縁に古い銘板があった。〈ここに歌があった。ここに笑いがあった〉。文字は欠けている。その欠け目に、胸の空白が呼応した。地面に薄い波紋がひろがり、俺たちの足跡と並ぶように、透明な足跡が浮かび上がる。誰かが今も歩いているみたいに。

「街の残留思念が、レイジに寄ってる」リィナの瞳に淡い紋が灯る。

「なら、寄り添おう」ローウェンが鐘を肩から外す。「鳴らす前に、風を整える」

 ナギが息を吸った。笛の最初の一音は、柔らかく低い。冬の日向の匂いがした。音は広場の石に触れ、剥がれかけた記憶をそっと留める。

 俺は《ノア》を呼ぶ。黒は静かに応え、欠け目の縁をなぞる。リィナの瞳が焦点を結び、透明な足跡が少しずつ濃くなった。鐘が一度だけ小さく鳴り、風が広場の真ん中に輪を描く。

 見えた。——街の幻影。色は薄く、音は遠いが、確かに“かつての暮らし”が息をしている。屋台から湯気が立ち、子供が走り、どこかの窓辺で布が揺れた。俺の胸の穴が、少し痛んだ。だが、その痛みは鋭くない。温かさの端が触れる痛みだった。

 幻の通りの隅に、ひとり立つ若い男がいた。痩せて、背を丸め、手には安宿の鍵。見覚えがある——あの夜、俺が握りしめていた鍵と同じだ。灰の塔に預けた“過去の一日”にいた、覚醒前の俺。

 男は顔を上げ、こちらを見た。驚きはない。少し考えて、それから微笑んだ。声は風と重なって、直接胸へ届く。

『選ぶことをやめるな』

 それだけ。責める言葉も、励ます言葉もない。ただ、短い一行だけが、穴の縁に結び目を作った。

 幻は薄くなり始めた。ナギが旋律を上げ、リィナの瞳が光を増す。ローウェンの鐘が倍音を重ね、俺の黒が四人の音を包む。広場の空気が温度を持ち、欠け目に“声の糸”が縫い付けられていく。

「もう一度、最初から」ナギが言う。

「ああ」

 笛の基音。瞳の焦点。鐘の呼吸。黒の拍。四つの流れがひとつの円になり、広場の銘板に新しい影が刻まれた。〈ここに、選ぶ声があった〉

 風が落ち着くと、幻影は静かに消えた。だが、胸の穴はもう冷たくない。そこに、仲間の声が残っていた。紙の裏からではなく、骨の内側から聞こえる重さで。

 夜、北廃街の端に腰を下ろす。月は薄く、建物の骨が線の絵のように並ぶ。ナギが録音機を回し、広場での合奏を短く再生した。ざらついた音。けれど不思議と、温かい。

「ねえレイジ。穴って、埋めたら終わり?」

「いや。埋めたら、広がる」

「広がる?」

「空白は、誰かの声が入れる場所だ。ひとつ埋まると、次の“席”が見える」

 リィナが頷く。「だから、私たちは歩く。席を増やしながら」

 ローウェンが空を見上げた。「風の椅子取りゲームね」

 笑って、風が揺れた。

 そのとき、ポケットの鍵断片が淡く光る。灰の塔で受け取った黒い薄片——“灰”。表面に浮かぶ細い文字が、ゆっくりと組み変わる。座標。音の座標だ。ナギが耳に当て、目を瞬いた。

「聞こえる。——水の音。東に、鏡みたいに平らな水面がある」

「水鏡だ」リィナが息を飲む。「第二の試金石の方角」

 ローウェンが鐘を抱き直す。「風も東を指してる」

 俺は立ち上がり、廃街の端で振り返った。骨になった家々の向こうに、さっきまでの幻の気配がうっすら残っている。手を挙げると、誰かが見えない窓から手を振り返した気がした。

「行こう」

 黒が胸で応える。低く、確かな拍。仲間の呼吸が重なり、四つの影が東へ伸びた。

 夜が浅くなり、東の地平がわずかに青む。鍵断片の光が細い道を描き、風がその道をなぞる。音は遠く、しかしまっすぐに届く。——空白はもう、怖くない。そこに結ぶ声がある限り、俺たちは進める。

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