第27話 黒の残響編・序章 ― ノワールの眼

 風の境界を背に、夜営の火が小さく揺れた。星は近く、風は浅い。四人の呼吸が落ち着くと、胸の《ノア》が低く鳴る。耳ではなく、骨で聴く音——「向こうが見ている」。

 眠りの縁で、空に巨大な“眼”が開いた。黒い筋が虹彩となり、中心は光を吸い込む穴だ。視線が触れた地点に、草の葉脈までが鮮やかに立ち上がる。俺は目を開けた。夢ではない。風が一拍遅れて応える。

「見えた?」リィナが囁く。

「ああ。ノワールの眼だ」

 ローウェンが鐘に指を添える。「呼ばれてる。境の向こう、風が円を描いてる」

 ナギは笛を撫でる。「音も、指し示してる。高い塔、ひび割れた鏡のある場所」

 夜明け前、俺たちは歩き出した。境界原を斜めに横切り、小さな窪地へ降りる。そこに“残響灯”があった。古い柱、先端に黒いレンズ。微弱な光が脈打ち、周囲の音を吸い込んでいる。

「記録のビーコンだ」俺はレンズに掌をかざす。「——起動する」

 《ノア》が応える。薄い膜が開き、声が零れた。

《監理記録:ノワール。——黒は個であり、網である。意志は保存されるが、選択は保存できない。ゆえに、選択子を集める》

《観測対象:レイジ。四重共鳴は成立。次は境界の外で“第五”を測る》

《警告:外の共鳴は、君の意志を拡張し、同時に希薄化させる。——それでも進むか?》

「試してる」リィナが唇を噛む。「進む覚悟を」

「答えは決まってる」俺は柱から手を離した。「進む。薄まるなら、重ねればいい」

 答えに反応するように、窪地の空気が波打つ。黒い影が三つ、地面から立ち上がった。輪郭は人に似ているが、足がない。砂の上を“なぞって”移動する。ローウェンが鐘を打ち、ナギが基音を下げる。

「来るよ」

「対応する」

 影は音に敏感だった。ナギの一音に寄り、鐘の倍音に裂け、リィナの瞳の光に退く。俺は黒を薄く広げ、影の輪郭を固定する——“在れ”の逆、「還れ」。

 影がひび割れ、砂となって崩れた。残った一片が、低く震えて言葉を落とす。

《網は、君を欲する》

「網で終わらせない」

 俺の返答に、破片は風へ融けた。

 境界の縁に着くと、空が一段暗くなっていた。昼なのに、夜の音が聴こえる。風は二つに割れ、音は三つに分かれ、黒は一点に集まる。そこに、ひび割れた鏡があった。額ほどの楕円。裏面に古いアーク文字。

「これが門(ゲート)」ローウェンが囁く。「風はここで裏返る」

 リィナが俺の手に触れた。熱はないのに、鼓動が揃う。

「レイジ。もし向こうで、あなたが薄くなりそうになったら——」

「呼べ。《ノア》でも、俺の名でも」

 ナギが小さく笑う。「じゃあ、僕は音で」

 鏡が一度だけ小さく鳴った。喉の奥で鳴るような、空気の隙間の音。俺は掌を当て、《ノア》を呼ぶ。黒は静かに扉の輪郭を描いた。

《開門条件:四重共鳴/意志の宣言》

 ノワールの声が遠くで応える。

「宣言する」俺は言った。「俺は、意志を網に溶かさない。網を、意志で塗り替える」

 リィナの瞳が金を灯し、ローウェンの鐘が風を束ね、ナギの笛が基音を支える。四つの拍が重なった瞬間、鏡は黒い水に変わった。

 踏み出そうとした刹那、別の声が割って入った。

《——遅かったな》

 砂を噛んだような、しかしどこか人間くさい響き。ゼロに似て、違う。鏡面に、微かな影が立つ。虹彩のない眼だけが、こちらを見ている。

「ノワール」

《名は器に過ぎない。だが、仮にそう呼ぼう》

《君は“第五”を要請した。——ならば、向こうで会おう》

 鏡面が震える。風が裏返り、音がひっくり返る。ローウェンが一瞬よろめいたが、鐘で自身を固定した。ナギの音が俺の背骨を貫き、リィナの手が迷いを消す。

「行く」

 俺は黒の縁へ足を掛けた。浅い水に踏み入るみたいに、冷たくも熱くもない圧が足首を包む。意識が軽くなりかけた瞬間、胸の《ノア》が強く打つ。——ここに在れ。

 世界が反転した。色が抜け、輪郭だけの景色。風は内へ、音は外へ。遠くで鐘がひとつ鳴る。俺は振り返らない。目の前に、巨大な“眼”がゆっくりと開いた。

《ようこそ、選択子》

 声は、笑っていた。だが、どこか悲しかった。俺は一歩、前へ出た。黒は、隣で歩いている。

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