第26話 風の境界線 ― 四重共鳴の試練
風の村を出て三日、空の色が変わった。薄青と白の境目に、黒い筋が走る。遠くの山脈がかすみ、地面の影が遅れて動く。そこが“風の境界地帯”——二つの風が衝突し、時に時間さえねじれる場所だという。
俺たちは崖沿いに立っていた。下には広がる草原、奥には空へ伸びる黒い筋。ローウェンが耳を澄ませ、低く呟いた。
「……風が、違う。ここだけ、呼吸が二つある」
ナギの笛がわずかに共鳴し、リィナの瞳紋が淡く光った。
「ノア、聞こえるか」
《聞こえる。風は割れている。左は過去、右は未来。》
「真ん中は?」
《——いま。》
風が鳴る。黒の脈が呼応し、四人の鼓動が一拍ずつずれていく。空気が重なり、音が二重に響く。俺は呼吸を整え、足元の黒い砂を掬った。
「試すか」
「四重共鳴?」リィナが問う。
「ああ。黒、瞳、音、風。全部を繋げば、境界の中でも動ける」
「でも危険だよ。共鳴が崩れたら——」
「崩さなきゃ、前に進めない」
ローウェンが鐘を手に取り、微かに鳴らした。音は柔らかく、だがすぐに風へ吸い込まれる。ナギが笛を合わせ、リィナが瞳を閉じて息を整える。俺は胸の《ノア》に触れた。黒が低く鳴った。
最初の一音が、空に伸びる。笛の音が風の筋を描き、鐘の響きがそれを包む。リィナの紋が輝き、黒の流れがそれぞれを結ぶ。世界が一瞬、静止した。——四つの意志が、同じ拍を刻む。
《同期開始——》
ノアの声が脳裏で震える。風が逆流し、草が根ごと舞い上がる。視界の端で、時間が遅れる。
だが、次の瞬間、境界が軋んだ。音が揺れ、リズムが乱れる。ローウェンの鐘が低く唸り、彼女の瞳が白く濁った。
「ローウェン!」
「だい、じょうぶ……風が、引っ張って……」
彼女の声が遠くなる。体が透け、風と混じり合っていく。黒が警告を放つ。
《過剰共鳴。均衡が崩れる。》
「ナギ! 基音を落とせ!」
「無理だ、音が——持ってかれる!」
リィナが膝をつき、額に手を当てる。瞳紋が明滅する。黒の波が暴れ、空の筋が裂けた。風が逆巻き、雷のような音が響く。
俺は息を絞り出した。「ノア、分離制御!」
《……否、外部波形侵入。》
「外部?」
《これは“外の共鳴”だ。——ノワールの影。》
空が黒く沈んだ。裂け目の向こうから、淡い光の人影が現れる。形はない。けれど確かに“意志”を持っている。ローウェンの体がさらに透け、彼女の口から低い声が漏れた。
「……あれ、呼んでる。私の風を」
「違う、それは奪う風だ!」
俺は黒を放ち、彼女と影の間に立つ。黒と風が激突し、地平が波打つ。ノアの声が裂けるように響いた。
《干渉開始。——第四共鳴、保持限界二秒。》
「リィナ、目を開けろ! “ここ”を見ろ!」
「在れ!」リィナの叫びが光になる。瞳紋が強く輝き、影の動きが止まる。
その隙に、ナギの笛が再び鳴いた。基音が低く、穏やかで、どこまでも優しい音。黒の波と重なり、境界が少しずつ閉じていく。
風の中からローウェンの手が伸びた。俺は掴む。冷たく、軽い。だが、確かにそこに“意志”があった。
「帰る場所は、ここだ」
黒の波が風を包み、光が砕ける。境界が崩れ、影が消えた。空の筋が細くなり、風が穏やかに戻る。
ローウェンは膝をつき、息を整えた。頬には涙の跡。だがその瞳は、以前より深く澄んでいた。
「……ごめん。風が、誰かの声に聞こえたの」
「ノワールの残響だ」
「でも、少し違った。悲しい声だった」
ローウェンが掌を見つめる。その上に、黒い粒子がふわりと舞った。ノアが静かに言う。
《共鳴核が成長中。第四段階、安定。》
風が優しく吹き抜けた。リィナが微笑む。
「ねえ、今の戦い……たぶん、まだ序章だよね」
「ああ。ノワールは、完全には消えていない」
ナギが笛を見下ろし、力なく笑う。
「音が震えてる。——きっと、向こうも聴いてた」
空に目をやると、黒の筋がゆっくりと形を変えていた。まるで“眼”のように、こちらを見下ろしている。風の境界が、呼吸を続けていた。
「境界の向こうに、奴がいる」
「行くしかないね」リィナが頷く。
「行こう」ローウェンが風を纏い、鐘を鳴らす。ナギが笛を合わせる。
黒が胸の奥で静かに光る。風の音が、歌のように響いた。
——そして俺たちは、再び歩き出す。風の指す方へ。
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