ぬばたま
市街地
ぬばたま
レナちゃんは完璧な角度でカールした睫毛越しにわたしを見つめる。カラーコンタクトだろうか、まっくろい瞳は判別がつかないけれども、いやに黒目がちなまなざしが印象的である。あとは、瑕疵がないと思うだけで、さしたる特徴のない、ふつうの少女だ。美しい顔というのはえてしてそういうものだろう。折れそうに細い指がストローをつまみ、くすんだ薔薇いろに塗られた唇がストローをくわえる。グラスの中のジュースを音もなく吸い上げると、華奢な喉元が静かに上下した。
「なんかさ、流れで来ちゃったけど……、遅くなって、親御さん怒んないの。」
「あー。うち、いないんで、親。」
レナちゃんは常より下がり気味に描かれた眉をいっそう下げた。
「たぶん仕事、なんですけど。ああいや、最悪いる……ので、帰りたくないなって思ってて。」
だから、ちょうどいいんです。レナちゃんはそう笑った。わたしは触れたら面倒な話題だと思って、「あー」とあいまいな声を出してごまかしていた。だのにレナちゃんは、軽薄に思われるぐらいぺらぺらと自分の身の上を話した。どうでもいい相手には自分のことをいくらでも話せる性質の娘なのだろう。若い身空で気の毒だけれども、いつかその癖は直すべきときがくるはずだと、他人事として思った。
「お父さんは仕事で全然帰ってこなくて、……不倫かもしんないけど、で、母親はキャバだから、夜はいないんです。いる日は彼氏連れ込んでるの。そんな場にあたし、いられないでしょう。いつも帰りたくないんだけど、今日はちょうど予定がなかったから、ナツミさんといられて助かりました。」
「えー、あー……そっか。でも、わたしといても、いずれ帰らなきゃいけなくなるでしょう。」
「んー。そしたら、彼氏に泊めてもらえる……かな、まあ、後で連絡します。だめならだめで、ネカフェとか。」
「危ない目に遭ったこととかないの。」
「母親、見る目ないから。帰るほうがよっぽど危ないかもです。」
レナちゃんは苦笑交じりに言った。わたしは飲み屋すら少ない田舎町の出なものだから、繁華街が近いと妙な病み方ができて大変なものだと思った。わたしは郷里だって窮屈で全く好きではないのだけれど。
「ねえ、ナツミさん。泊めてくれませんか。」
レナちゃんは上目づかいでそう言った。世界にぽっかりと空いた穴みたいに黒い瞳が、媚びたように光った。おそらく他人の気を窺って、惹きつけていなければ生きてこられなかったと見える、切実さがひどく哀れだった。薄い唇が、どことなく卑屈に笑みを浮かべている。彼女にとっての真顔が口角の持ち上がったものであるだけかもしれない。
「遠いよ。」
「知ってます。」
「なんで?」
「話してたでしょう。」
間の抜けた声でわたしが問い返すと、レナちゃんは当然みたいな口ぶりで言った。他人の情報にたいして収集癖でもあるのかと思った。レナちゃんにとってのわたしは、シフトがたまに被る、使えない大学生バイトに過ぎず、個人として認識されているか怪しいと思っていた。
「……ベッドも狭いし。シングルだよ。駅からもちょっと歩く。」
「大丈夫です。狭いところも、歩くのも、得意です。」
「散らかってるし。」
「うちよりましですよ。いやですか。」
レナちゃんは妙に神妙な目つきでわたしを見つめた。目を見つめて話をするのは苦手だ。ぱっちりとひらいた大きな目に、世界に対する感覚器はそう大きくないほうが楽なんじゃあないかしらと思った。現実逃避である。
「……いや、まあ、いい、けども。」
わたしが渋々承諾すると、
「やった。」
とレナちゃんは目を細めた。自身を招き入れさせることに成功した吸血鬼はこんな笑みを浮かべるのかもしれないと思った。
わたしの疲れて乾いた目には、レナちゃんは不思議なほどにきれいに見えた。レナちゃんは機嫌よさげに、くるくるとストローでグラスのなかみをかき混ぜた。淡いピンクいろに塗られた爪が蛍光灯の白い光を反射してつやめいた。派手ではないもののいくらかの装飾がほどこされたそれは、おそらく店で塗っているもので、どこから金が出てくるものかと思う。レナちゃんは高校生にしては心配になるくらいシフトに入っているものだから、その金すべてを美容に回しているんじゃないかと要らぬ心配をする。高校生なんてそんなものだろう。
「じゃあ、どうしよう。終電、何時ですか。」
「23時ごろには出たいかな。」
「あー、じゃあまだ全然。ここが閉まるほうが先ですね。あっ、ピザ頼みませんか。」
「うん、何がいい?」
「うーん、マルゲリータで。」
店員を呼ぶと、もうほとんどラストオーダーの時間だったらしい。アイスクリームをふたつ追加で注文した。ミルクアイスってバニラアイスの下位互換じゃないかしらと思う。ジェラートらしいけれど、わたしにはアイスクリームと、もっといえばラクトアイスとの違いだってわからない。食事を済ませたらすぐに出ろと言わんばかりに冷やされた店内で、身をすくめたくなるくらい身体が冷える。ピザにピザカッターを走らせる。表面に薄い溝ができたていどだけれど、ちぎるようにして一切れを無理に持ち上げる。うまくはないなと思う。レナちゃんも一切れ引きちぎって、やや小ぶりな口に押し込んだ。薄い唇がてらてらと油で光る。
「んふふ。ピザって好き。」
「そのわりに、肌とかきれいだよね。」
レナちゃんは満足げに肉づきの悪い頬を持ち上げていたけれど、にわかに険のある目つきになった。
「遺伝かもです。母親も、そうでした。」
ひとつ深く息を吐いて、そして何事もないかのように笑ってみせた。しいて大きく開けられた口から八重歯がのぞく。外面はきれいな造形をしているのに、思いのほか歯並びは悪い。
「やだ……あたし、結局、そういうことばっか。ナツミさんに甘えてるんですきっと。」
「そんな甘えるような仲じゃないでしょう。」
「知らない人のほうが楽なんです。」
わたしたちはのろのろとピザを平らげると、店を出た。冷え固まったチーズは不味い。
外はすっかり暗く、陽射しのあるころよりはずいぶんましなものだけれど、ぬるく湿った空気がむっと立ち込めている。通勤ラッシュは過ぎたけれど、まだ早いものだから、電車の客入りは多い。年嵩の人びとはそろって疲れた面差しでうなだれて、わたしもいずれこうなると思うたび寒気がする。それに反して、若者たちは自棄じみた明るさである。酔っぱらっているのだろう。誰ひとり健全ではないように見えて、絶望と安堵のないまぜのような、不思議な感覚を覚える。
「どのくらいかかりますか?」
「まあ……一時間はしないくらいかな。乗換一回。」
「ああ、意外とすぐなんですね。」
レナちゃんは座席に座ると、目を瞑った。降車駅もわかるまいに、わたしがきちんと案内すると信じて疑わない無防備な寝姿である。睫毛が頬のうえに扇状に広がったさまが無性に安らかだ。エクステかパーマかわからないけれど、ながく上向いた毛先がめいめいに蛍光灯の光を反射した。豊かとはいえない胸元が静かに上下して、子どもみたいだと思った。わたしはポケットからスマートフォンを取り出して、特に興味のない漫画を読む。イヤホンをせずに電車に乗るのは久方ぶりのことで、記憶よりずっとうるさい。レナちゃんの薄い肩がわたしの肩口にもたれてくる。思いのほかずっしりと質量がある。皮膚と、かすかな肉の内側に、硬い骨が存しており、わたしに刺さるみたいだった。他人ならば押し返すものだけれど、そういうわけにもいかず、わたしもおとなしく目を瞑った。乗換駅までには目が覚めるだろう。
しばし眠った。
「レナちゃん、次降りるよ。」
レナちゃんは重たげに目蓋を持ち上げた。なかば閉じられた目蓋のすきま、くろぐろとした瞳がわたしを射すくめるようだった。普段はつらつとしてかわいらしいという印象が先立つ娘だから、見慣れない姿を目にするといっそうどぎまぎとして、どこか居心地が悪かった。常だろうと、レナちゃんといて居心地が良いことはほとんどないかもしれなかった。
「はあい。」
レナちゃんは気の抜けた返事をした。わたしたちは席を立つ。
ホームに立って、しばし電車を待つ。もう都内から出て、郊外にいるわけだけれども、わたしの郷里と比べたら電車の本数ははるかに多い。ほどなくして乗車する。普通列車は先ほどよりものろのろと先へ進む。効きすぎた冷房が寒いようで、レナちゃんは腕をさすった。もうすこし乗客がいる前提での温度設定なのだろう。むろん人など少なければ少ないほどよい。人でない、あたたかいものがあったらいいと思う。
「もう次。」
「ああ、すぐですね。」
「うん。降りたらすこし歩くけど。」
「夜のお散歩ですね。」
彼女の癖らしい、愛らしい上目づかいでわたしを見上げてみせた。小首をかしげたわざとらしいしぐさがさまになる娘である。それはきっと、あまり幸せなことではないのだろう。
降車した。相も変わらずぬるい空気がむっつりと淀んでいたが、わずかばかり風があった。夜風がもたらす涼などちゃちなもので、すぐにこれが平常ですといわんばかりの暑さが立ち戻った。どこに逃げても暑くていやになる。いや、どこにも逃げていないし、逃げ場などひとつたりとて存在しない。近頃のわたしといえば大学と大学にほど近いアルバイト先、自宅の三点をうろうろと右往左往するばかりで、どこにいてもただ、気が遠くなるくらいに暑かった。すべて自分で選んだ環境であるからいっそう腹が立つ。だいいち私学のくせに空調などで吝嗇するなどばかげている。わたしの両親がなんとか金を工面した甲斐がない。いや、それをいうならば、そもわたしを大学などに通わせるべきではなかった。いや、…………。
ああいやだ。
かぶりを振る。
「スーパー寄って、なんか買おう。飲み物とか。」
自動ドアがひらくとともに、冷たい空気がわたしたちを包んだ。無機質な空間は無性に落ち着く。入り口で買い物かごを取ると、野菜コーナーを素通りして、肉と魚も横目に通り過ぎ、飲料コーナーへ向かう。スーパーマーケットでは生活の不得手さが露呈するようで恥ずかしく、しいて胸を張って歩く癖がある。安っぽいデザインの缶ばかりが立ち並んでいる。新商品の缶ビールが目に留まるが、手には取らなかった。少女漫画原作の映画ポスターみたいな、つまらないフォントでつまらない惹句が印字されている。くだらないわたしにも一丁前に軽んじるものがあることを、自覚するたびにおかしく思う。
「飲むけど、いい?」
「あたしも。」
「未成年でしょう?」
「酔うのって好きなんです。そういうの、気にする人ですか?」
「あはは、そんなの、気にしないけど。」
「やったあ。何飲みますか。」
レナちゃんは機嫌よさげに陳列棚をながめる。どれも大差あるまいに、そう振舞うことが癖づいているのだろう、レナちゃんは嬉しそうだった。わたしがビールの小瓶を手に取ると、レナちゃんも同じものを手にした。瓶を青白い手の内でぐるぐると回しながら、ラベルをじいっと見つめていた。そして、知らないビールだとつぶやいた。わたしはレナちゃんの手からそれを取り上げて、買い物かごへと放り込んだ。そうして、自分用にもう二本、安くて度数が高いだけのチューハイをいれた。うまい酒はむろん好きだけれど、安くて頭が痛くなるような、悪い酒のほうがわたしにふさわしく、落ち着くのである。
会計を済ませ、スーパーマーケットを出るや否やビールを開けた。プルトップ式の瓶だから、栓抜きを持ち歩いていなくとも、べろりと蓋を剝がすことができる。味が好みだというのもあるけれども、むしろその点をわたしは好んでいた。レナちゃんも同じく開封して、天をむいて瓶のなかみを呷った。喉がすっと冷たくなって心地よい。喉が渇いていたのか、そのままほとんどを飲み干してしまった。
「甘いんですね、これ。」
「うん。苦いビールって、あまり得意じゃないの。好みだったらいいんだけど。」
だらだらと暗くなるばかりの道を歩いた。田舎道は虫やら蛙やらの声ばかりする。都会だって夜はいかがわしい人びとでうるさいし、静かな夜なんてものはこの世に存在しないのかもしれない。
「好きですよ。」
レナちゃんはにっこりとわたしを見つめた。
危なかった。もしわたしがもうすこし幼かったら、たとえばレナちゃんと同い年だったならば、わたしはすっかりレナちゃんに中てられていたに違いあるまい。よかった、とつぶやきながら、何がよかったのやら、我ながらばかばかしい。ごまかすように瓶に口をつける。
「ああ、花火でも買ってもよかったかも。」
「あー……やりたかったですね。あ。」
レナちゃんは道の脇を走る川に目を留めた。流れはゆるやかながらそれなりの水量があり、淀んではいないものだから水質は悪くないように見える。歩道に近いためか、形ばかりの橋がかかっている。ちゃちなわりに古ぼけているので、そうひどい水害のおこる土地ではないのだろう。わたしは空になった瓶を適当に鞄にしまって、次は缶に手をつける。小気味いい音とともに、アルコールの匂いがつんと鼻をつく。口をつける。いつ飲んでも、不味いものだと思う。喉から腹にかけて、かーっと熱くなって、頭が静かに重くなる。わたしがこれを好むのは、重たい毛布を使うと落ち着くという人がいるのと同じだと思う。
「ナツミさん、泳げます?」
「こう見えて、得意。」
「意外。あたしも得意なんです。」
レナちゃんは瓶のなかみをぐいっと呷ると、いまだなかみが残る小瓶をわたしに預けた。淡い金色をした液面が揺れて、ちゃぽんと間抜けな音が立った。レナちゃんは川辺で靴を脱いだ。ややくたびれてはいるが、よく見かける型のスニーカーである。靴下も脱ぎ捨てる。夏のわりに冬物かと思うほど厚手のものを履いている。レナちゃんはパンツの裾を邪魔そうに見つめ、そしてすぐに大胆にたくし上げる。ふくらはぎが白く、まぶしいくらいだった。
「ナツミさんも来ますか。」
「飲んでるから、パス。」
高校生時分はわたしもああはしゃげたものかと思う。わたしだってまだ十分に若いはずなのに、なんだかすっかりくたびれてしまっている。生活習慣が悪いためだろう。自覚はあるのに直せないものばかりである。直そうとしていないといったほうが正しいかもしれない。思考がよくない方向に傾いてきたことに気づき、手元の缶をぐいと呷る。よくないとはいうけれど、むしろわたしは自分と向き合うべきなのだろう。だけれど、疲れるから、いまはできない。レナちゃんに預けられたビールが邪魔になり、地面においてしまう。きっともう飲まないだろう。
「残念。冷たくて、気持ちいいのに。」
レナちゃんは水に足を浸していた。別にきれいな川ではなかろうに、変に思い切りのよい娘である。ざぶざぶと音を立ててレナちゃんは水を蹴り上げる。
「ほどほどにね。」
「はあい。」
レナちゃんは子どもみたいに甘ったれた返事をした。
チューハイを飲み下しながら、もやがかりつつある頭でどうでもいいことを考えていた。汗でじんわりとTシャツの背中が滲みつつあり不快だ。酒は不味い。やはりうまい酒が飲みたい。自分に不相応なものこそほしくなる。ふさわしいものはひとつだってほしくない。けれども、自分に不相応なものを手にするときまって落ち着かない気持になる。わたしが何を欲しているのかわからない。いつも通りの日々なのに無性に疲れている。アルバイトも大学ももう二度と行きたくない。冷房をつけない部屋に閉じこもって、死ぬまで布団のなかでじっと丸くなる。すべて意味がない。常のことであるが、捨て鉢な気分だ。アルコールのせいでうっすらと眠たくなってきた。飲んでいたものが空になったので、握り潰して、もう一本を開ける。アルミ缶はやわらかくて、潰されるために作られたみたいだと思う。では、肉づきがよいほうではないけれども、けして強固とはいえない、やわらかな肉体をもったわたしは? アルコールと炭酸が喉を苛む。涼しくていい気持。もうなにもしたくない。どこへも行きたくない。なんともなしに尻ポケットから煙草とライターを取り出し、火をつける。吸う。いい匂い。きょう初めて呼吸ができたみたいだ。
わたしはなにをしていたのだったかしら。
これまでのいきさつをはたと思いだして、大きく瞬きした。さすがに未成年の前での喫煙はよくはあるまい。そういえばレナちゃんは? 川のほうへと視線を向けると、レナちゃんの背中が川面に浮かんでいた。
痩せた、どうにも心許ない背中であった。
わたしは煙草の吸い口をきつく吸いこんだ。鼻の奥までつんとした痛みが走って、わたしをほんのすこし冷静にさせた。煙と同時にため息を吐く。ああ、まいったな。面倒なことになった。安易に流されて、子どもを連れ歩くんじゃあなかった。水面で波打つ髪は妙につやめいてきれいだ。川底までそう深くはないものだから、レナちゃんは倒れ込んだような姿勢そのままである。
「レナちゃん。」
恐る恐る呼びかけるけれど、レナちゃんは微動だにしない。ただ、つやつやとした黒髪が、波が立つのにあわせゆらゆらと揺れるだけである。押し黙って波間へ向かってうつむくレナちゃんの頭は小さかった。触れたことのない頭だと思ってながめていた。わたしが立ちすくんでいるうち、時間は確かに経っていたらしく、煙草がすっかりフィルターすれすれまで燃えており、指先が熱かった。地面に放り捨てて、靴で踏みにじった。わたしはあたりをきょろきょろと見回して、レナちゃんのほうに歩を進める。缶チューハイの残りを飲み干して鞄にしまった。レナちゃんの腕をつかむと、川辺から勢いをつけて、レナちゃんの身体を引き起こす。水中から引きずり出すと、ろくに肉の付いていない身体のくせ、その髪と服がたっぷりと水を吸ってやたらに重かった。さて、わたしはなにをすべきなのだろう。対処などなにひとつ知らなかった。うーむと重たい身体をつかんでしばし思案したのち、わたしはレナちゃんのずぶ濡れの服を絞って、その身体を背負いあげたのだった。
さいわいもうわたしの住居に近い地点だった。体力的にはなんとか運びきれたけれども、今思うと、ずるずると続く水の跡はみつかったらさぞ不審だっただろう。わたしはレナちゃんを家に運び込んだあと、急に不安に襲われて川辺にもどったのだけれど、その帰り道ににわか雨が降って、わたしの足跡はかき消された。靴やら飲みさしのビール瓶やらを回収し、濡れ帰りながら安堵の息を吐いた。
悪いことをしているという自覚は、正気でないながらもかろうじてあった。
レナちゃんは狭いワンルームの、申し訳程度の浴槽でぐったりとうなだれている。こういうときってどうしたものなのかしら。首をかしげて、とりあえず浴槽においたけれども、そうしてみるとわたしがシャワーを浴びにくいことに気が付いた。とりあえずエアコンをつけ、服を脱いで、バスタオルで乱暴に汗だか雨だかわからない気色の悪い液体を拭って、布団に身を横たえた。疲れている。一度目を閉じてみて、このままじゃ眠れやしないと思い、台所に向かった。シンク下の収納をあさると、わずかに中身をのこしたウォッカの瓶が出てきた。こいつを飲みながら煙草でも吸おうかと手探りに探すと、すべて濡れきってだめになってしまっていた。しかたがないので、瓶のなかみをぐいと飲みほして、布団にもどる。
寝ても覚めても暗い部屋で暮らしているものだから、特に起き抜けは今が何時かなんて到底わからない。特にゆうべはわたしなりに動転していたものだから、アラームをかけるなど考えることさえしなかった。カーテンを開けると真っ白な日差しが目を刺すようだったから、きっと午前ではあるだろう。慌ててぴっちりと閉じなおした。今日の予定は何か、予定があったかすらわからない。スマートフォンを見るも、充電切れの真黒な画面が間抜けたわたしを映すばかりであった。充電ケーブルを挿して、顔を洗おうと浴室に向かおうとし、思い直してシンクで顔を洗った。脂っぽい顔を水道水で流すほかない。ため息を吐いて、早く片付けてしまわなきゃいけない、そう思った。
だいぶ酔っぱらった感覚があるから、悪い夢か幻覚じゃないかしらと、無理な期待を抱きながら、浴室の戸を開ける。レナちゃんは変わらずそこで押し黙っている。安っぽい扉をからからと閉めて、どだい望みがないことはわかっていながら、レナちゃんの頸筋に手をあてがってみた。当然のように脈は感ぜられない。幾度めともしれぬため息を漏らしながら、どうしたものかなあ……と天を仰いだ。クリームいろの浴室の天井は結露をまとって、わずかに黴が生えていた。
わたしはひとまず居室にもどると、布団に横たわって、スマートフォンを起動した。古ぼけた端末が立ち上がり、部屋がほんのすこし明るくなった。ブラウザをひらき、画面上で指をくるくると回す。迷っているときや手持無沙汰なときのくせである。「人 意識ない どうする」。ばかげた検索ワードを打ち込んで、我ながら心底どうにも救いようのないやつだと思った。救急車を呼ぶに決まっている。なぜわたしがレナちゃんを自宅に持ち帰ったかというと、むろん露見を恐れてのことである。未成年を連れて帰って、酒を飲ませて、挙句おぼれさせた。曲がりなりにも成人しているから、わたしが責任を被ることになるのは至極当然の流れである。酒を飲むとすべてどうでもよくなってしまうという悪癖にたいして、確かに自覚はもっていたわけだけれど、それにしたって最悪な性質だと思った。わたしがすべて悪い。いや、すべてか? レナちゃんはかわいそうだけれど悪い娘だろう。わたしだけではない。ただ、レナちゃんには責任がないだけ。
起き上がって台所の換気扇をつける。苛立ちのまま煙草を探る。ああ、すべてだめにしてしまったんだった。乱暴に換気扇のスイッチを切る。
持ち帰ってしまった以上、どうすべきか。わたしが持ち帰ったということが誰にも気づかれないように、始末してしまわなければならない。小柄とはいえ人間の、普段手にしないほど大きな、未処理の肉塊をである。肉というのは腐るから具合が悪い。わたしも自炊をしようとしていたころ、買った肉を腐らせてだいぶまいったことがある。悪いことにいまは暑いものだから、早急に始末してしまわなければならない。
レナちゃんはあまり家に寄り付かず、親も関心が薄いようすだったから、いなくなってもそうすぐに気づかれはしないだろう。学校にはどのていど熱心に通っていたものか知るべくもないが、そこまでまじめでないことは窺える。このご時世、あまり介入することもできないだろう。アルバイトを飛ぶ学生なんて山ほどいるから、出てこなくなってもそう気にはかけられないはず。わたしは自分が責められず、うまくやってのける理由を探していた。不安である。ぐるぐると、同じことばかりが脳内をめぐる。
ほんとうに、どうしたものかしら。猟奇事件のWikipediaをながめた。明るみになったものしか掲載されているはずがないのだけれど、やはり、人のかたちをしている状態ではいけないと思う。細かくする必要がある。刃物が要る。シンク下の戸棚をひらいて、しばらく使っていなかった包丁を取り出した。斑点のように錆が浮いていた。こんなことは正気じゃできやしない。酔っぱらう必要がある。
わたしが必要と思ったものは、駅近くのドラッグストアですべてそろった。手持ちのものより大ぶりで、きれいな包丁。ゴミ袋。チューハイ、煙草。自棄で日本酒も買った。レジ袋をのぞくと妙になまなましく思われて、いやな気持がした。会計を済ませ、自動ドアが開くや否や缶のプルトップを引き上げて、なかみを口内へと注ぎ入れる。ああいやだ。面倒だ。面倒だし、恐ろしい。これまでに人の肌を切ったことなどない。わたしはだらだらと歩を進めて、そう遠くないはずの家路が無性に長かった。日光がじりじりと照りつけて、わたしを責めるようだった。軽い脱水のせいだろう、鈍い頭痛もまたわたしを苛んだ。
ようやく自宅までたどり着き、荷物を乱暴にまさぐって、鍵を開ける。わたしが刃物を買っていたこととか、もっというと、ゆうべレナちゃんとスーパーに寄ったこととか、簡単に調べられるのだろうと、今更考えた。いまならまだ、保護責任ナントカ、みたいなわりあい軽い罪で済まされるかもしれない。交番がどこにあったか思い出せない。いや、解体用みたいな買い物をしている時点でだめかもしれない。だめかも。
どうにも気分が塞ぐ。当然のことである。
浴室の扉をがらりと開けて、レナちゃんを正視する。一夜ではそう大きな変化はなく、ただ静かにそこにいる。眉根が寄って、口元も苦しげに歪んでいる。睫毛のみ上向いているのが、場違いな印象を受けた。無駄と分かっていながら、頬をぴしゃりと打ってみて、目を覚まさないかとながめてみる。むろん徒労である。幾度めとも知れないため息を吐く。レジ袋から包丁を取り出して、包装を剥がして、握ってみる。手持ちより大きいとはいえ家庭用にすぎないわけだから、解体用のような、ちゃんとしたものを買っておくべきだったかもしれない。何を使うにせよ、どうにも抵抗がある。わたしは善い人間ではないけれど、それは怠惰であるというだけで、他人に対する攻撃性や、悪をなそうという気持ちを持ち合わせているわけではないのだった。
ふと浴室を出て、散らかったテーブルの上からはさみを探し出した。抵抗感が薄れるかもしれない、そう思って、レナちゃんの髪を切ってみる。しいて荒っぽい手つきで、つややかな黒髪にはさみをいれる。髪を指で触れることはせずに、ただはさみを入れ続けていたら、やわらかいものを挟み、そして切ったことに気が付いた。はさみで髪をかき分けてみると、白く丸い耳朶が切れていた。血が出ないものである。薄い耳朶は思いのほかたやすく切れた。白い肉片を足元に認めて、わたしは鼓動が激しくなるのを感じた。
引き返せないところまで来てしまった。浴室の床に座り込んで脱力した。はさみを握っていた、自分の右手をひらいて、じっと見つめた。不健康に白い指先がかすか震えている。洗面台で手を洗って、汗でへばりつく髪を流した。排水溝が詰まるかもしれないと憂鬱な気がした。掃除をしなくては。かけっぱなしのスポンジを手に取りかけて、そんな場合ではないと手をおろした。逃れようもない現実として、ざんばらに髪を切られたレナちゃんがうなだれている。吐き気が込み上げてきたので、屈んで唾を吐いた。
ひどく気分が悪い。吐いた唾を流すついでに、あたりをシャワーで流してしまう。もう身体も流してしまうことにする。水が冷たく肌を叩くのが心地よい。髪がすっかり濡れきったころにシャワーを止めて、深く息を吐いた。頭が冷える。コールドシャワーってやつだ。ガス代を払い忘れて、ガスが止まったときにしかやったことがない。扉を開けて、置きっぱなしのレジ袋から、缶チューハイを取り出した。勢いよく開けて、喉へと注ぎ入れる。気づくとすっかりぬるんでしまって、いっそうまずい。浴室は換気扇をつけているからいいか。手を拭って煙草をつまみ、火をつける。指が湿っているものだからすぐに折れてしまった。床にへたり込むと、切られた黒髪が静かに、排水溝へと吸い込まれている。
ぬばたま 市街地 @shesuid
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