海迷宮
@dadamu
第1話
ここは我が家から、どれほど距離があるだろう。この、わけもなく浜にやって来た、久々の家出、どうも見当つかぬほど遠くへ来た。
夕は溶け堕ちた。金の灼熱がやたら恋しくなった。空が只一生焼けていれば清々しい。ここまで寂しくなくていい。
凪はやはり凪であった。いつ、やって来ても、身も慣れぬ恍惚にまどろむ。凪は、海のせせり泣く声を呟く。私の寂しさを唆し、私はそれに耳を澄ます。テトラポッドに弾かれる一波二波は、打ちひしがれ、わめき苦しんでいる。然し、嬉々の声にも感じる。残量はこぞって砂浜に被さり黒く滲む。夜風が荒れて、泡沫がぱちぱちと張り裂ける。全ては遠方から頓と鳴っていた。浜は暗がって、私の不吉な孤独を明確にしてきていた。
先日、馬鹿をやった。精神薬百錠の服用を極め込んだ。理由は覚えてない。これによって、起草は一行も努まらなくなった。後遺症である。作家を志していたけれど、これでようやく思い切れた。九年近い執筆が無駄ときた。恥辱の果てを極めて来た。
つまり嫌気さして、夜分、ぶらぶら浜に訪れたのである。羽織もなしに飛び出たのは実に間違いであった。もう随分と肌が冷たい。帰りたくなった。いや、帰っても自殺を考えるだろう、帰りたいものの、事実帰ってみたくもない。
溺れようと思った。私は素足で浜辺を行き、水面を踏み切り、切っ先の、水平線をのろのろと揺れて目指した。水平線に不知火が浮かんでみえる。街明かりである。今も活発な酒飲みたちがつけたのだろう。
恐ろしく冷たかった。袴は、湿って、肉にへばりつき、運動を翻弄させてくる。進む分には気にならない。けれども、それも初めの内、進むごとに、塩水が胸まで上がって、そして、濡れた半ばで、私の息は慌て、どうにか引き返せぬかまごついた。覚悟が浅はかであった。
あと一歩二歩踏み外せば底は深かった。
世間、そして諸君よ、笑え。笑うがよい、おい、聞け、きみらはこの後、この本気に狼狽し、ついに笑えなくなる筈である。
流されよう。思い切って、流されよう。ついに足を浮かべた。途端に、身に覚えない、地雷の爆ぜたよな大音が私の背筋にこうむった。私がなにか誤ったか? この気配が、海面を真白く律動させ───それに気が向いた。つぶさの火種が沖に降り注がれていた。花火の爆破後であった。夜を円く焦がし、縦にぱちぱちと枝垂れ、先から縮れると、忽然と燃えつきるのである。夜行太陽である。夜は白昼の焦げ跡かもしれない。
依然沖でさんざ爆ぜて居た。さてひどい懐かしさを心得た。母と好く好くこの景色を訪ねたものである。来年またあるだろう。
引き返す? いつ戒める? それより、来年母と見る火花の色を知りたい。ああ、参った、またこうして生きのびて、あわれに助かって、また思いがけず損して、その不幸の繰り返しである。
もう一声、いや、二度はないのだ、溺れるのだ、そして、私はついに踏み間違えた。けれども、なにかが私の踵を柔らかに挟み、決して離さなかった。私は昆布のように縦に浮かんだ。
底を見下ろした。男が、薄目して、私を見上げて居る。男は何人も沈んでいた。すべて同じ顔であった。いや、何人でない。何千と、何万と、男が仰向けで重なっている。せせら笑っている。彼らの一人二人の隙間に私の踵が挟まっている。彼らは息をしているのか? していないのか、そもそも溺れているのか、ああ、幻覚なのか───わけが分からぬ。土左衛門にしても、どうして息している。
めいめいは私そっくりであった。私である筈ない。ずっとこの霊(霊なのか?)に、よくもわからぬ懐疑を満たして眺めていた──ここから私の意識は定かでない──踵は確かに抜けはじめていた。けれど心ここにあらず、ぼんやりとして、気づいた頃には、ようやく私の臆病が当惑しだした。またその頃には踵は外された。律動は、私を逆さに運び、海中で踊らせ、溺れさせた。
*
それからは、まるで覚えないのだけれど、やはり、まさに今、この浜に寝付いた私が目覚めたのである。
あの土左衛門は、あの海は、事実とは考えぬが、事実とも思える。本来あの海で、本物の私が流されて行ったのではないか? いや、恐らく、花火のあと、沖に上がり、そのまま寝付いた。そうして自殺の続きを夢に見て、今、目が覚めた。
夜の沖に、また火花が群がった。じっと見惚れた。花火は、私をずっと引き止めた。今こうして息しているのは、実は、流された本物の私が見ている形而上の悪夢でないか、などと、私は突然、本気に疑い始めた。依然、火花は枝垂れ、宙に溶け、また、寒空に爆破される。私は、この絢爛な一連がどうも不気味で不気味で、なにか騙されているようで仕方がなかった。
海迷宮 @dadamu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます