(一)

 水滸綺伝引首


 人は知る。

 絢爛たる輝きと偽りの幸福が落とす、闇よりも深い影を。

 人は嘆く。

 雅やかな音色と華やかなまつりに隣り合う、死と剣の音を。

 人は語る。

 水のほとりに笑い、梁山りょうざんに集いし英傑の生き様を。


 そして星の下で、すべての生と死は、乱れ、巡る――



【第一回 張天師 祈祷で疫病を退け 洪太尉 妖魔を逃がす過ちを犯す】


 仁宗在位嘉祐三(一〇五八)年、大宋国


 日増しに濃さを増す春の気配に誘われて、洪信こうしんの足取りは徐々に軽くなる。穏やかな木漏れ日の中で深く息を吸えば、萌えはじめたばかりの草木の香が胸を満たし、すうと汗が引いていく。三月三日に開封東京かいほうとうけいを発ってから十数日――重荷を負ったこの旅も、ようやく終わりを告げようとしていた。

 「洪信様、あちらに見えますのが竜虎山りゅうこさん上清宮、張天師様がいらっしゃる社殿でございます」

 付き添いの役人が、安堵に掠れた声をあげる。半月の様に気だるげな眼を彼が手で示す方に向ければ、遥々目指してきた建物が、ようやくその優美な佇まいを山の麓にあらわしていた。

 社殿に続く山道の脇を流れる清水には、青々とした松や柏が映り込んでは揺蕩い、凛と艶やかに咲き誇る花々に彩られた堂々たる門には、帝より賜った金書が誇らしげに掲げられている。

 洪信が到着したことを昨夜のうちに知らされていたのか、社殿の内外を大勢の道士たちが行き来するざわめきとともに、鐘や太鼓が奏でる天上の響きのごとき仙楽が耳元を心地よく舞う。

 「どうやらこの務め、無事に終えられそうだな」

 懐に厳重にしまい込んだ皇帝の勅書を着物の上から握りしめ、ひとつ息をつき、額に一筋かかる髪をかきあげる。仁宗じんそう帝より勅使に任命されてからというもの、この勅書の重みがずしりと全身にのしかかっていた。だが、それも、もう終わる。あとは張天師に勅書を渡し、ともに開封東京まで無事に帰りつけば、解放される。

 「おお、洪太尉殿、お待ちしておりましたぞ」

 すでに役目を果たし終えたかのように颯爽と門をくぐった洪信のもとへ、皺深い顔をくしゃりとさせながら微笑む道士が、すべるように近づく。彼の後ろにもまた多くの道士や稚児が控え、歓迎の意を満面に湛えながら、洪信の上背を見上げていた。

 「この度は遠路遥々、よくぞお出でくださいました」

 「皆の歓迎、いたみ入る。さっそくだが、張天師様はどちらに? 一刻もはやくこの勅書をお渡ししたいのだが」

 勅書を納めた胸元を神経質に探る洪信の心中を知ってか知らずか、老いた道士はゆったりと笑みを浮かべたまま静かに頭を下げた。

 「太尉殿、張天師様は、虚靖きょせい天師と呼ばれる通り、俗世から遠ざかり浮世に暮らすお方。日頃は竜虎山頂の庵にて独り、修行に身を捧げておられます故、この社殿に下りてこられることは滅多にございません」

 「何だと?」

 その言葉の意味を理解した途端、重荷から解放されかけていた洪信の体に疲れがどっと舞い戻ってくる。

 「私は陛下直々の御詔勅を携えてここまで来たのだ。張天師にお会いせずに帰ろうものなら、この首が宙を舞うことになるんだぞ! いったい、どうすればお会いできるのだ」

 「落ち着きなされ、太尉殿。あなたの御務めは私たちもよく存じております。まずは御詔勅を社殿にてお預かりし、奥の間でお茶をお出しいたしましょう。太尉殿には先に長旅のお疲れを癒していただくのがよろしいかと。張天師様の件は、それからお話いたします」

 何を悠長な、と怒鳴り散らしたいのをぐっとこらえ、洪信は鷹揚に頷いた。仮にも皇帝直々に推挙された勅使が道士に暴言を吐いたとなれば、大きな問題にもなりかねない。それに何よりもこの道士の言う通り、さすがの洪信も、開封東京から江西信州こうせいしんしゅうへの長い旅路で疲れ果てていた。ここまでたどり着いたのだから、茶の一杯や二杯、付き合ったところで何が変わるわけでもないだろう。

 「ならば致し方ない、一休みさせてもらおうか」

 ――道士たちに導かれるまま社殿に足を踏み入れ、ひとまず勅書を預けた洪信は結局、一杯の茶どころか机一杯の精進料理で手厚い歓待を受けることとなる。

 (まったく、こちらの気も知らずに呑気なものだ)

 相も変わらず柔和な笑みを浮かべる老いた道士にできるだけ苛立ちを気取られぬよう、洪信は食後の茶をすすりながら本題へと切り込む。

 「張天師様は山頂の庵から下りてこない、と申されたな。何故ここへ下りてくるよう、人をやって呼んではくださらんのだ」

 「洪太尉殿、先ほども申し上げた通り、張天師様は俗世に身を置かぬお方。ここに下りてくることは滅多になく、道士の中には入山して以来一度もお姿を拝見したことがない者もいるほどでございます。我々の方からお呼びたてするなど、とても恐れ多いことでして……」

 「恐れ多い? よいか、陛下は都を蝕む流行り病から民をお救いせんと、直々にこの私を勅使として選ばれたのだ。疫病を退け民を救済せんと、名高い天師に祈祷をあげていただくよう勅書を示された陛下の御心をないがしろにすると申すか!」

 もはや苛立ちを隠すこともせず茶碗を机に叩きつけた洪信の姿を、道士の深く輝く双眸が、じ、と見つめる。まだ何か御託を並べるようであれば、いかに信心深い道士と言えどただではおかぬと腹の内で息まいていたその時、道士は深々と頭を下げ、低く揺らめくような声を漏らした。

 「陛下が宋国の民をお救いたまわんと願われるのならば、まずは御勅使である太尉殿自ら誠意を見せていただかなくては」

 「……私に誠意がないとでも言いたいのか」

 「いえいえ、滅相もございません。洪太尉殿は誠実な御心の持ち主。ですからまずは白衣に着替え、沐浴をし、供は連れずおひとりで山の頂まで上っていただいて、太尉殿自ら張天師様に平伏してお願いするのがよろしいでしょう。太尉殿の誠意をご覧になれば、必ずや天師様も山を下り、祈祷のために俗世に戻ることを了承されるかと」

 ここまで来て、勅使である自分がわざわざ山登りをさせられるとは甚だ納得がいかなかったが、この様子では待てど暮らせど張天師には会えそうもない。それにここで務めをしくじれば、己に待つのは不遇の未来だけだ。

 「そういうことならば、貴殿のおっしゃる通りにしよう。明日の夜明けに出発する」

 「承知いたしました。ではさっそく、道士たちに沐浴の準備をさせましょう」

 何か、うまく丸めこまれたような敗北感を胸に抱きながら、洪信は道士たちに続いて宿坊へと身を寄せた。

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