(二)

 大気が薄紫にけぶる暁の空の下、洪信は香水で禊を済ませた長躯を真っ白な衣に包み、袱紗に包んだ勅書を背負って山頂を睨みつけていた。

 「洪太尉殿、どうかくじけることなく、誠実な御心を持って上りなされ。天師様はきっと、御力を貸してくださいましょう」

 老道士のにこやかな顔に向けてあからさまに溜息をひとつ吹きかけ、彼の捧げ持つ銀色の香炉を受け取った洪信は、未だ疲れの残る体をひきずるようにして山道を上りはじめた。

 時が時でなくば、目の前に広がる竜虎山の絶景に心から感嘆したであろう。だが今の洪信にとっては、青々とした清水が滴る滝も、空高く枝葉を伸ばす緑の木々も、霧の向こうでさえずる鳥の歌声も、宝玉のごとく朝露に光る山道も、そのすべてが鬱陶しく思えてならなかった。

 「くそ、長いな」

 山道を歩む間に空高く姿を現した太陽が、洪信の高い頬骨に汗を滑らせ、銀の混じった髯を伝って山道に微かな痕跡を刻む。

 「この私が……都では偉大なる大将よ貴公子よと慕われるこの私が、何故こんな襤褸わらじをはいて、山道を歩かねばならんのだ!」

 だが、尊大な愚痴をこぼしたところでそれに応える供もおらず、これでは力の無駄遣いだと、鷲鼻にしわを寄せてむっつり押し黙る。常の優雅で何不自由ない贅沢な暮しに浸かりきった体はすでに、悲鳴を上げはじめていた。

 「はぁっ、はぁ、まったく、腹が立つ……!」

 ついに洪信の脚が、主の意志に反してぴたりと止まった。いや、あるいは、主の意志に従ったのかもしれないが。

 「少し、休まねば、山頂まで体が持たぬ」

 手近な巨岩に身を預け、肩で大きく息をする。どこまでも清涼な空気を吸い込んだとて体の疲れが癒えるわけでもないが、そうでもしなければ呼吸すらままならない。今や脚は鉛のように重く、喉は乾ききって塞がらんばかりだ。

 「ありがたい、水だ」 

 がっくりとうつむけば、岩棚の間から清らかな水が湧き出ていることに気付き、慌てて両手を伸ばすと、飢えた獣の如く必死に啜る。

 そのときふと、洪信の頬を撫でる風が、強さを増した。

 「何だ?」

 轟――

 微かな違和感に顔をあげた洪信の耳は、次の瞬間、稲妻の如く地を揺るがす咆哮に貫かれた。

 「なっ……!」

 それまで疲れと怒りに細められていた洪信の瞳が、張り裂けんばかりに見開かれる。皇帝の勅使としての威厳も太尉としての誇りも、目の前に突如として立ちはだかった恐怖――白と金のまだら模様も眩い巨大な虎の前には、なんら意味を成さなかった。

 「あ、ひ」

 言葉にならぬ喘鳴を漏らし、情けなく腰を抜かして倒れこむ洪信のすぐ傍を、虎の低い唸り声が掠める。地獄の裂け目のように開いた緋色の口蓋の中で鮮烈な白さを放つ牙は、戦場の矛先よりなお鋭く、冷たい汗がどっと背中を流れ落ちる。

 (喰われる……!)

 空腹にぎらつく稲妻色の瞳も、跳躍に備えるように隆起する脚も、すべてが幻であってほしいと願うように、洪信はきつく瞼を閉じ、

 「……は?」

 号砲の如き声が遠ざかった気がしてゆっくりと瞼を開けば、先ほどまで支配者の眼差しで洪信を睨みつけていた虎の神々しい毛並みが、はるか崖の下へと消えていくのが見える。

 「な、何だったのだ……」

 噛み合わぬ歯がたてる耳障りな音に紛れた安堵の声が、まるで自分のものではないように聞こえる。震える手を動かせば、倒れ込んだ時に放り投げてしまった香炉のひやりとした感触に行き当たった。

 「くそ、こんなところで、逃げ帰るわけにはいかん」

 額を流れる汗を拭い、香を焚きしめなおし、力の入らぬ脚を叱咤して再び洪信は山道を登る。ことは国家の一大事である――そして何より、己の栄達のためにも、手ぶらで都に帰るわけにはいかないのだ。

 「陛下のご命令でなければ、こんな山道を誰がわざわざ……」

 恨みのこもった呟きはしかし、完成することはなかった。

 (こんな山奥で、私の命は尽きるというのか!)

 胸の悪くなる匂いの暴風が吹き抜けた、と思った瞬間、洪信を再び絶望させたのは、人を丸呑みできほどの巨体をうねらせる白蛇だった。気色の悪い緋色の舌をちらちらとのぞかせ、こちらを嘲笑うかのように口を歪める白蛇の鋭い吐息が目の前に迫る。今度こそ洪信はすべてを諦め、せめて苦しまず済むようにと祈り、

 「……なんと忌々しい! あの糞道士どもの術か? 私をこうも愚弄するとは」

 先ほどの虎と同様、何故か忽然と白蛇が姿を消したことで、洪信はこれが何者かの策謀であると確信した。生まれてこの方、ここまで馬鹿にされたことはない。下山したあかつきには、必ずやあの胡散臭い道士どもをひっ捕らえて罰を与えんと青筋を立てる洪信の耳に、今度は何とも物悲しいような懐かしいような、妖しい笛の音色が届く。

 「もう騙されんぞ」

 密かに腰元に忍ばせた小刀に手をかけ、笛の音の出所を探るように瞳を凝らすと、ふと目の前の木立が小さく揺れた。緊張に乾いた唇を一度湿し、細く息を吐く。次はどんなまやかしが現れても引き下がるまい――

 「あれぇ? こんにちは、おじさん」

 だが、どんな化け物が現れるかと身構えた洪信の前に、霞が形をとったかのように忽然と現れたのは、艶やかな飴色の牛に跨った幼子だった。

 疑心に苛まれる洪信の心を解くような鉄笛を響かせながら、幼子を背に乗せた牛はゆったりと進む。二つに結わえた団子髪からほつれる柔らかな黒髪を、まどろみを誘うような微風になびかせながら、幼子は、真っ白くすべらかな頬に笑みを浮かべた。

 「お、お前はどこから来たのだ」

 絞り出すような洪信の声を気にする風もなく、しばらく甘やかな笛の音を響かせ続けていた幼子は、蓮の花弁のように淡い色の小さな唇をいたずらっぽくほころばせ、鳶色の瞳を細めた。

 「ねえ、おじさん、張天師さまに、会いにきたのでしょ」

 舌足らずで愛らしいさえずりに、張りつめていた洪信の気がわずかに緩み、自然と話しぶりも穏やかになる。

 「お前、牛飼い童のくせに、なぜ私がここへ来たことを知っているのかね」

 「そりゃあ、天師さまがぼくに、教えてくれたもの。皇帝陛下が洪っていう名前のおじさんに手紙を持たせて、この山におつかいさせるってね。天師さまはもう、鶴に引かせた雲に乗って、都に行ってしまったよ」

 鈴の音のような笑い声を零す幼子は、内緒話をするかのように、洪信の耳元に唇を寄せた。

 「病気をなおす、お祈りをするって、言ってたよ。おじさん、もう、山をおりたほうがいいんじゃない? この山にはね、こわぁいけものがたくさんいるよ」

 「あ、おい」

 幼子の言葉の真意を確かめようと伸ばした洪信の手は、ただ、まとわりつくような湿気を帯び始めた風を掴んだだけだった。

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