水滸綺伝

一條茈

第一回 張天師 祈祷で疫病を退け 洪太尉 妖魔を逃がす過ちを犯す

【短文版】第一回 張天師 祈祷で疫病を退け 洪太尉 妖魔を逃がす過ちを犯す

【前書き】


水滸伝「原典」の第一回は正直、それなりの分量があるわりに、最後のインパクトに至るまでが冗長で、ここで心が折れてしまう方も多いような気がしています。

「水滸綺伝」の第一回はできるだけ短くまとめましたが、それでも原典にある程度忠実であることをモットーとしているため、やや長めです。

そこで、さらに気軽に水滸伝の世界に入っていただくため、第一回の短縮版を書いてみました。

しっかりと原典の流れを押さえたい方はこの次の(一)~(五)へ、はやく先に進みたい方は、本投稿読了後、(一)~(五)を飛ばして第二回へお進みください。

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 水滸綺伝引首


 人は知る。

 絢爛たる輝きと偽りの幸福が落とす、闇よりも深い影を。

 人は嘆く。

 雅やかな音色と華やかなまつりに隣り合う、死と剣の音を。

 人は語る。

 水のほとりに笑い、梁山りょうざんに集いし英傑の生き様を。


 そして星の下で、すべての生と死は、乱れ、巡る――



【第一回 張天師 祈祷で疫病を退け 洪太尉 妖魔を逃がす過ちを犯す】


 仁宗じんそう在位嘉祐かゆう三(一〇五八)年三月、大宋国


 季節外れに照り付ける太陽の光の中を、一羽の鶴が飛んでいく。

 優雅な軌跡を描くその翼の下、黄金色にけぶる雲を頂く峻嶺は、萌え始めた草木に彩られ、青き威容を湛えている。

 松や柏の大樹が映り込んでは揺蕩う清水の流れを追えば、凛と艶やかに咲き誇る花々に囲まれた堂々たる門が姿を現す。

 だが、帝より賜った「竜虎山りゅうこさん上清宮じょうせいぐう」の金書を誇らしげに掲げた壮麗な姿を愛でる余裕は、その門を通り抜けた男にはなかったようだ。

 「老いぼれ道士、出てこい!」

 足を引きずり、肩で息をしながら門をくぐった壮年の男は、清廉な山の空気を切り裂くような怒声をあげ、目の前の社殿の扉を破らんばかりに押し開けた。

 「おやおや、一体どうされました、洪太尉殿? そんなに血相を変えて。張天師様にお目にかかることはできましたかな」

 扉の向こうでは、この竜虎山に住まう道士たちがゆったりした着物の裾をなびかせながら祭壇の掃除をしたり、香を焚いたり、あるいは書を読んだりと、思い思いに過ごしている。

 その中心でのんびりとこちらを振り返った老道士に足音も荒く歩み寄った男――洪信こうしんは、眦を釣り上げ、腹から声を絞り出した。

 「ふざけるな! 貴様、よくも私を愚弄したな」

 つい数日前、きらびやかな装いに身を包み、数多の従者を引き連れ、開封東京かいほうとうけいより皇帝の勅書を携えて堂々と門をくぐった誉れ高き大尉の姿は、今や跡形もない。

 気取ったように結いあげていた髪を振り乱し、真っ白な衣を泥まみれにした己の姿を見ても顔色ひとつ変えず微笑む老道士の胸倉を掴み上げ、擦り傷だらけの顔を紅潮させながら、洪信は盛大に唾を飛ばした。

 「私は陛下の覚えもめでたい身分というのに、よくもあんな山道を歩かせ、そのうえ命まで取ろうとしたな。よいか、陛下は都を蝕む流行り病から民をお救いせんと、直々にこの私を勅使として選ばれたのだ。疫病を退け民を救済せんと、名高い張天師様に祈祷をあげていただくよう勅書を示された陛下の御心をないがしろにする気か?」

 「……と、おっしゃいますと?」

 「とぼけるな! 下界にはめったに降りて来られぬという張天師様にお会いするには誠意をみせろと貴様が言うから、大尉たる私がこんな険しい山道をわざわざ登ったのだぞ。それなのに道中、私を喰おうと目をぎらつかせる白い虎や、おぞましい臭いのする大蛇に襲われたのだ。あれは、私をこけにするために貴様が術で呼び寄せたものであろう」

 「これは異なことをおっしゃる。なぜ我々のようなただの道士が、高貴な御身分のあなた様を弄ぶようなことをいたしましょう。洪太尉殿、まさにその試練こそ、張天師様が太尉殿の御心を試されたものでございます。この山には確かに虎も蛇もおりますが、人に害を及ぼすような者ではありません」

 ありったけの威厳をもって睨みつけてもなお泰然とした道士の様子に、洪信は勢いを削がれはじめた。こんな風に言い含められては、まるで自分が駄々をこねる子供のようではないか。

 「しかも、負けずに私が再び山道を登ろうとしたとき、あろうことか牛飼い童が牛に乗って松の茂みから現れたのだ。どこから来たのか、私が誰か分かっているかと問いただせば、幼子らしからぬ訳知り顔をしおって、おまけに張天師様はすでに鶴に引かせた雲に乗って開封東京に向かわれたと言う。どうにも怪しく思い、これも貴様らの術かと山を下りてきたのだ……道士よ、説明しろ、お前たちは私に何をしかけた? 何を企んでいる?」

 「お、おお……洪太尉殿」

 どれだけ険しく睨みつけても揺らぐことのなかった老道士の顔に、唐突に、弾けんばかりの笑みが咲く。

 「洪太尉殿、その牛飼い童こそまさしく、張天師様その人にございます。なんと幸運な御方だ」

 「なに、あんな小さくて貧層な幼子が、天師だと」

 「ええ、張天師様は、この世の理では計り知れぬ御方なのでございます。年端もいかぬ御姿ながら並外れた力をお持ちで、あちこちで奇跡を起こしては崇められているのです」

 そのあまりにも誇らしげな語りぶりに、洪信の疑念や怒りはするすると体から抜け出ていった。冷静になれば、まさか皇帝の勅使に対して嘘偽りを述べるほど、この道士も命知らずではあるまい――洪信の拳は、ようやく道士の着物を解放した。

 「そうか……私は目があっても泰山たいざんも知らず、天師様の御姿を見抜くことができなかったというわけか。みすみす目の前で天師様とお話する機会を手放したとは」

 「太尉殿、どうか御安心ください。天師様ご自身が行くとおっしゃられた以上、太尉殿が都へお帰りになられる頃にはもう、天師様が御祈祷をすっかり済ませられていることでしょう」

 未だ半信半疑で中空をさまよう洪信の手を、道士の老いさらばえた手が柔らかく包み込む。

 「太尉殿、さあ、そうと分かればどうか御怒りを鎮めて、後は天師様にすべてお任せください。さあ、どうぞこちらへ……足慣れぬ山道、お疲れになったことでしょう。宴の席をご用意しておりますれば」

 ようやく、己の務めは終わったのだ――先ほどまでの怒りもどこへやら、大役を果たし終えた脱力感に肩を上下させると、洪信は道士に向けて鷹揚に頷いて見せた。


 三月三日、これまでにない重責を負って都を発ってから、遥々江西信州こうせいしんしゅうの山奥にたどり着くまで十数日。

 常に鬱々と見えていた周囲の景色が嘘のように鮮やかに色めきだすのを、洪信はすっかり憂いの晴れた心で見渡していた。

 この地に逗留するのも今日が最後だからと道士たちに案内され、仄白いかんばせも麗しい二人の稚児の後に続いて境内を歩む。三清殿さんせいでんへと続く二本の回廊に沿って立ち並ぶ豪奢な社殿の数々は、朝焼けの余韻に包まれ、この世ならざる神々しさを湛えている。

 貧乏くさい白衣から権威ある華麗な装いに戻った洪信の後ろをぞろぞろとついて歩く道士や寺男たちの話し声すら、今朝はまったく気に障らない。威厳を取り戻した足取りで、銀の混じる髭を撫でつけ微笑を浮かべながら道士を従えるその姿は、なるほどこの大宋国の中枢を担う将軍の名に恥じぬものであったろう。

 「おい、道士」

 満ち足りた気持ちで明媚な景色を眺めていた洪信の視線は、ふと、ある一点――右手の回廊の奥に縫い留められた。

 回廊沿いの社殿と離れてただ一つ、ぽつりと佇むその社殿は、周囲を目に痛いような緋色の土塀で囲まれ、朱塗りの格子戸が入口を守っている。

 それだけならば何ということもなかったが、異様なことに、その扉は人の腕ほども太い鎖で何重にも封じられ、さらにその結び目の上にはおびただしい数の御札が貼られていた。

 執念的なまでに貼り重ねられた御札の上を、これまた狂気的な数の朱印が埋め尽くしている様は、壮麗で神聖な社殿の風景の中で、ひときわ異質であった。

 「どうされました、洪太尉殿」

 「あそこにひとつ離れている社殿は、一体何の祠だ?」

 洪信の指さす先、朱の漆塗りに金色の筆で『伏魔殿ふくまでん』と書かれた額を掲げる社殿に皺深い顔を向けた老道士がわずかに表情を強張らせたのを、洪信は見逃さなかった。

 「あれは……先代の天師様が、魔王を封じた祠でございます」

 「魔王? それであんなにべたべたと札を貼りこめているのか」

 「ええ、唐の時代、洞玄どうげん国師様がここに魔王を閉じ込めて以来、天師様が代替わりするたびに御札を加えていったのでございます。洞玄国師様は、もしも魔王が逃げ出せば、この国を揺るがす由々しき事態になるゆえ、子子孫孫この祠を封じ続けよと仰せられました。今の天師様でもう八代目、いや、九代目になりますか、ですがどの天師様も決して開けようとはなさいませんし、当然、中の様子を知る者もございません。私もここの住持となって三十数年になりますが、ただ言い伝えを聞くばかりでして」

 「ほう……」

 常ならば、いくら皇帝の覚えもめでたい高官として思いのままに生きる洪信とて、この聖なる社に代々伝わる禁忌を犯すような、大それた真似はしでかさなかったであろう。

 だが、この時の洪信は、勅命を無事に終えたことで、常ならざる解放感に支配されていた。

 

 ――それが偶然の出来心であったのか、宿命であったのか、今となっては誰一人知る者はない。

 

 「おい道士、魔王を封じたとはおもしろい話を考えたものだ。唐の時代より何者も見たことがないという魔王の姿、この私が暴いてやる。さあ、あの扉を開けよ」

 「は……?」

 「どうせお前たち道士が、奇怪な作り話と妖しい道術で民を惑わそうと、わざわざあんな祠を造ったんだろう。私も古今の書物に通じているが、魔物を封ずる術など聞いたこともない。魔物だ化け物だと妄言を吐きおって、さあ、はやく扉を開けて、魔王の姿を拝ませろ」

 からからと愉快気に笑う洪信を見やる道士たちの顔から、目に見えて血の気が引いていく。

 「な、何をおっしゃいますか太尉殿、我々は妄言を語っているわけではございません。あの祠を開ければ、取り返しのつかぬことが起こり、民の間に災いが拡がりましょう。どうか、お考え直しを」

 口を揃えて懇願する道士たちを鬱陶しげに振り払いながら、洪信は顎をあげて一喝する。

 「ふん、うるさい奴らめ。だいたい昨日、突然現れた怪しげな牛飼い童こそが張天師様だったとお前たちは言ったが、それとて怪しいものだ。これも妄言ではなかろうな?」

 「滅相もない! たしかに洪太尉殿がお会いした童は張天師様でございます。昨日も申し上げましたとおり、すでに開封東京に向かわれ、疫病を退けるためのご祈祷を捧げていらっしゃるでしょう」

 昨日の徒労を思い出して深まる洪信の眉間の皺には、老道士の痩せた体を折らんばかりにいっそう低頭させるほどの威圧があった。

 「陛下の信頼も篤い張天師様の弟子が妄言を吐いているなどとは、私も思いたくない。だが、どうしてもこの扉を開けぬというなら、都に帰ったあかつきには、お前たちが私の務めを邪魔立てして天師様に会わせようとしなかったと奏上し、おまけに怪しげな祠を建てて民草を惑わせていると申し上げ、お前たちを流罪にするぞ!」

 「な、なんと御無体な」

 「いいから開けよと言っている。誰か、槌を持ってこい!」

 青筋をたてて怒号をあげる洪信の剣幕と、彼の言葉が現実になるやもしれぬという恐れにかられた道士たちは、ついに懇願をやめ、鉄槌を持ち出して伏魔殿の扉の前に立った。

 「何が起こっても、我々は知りませんぞ」

 「無礼な口を叩いていないで、さっさと開けんか」

 何重にも貼られた札をはがす乾いた音と、鉄槌が鎖を断ち切る耳障りな音が、無情な静けさの中に響き渡る。

 「まったく、手間取らせてくれる」

 幾代にも渡る封を解かれた鎖が重々しくも派手な音を立てて滑り落ち、血のように赤い格子戸が、生ぬるい風を受けて小さく軋む。

 その隙間から現れたのは、耳に痛いほどの静寂を纏う闇――盲いたかと疑うほどに深いその闇を覗き見た人々の間を、得も言われぬ不穏な気配が漂いはじめた。

 「なんだ、何も見えんではないか……」

 先ほどまでの威勢も薄れた洪信の声が、空虚な闇に吸い込まれて消える。ためらいがちに闇を突いて伸ばした彼の腕もまた、冥府のとばりの中に溶けこんでしまったかのように、視界から消える。

 「誰か、灯りを持て」

 はじかれたように駆けだした寺男たちが運んできた十数本の松明を掲げさせ、先陣を切って祠の中に踏み入った洪信の目の前に浮かんだ光景は、想像していたよりも殺伐としていた。

 がらんと広い堂内には祭壇のようなものも何一つとしてなく、ただ五、六尺ほどの高さの石碑が無言で中央に鎮座している。碑を支える石亀の台座に至っては、泥ついた地面にその身のほとんどを沈み込ませていた。 

 「おい、何をしている。はやくここに来て、この石碑を照らせ」

 自然と潜められた洪信の声すら、このがらんどうの中では異界からの囁きの如く不気味に響く。真っ青な顔をした道士たちが震えながら近寄り掲げた松明が、怪しげな陰影を刻みながら石碑を照らし出した、その刹那――

 「ははっ! お前たち、これを見ろ」

 洪信の声に力強さが舞い戻り、勝ち誇ったような笑い声が、取り巻く闇を劈いた。

 「遇、洪、而、開……『洪にって開く』、と書いているぞ。これぞまさしく天命ではないか」

 石碑にくっきりと刻まれた四つの楷書をいとおしむように指先でなぞりながら、洪信は道士たちを睨みつけた。

 「お前たちは散々文句を垂れて私の邪魔をしようとしたが、ならばどうして、何百年も前から私の姓がここに刻まれている? 洪に遇って開くとは、まさしく私にこの碑を掘り起こして開けてみよ、ということではないか! お前らの言う魔王とやらは、この下にいて、私が来るのを待っていたに違いない。さあ、さっさと人を呼び集め、ここを掘り起こせ」

 「洪太尉殿、どうかこれ以上は御許しを。この祠の扉を開けただけでも一大事と言うのに、その上石碑をこじ開け魔王の封印を解こうとは、必ずやこの大宋国に災いが降りかかりますぞ!」

 「馬鹿者、何を恐れることがある。私の姓を刻み、私に開けよと伝えている石碑だぞ? これを開けぬは天意に背くも同じこと。さあ、かまわず掘れ」

 「ああ、では、どうか何が起こっても我らの責になどなさらぬよう……」

 あまりの恐れ多さに涙すら浮かべながら集まってきた道士や作事方たちが、まずは力を合わせて石碑を押し倒す。数百年分の土埃の下から台座の石亀が姿を現し、さらにその下まで土が掘り下げられてゆくのを、洪信は今か今かとそわそわしながら見つめる。数十本に増やされた松明の明かりを持ってしてもなお薄暗闇が支配する堂内に、道士たちの嘆きと吐息、地を掘り起こす単調な音が響き続ける。

 「こ、これは」

 だが、永遠に続くかと思われた単調な音は、突如、金属を突いたような甲高い音に収束した。

 「洪太尉殿、この石板は……」

 「なんだ、何があった」

 三、四尺も掘り下げた地下深くを覗きこめば、そこには巨大な青い石の板が一枚、しんと横たわっている。

 「おお、魔王はおそらくこの下だ。かまわん、この石板も掘り起こせ」

 「ああ、お許しください、天師様」

 「力を合わせて持ち上げるぞ、そっちを持って」

 「松明で照らしてくれ、こっちだ」

 「どけ、何が埋まって……」

 男たちの呻き声とともに持ち上げられた石板の下は、虚無であった。

 吐息すら殺して、誰もが、その永久とも思える闇に包まれた底知れぬ穴を見つめる。

 そうして――眠り続けた魔の星々はついに、洪に遇いて目を開いた。

 何事か言葉を紡ごうとした洪信の足元が、微かに揺れ始める。

 幾世も封じられた闇が、鳴動を始める。

 眩暈ともまごうほどの小さな揺れは、やがて立ちすくむ洪信や道士たちの足をさらい、どんどん激しさを増してゆく。

 壁を塗り固めていた土が崩れ始め、臓物を突き上げるような低い轟きが足先から這い上がる。

 「なっ……」

 絶句する洪信の目の前で、果てなき虚無のようにぽっかりとあいた穴から花火のごとき勢いで黒煙が噴き出す。

 音だけで体を吹き飛ばす雷鳴にも似た唸りをあげ、黒煙は伏魔殿の屋根の一角を吹き飛ばし、朝の快晴が嘘だったかのように厚く雲の垂れこめた空を劈き、そして、

 「おお、おお……なんと……」

 大宋国の空に咲いた災禍の花は、百八の星屑となり、そして、散った。


<第一回 了>

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