第6話・御禰と鬼



――あなたを、殺す。


 聞き取りにくい掠れ声で向けられた言葉は冷たい刃のように、燈矢とうやの内側を撫でつけ、傷つけた。額が温度を失い、心臓が喉までせり上がるほどに震える。だが次の瞬間、動揺に揺れた燈矢の深緋の瞳は静まり凪いだ。


 ぎんの言葉は確かな殺意を込めた刃だった。けれど、久しく味わっていなかった熱さでもあった。

 十年の孤独の間、誰かに向けられる激情などなかった。だからこそ今は、興味深かった。


 東の空が白み始め、薄紫の夜が溶かされ光が空を焼く。銀は刀を抱いたままそれを手に握ることはせず、痛そうに顔を歪めて背を向け去っていく。彼の背中で、先を編んだ長い銀髪が跳ねて揺れた。


 軽い足音が小径の彼方へと吸い込まれるように、消えて。陽光が告げる目覚めに呼応するように、小鳥の囀りや木々の葉擦れの音が周囲に満ちていく。灯されていく温度に、燈矢を凍り付かせていた緊張も解けていった。

 燈矢はフゥと息を吐いて、浴衣の前を掻き合わせるように胸に手を置いた。心臓はまだ、常よりも速く内側を叩く。


――なぜ、銀は斬らなかったのか。


 こちらは丸腰で、向こうは刀を持っていたのに。燈矢に抵抗する意志はなかったし、口にした願いを完遂するにはうってつけだったはずなのに。

 主人である旭と「家族のようだ」などと言ったから、それゆえの遠慮か。それとも、従者としての矜持か。


「……もしかすると」


――なんらかの理由で、“斬れない”のではないか。


 斬らないのではなく、斬れない。その仮説は、燈矢を静かに震わせた。


 キィン、と。不意に脳を揺らす高い音。引きつるような痛みにこめかみを押さえつつ、燈矢はその音が響く方へと視線を向ける。そこには、ひっそりと建つ蔵があった。巻物を見に入って以来だが、あの時も、この蔵に呼ばれた気がした。

 鬼哭とは違う痛み。燈矢はグッと息を呑み喉を震わせて、蔵へと足を進める。

 閂を抜き、ギィと鈍い音を立てる扉を開いた。外光がスゥと伸びて、昏い内部を仄かに照らす。燈矢が視線を上げて瞬いた先で、ボゥと紫の煙が揺れた。


「え……?」


 燈矢は小さく呟き、その場に立ち尽くす。触れてもいないのに背後で音を立てて扉が閉まり、どこからともなく現れた青紫の鬼火が室内を照らし出した。蔵の奥に、女が立っていた。


 藤紫の衣を纏い、雪のように白い肌を浮かび上がらせる。その立ち姿は牡丹の花のように気高く、咲き誇る華やぎを湛えている。けれど、濃紫の瞳の奥に宿るのは、散り際を待つ花のような憂いだった。

 鬢を払う指先の仕草は優雅でありながら、ひそやかな切実さを滲ませる。彼女の美しさは、堂々たる牡丹でありながら、秋草の紫苑のごとき儚さをも抱いていた。紅をさした唇がゆっくりと弧を描き、濃紫の瞳も同時に微笑む。


「初めまして」


 しっとりとした艶を纏う、甘い声。大きく襟抜きをした項にツゥと指先を添わせて、女は音もなく進み出た。空気を優しく撫でるように動くその動作は、およそ人間のものではない。燈矢は彼女の濃紫の瞳を見つめて、その正体を探った。


「あなたは……――鬼?」


 今まで出会ったどの鬼とも違う《気》を纏っていて、共通点を見つけられたわけでもない。けれども、彼女の存在はそれ以外定義のしようがなかった。彼女は美しい濃紫を静かに見開いて、後にスゥと細める。


「ええ、そう。あなたは、如月きさらぎのかたかしら?」

「そう、です……如月燈矢といいます」

「如月、燈矢……」


 伸ばされた白い指先が、燈矢の頬にソッと触れた。温度のない指。燈矢は、彼女の肉体がとうにこの世にないことを知る。


「私は、紫苑しおん


 自ら名乗った女――紫苑はフッと瞼を伏せて長い睫毛の影を頬に落とした。燈矢は紫苑を前に慇懃に頭を下げる。


「頭を上げなさい、燈矢」

「……ですが」

「いいのよ。私の肉体はここにないのだから……あなたが礼を尽くす必要はないわ」

「魂であろうとも、礼は尽くさせていただきたいです」

「そう……優しいのね」


 紫苑が言葉を零すたび、青紫の鬼火が淡く光る。鬼火は恐らく、紫苑の「声」だ。鬼火を現すことで、燈矢に声を届けている。


「あなたは、俺を呼びましたか?」

「呼んだ……そうね、そうかもしれない。私の声が届くのだから、きっとそう」


 紫苑は濃紫の瞳をわずかに伏せて、紅を塗った唇から細く息を吐く。ほつれた鬢を掬い、耳にかけながら。紫苑は棚に収められた巻物に触れた。赤黒い跡が残る薄鼠色のそれは、以前燈矢が目にした一族の系図だった。


「この中に、消された名前があることを知っているかしら?」

「はい……見ました」

「その中に、私の名前もあるの」

「え……?」


 声が、わずかな余韻を引いて、消える。紫苑の告白は凪いだ水面のように静かなものでありながら、燈矢の中心を貫くほどの衝撃だった。


 彼女は先ほど、自身を「鬼」だと言った。巻物に記された系図は、確かに如月のものだ。そこに彼女の名前があるということは――。


 紫苑は長い睫毛をふわりと持ち上げ、燈矢に視線を据える。濃紫に揺れる光。その色はまるで乞うような、切実な色を宿していた。


「お願い、景綱かげつなさまを救って」


 鬼火が青紫の光で蔵を照らし、揺らめいて。紫苑の姿と共に幻のように消えた。



 燈矢はそのまま蔵にこもって、一心に書物を読み漁った。


 手元には橙の鬼火――燈矢自身の鬼火を灯し、次々と書物を紐解いていく。


 書物は古く、鬼の歴史から綴られている。鬼はかつて「御禰おに」と呼ばれ、神でありながら人の傍にあり、人の魂を鎮めるものだった。しかしやがてその境目は曖昧になり、ある時、神が人の魂を食らったことにより、均衡は崩れた。

 神は俗世に落ち、一度覚えた魂の味を求めて人に害を為すようになる。食われた魂の無念、悲哀、憎悪――そうした様々な負の感情に呑まれ、御禰は「鬼」へと堕落したのである。

 御禰の始祖はその贖罪として、人の中からある一族を選び、「鬼斬り」の力を与えた――以来、鬼を斬ることができるのは如月一族の剣のみであり、代々受け継がれる血で以て、鬼を斬る宿命にあると伝えられている。


「如月の、血……」


 燈矢は自身の掌を鬼火にかざして眺めた。白い掌に無数に走る青い血管。

 燈矢は鬼を斬れる。鬼を感じるし、鬼の姿を見ることもできる。

 それはすべて、御禰の始祖より如月に与えられた力だと記されている。


「俺は、如月だ……」


 燈矢は己に聞かせるように呟いた。ドクン、ドクン、と。自身の心音が邪魔して思考を乱す。背筋が冷え、喉が震えて、胃の奥から嗚咽がせり上がってきた。


「……っ、は……ぁ……」


 燈矢は両手で顔を覆い、叫びそうになる衝動を喉奥へ押し込んで堪える。

 鬼を名乗る女。消された系図。記されていない名前。残った如月は燈矢ひとりだというのに、山奥へと追いやられ、鬼斬りの一族からも忘れられようとする己は――


「俺は、鬼なのか……?」


 言葉にした瞬間、体の芯が崩れていくようだった。人の形をした己の輪郭さえ、分からなくなる。


「――燈矢! 燈矢、そこにいるのか!? 燈矢!」


 蔵の扉を叩く音がする。ドンドンと重い音に混じる、燈矢を呼ぶ声。


あさひ……」


 口の中で微かに呼んだ名前が、崩れかけた体の芯に淡い火を灯す。旭の呼ぶ名が、曖昧になった輪郭を取り戻してくれる。

 幼い頃の記憶が瞬いて、自分を見る旭の金茶の瞳に映る自身の姿を見た。ああ俺は――燈矢だ。


「旭……、旭!」


 燈矢は腹の辺りの生地を握りしめ、喉が擦り切れるほどの声で叫んだ。閂が開く音がして、少しずつ開いていく扉の隙間から黄金の光が闇を割って差し込んでくる。

 燈矢は鬼火を消し、蔵の地面を蹴って立ち上がる。光の中に旭の顔が見えた瞬間、喉が震えた。


「燈矢!」


 体の芯が熱く震える。そうだ、これは――自身が「燈矢」のままでいていいと肯定する声だ。だからいつも、震えるのだ。


「旭……」


 蔵の中へと駆けこんできた旭は、ふらつく燈矢の体を引き寄せて抱きしめた。触れた部分から染みる旭の体温。首筋にかかる息遣い。頬を撫でる髪の感触。燈矢は五感に感じる旭の存在すべてに身をゆだね、大きく息を吸い込んだ。


「……どうした、旭」

「どうしたじゃないだろう。姿が見えないから……畑にも、裏の森にも姿がなくて」

「黙って出て行ってすまなかった。……鳥を、弔ってやっていたんだ」

「鳥……? ああ、昨日の」

「うん。苦しそうに鳴くから、解放してやった」

「……本当に、いろんなことができるんだな、燈矢は。そして、とても優しい」


 旭は燈矢を抱きしめる手に力を込めて、ハァと淡い息を吐く。燈矢はゆっくりと目を伏せて、旭の背中に回した手をトントンと弾ませた。


「俺は臆病なだけだよ」

「なにを言う。あれだけ見事な剣技を見せておいて」

「お前には及ぶまいよ」

「謙遜な主人さまだ。俺が持ち上げてやろう」

「へ……? うわっ、ちょ……旭……!」


 文字通り。旭は燈矢の細い胴を掴んで肩に担ぎ上げた。燈矢はじたばたと暴れたが、燈矢の抗議など聞く気のない旭の様子に、諦めて体の力を抜いた。


「もう……何してるの」

「逃げられては敵わん」

「逃げるものか……俺の居場所は、ここだけだから」

「如月の家に戻る気はないのか?」


 後ろ向きに担がれているせいで、そう問う旭の表情は見えない。燈矢は夏の色の染まる晴天の空を眺めながら、フゥと短く息をついた。如月の家に戻るということは、正式に当主を継ぐということ。

 古の慣習に従い、鬼との「共生」を唱えた如月の主張をねじ伏せるようなお触れを出した長老たちに対抗する――そんなことが、長らく山に引きこもっていた自分にできるだろうか。


「分からない……が、調べたいことがある」

「調べたいこと?」


 旭は小屋の前で燈矢を下ろした。燈矢は浴衣の裾を整え、深緋の瞳で旭を見上げる。


「悪いが旭、お前は東雲しののめの家に戻ってくれ。もとは俺が引き留めたのに、すまないんだが……」

「……俺に供はするな、ということか?」


 旭は金茶の瞳に不満を浮かべた。子供のようなその表情に、燈矢はこみ上げる笑いを堪えるのに唇を歪める。


「笑うな」

「旭が拗ねるから」

「拗ねてなどいない。……いや、拗ねているのか。お前と共にいると、様々な感情を知れるな」

「それはこちらの台詞だぞ」

「そうか」


 目尻を窄めて、眩しい笑みを浮かべる。旭がこの顔を向けるのは、自分が如月燈矢であるからだと痛いほどに感じる。――ではもし、違ったら。

 燈矢は小さく唇を噛んで、胸の内をそっと隠すように微笑んだ。


「どうしてもダメか?」

「京から出ることはしないが、今よりも都から離れることにはなる。鬼斬りの役目をどうするんだ」

「お前がいればすぐに飛べるだろう」

「同時に何人も飛ばすのは負担が大きいんだ。分かってくれ」

「……むぅ」


 一度「拗ねている」と認めたせいか、旭は隠すことなく顔を顰める。燈矢もはははと声を上げて笑って、りんにするのと同じように旭の頭を撫でそうになった。けれども、長身の旭の頭には背伸びをしなければ届かない。


「くれぐれも気を付けて」

「うん。大丈夫だよ」

「お前は俺の半身だ。……大事にしてくれ、燈矢」


 金茶の瞳を細めた旭は、大きな掌で燈矢の頬に触れる。名前を呼ぶ響きが体の芯を熱く疼かせる。燈矢はホゥと淡い息を漏らして、頬に触れる旭の手に両手を添えた。


「ああ。俺がお前の半身ならば、命を賭して守ろう」

「命を賭してどうする。まったく、危なっかしい主人様だ」


 頬に触れた手で薄い皮膚を軽く摘まみ、旭はそっと手を離す。


「行ってくる」


 離れる一瞬まで指先を繋いで、名残惜しい熱を離した。

 燈矢が出かける支度をする間に旭も支度を整えて、共に菅笠を被って小屋を出る。


「……銀は?」


 白々しいとは思いつつ、燈矢は菅笠の影に表情を隠しながら聞いた。


「どこかで会うだろう。あいつは勘働きがいい。俺が行き先を告げずに出かけていても、必ず道中で合流するんだ」

「変わった従者だな」

「俺はあいつが羨ましい。俺も、お前がどこにいても感じられたいいのに」

「俺じゃなくて、鬼をだろう」

「鬼はどちらでもいい。お前がいればいいのだから」

「俺は鬼の探知機か何かか?」

「……そう思うか?」


 旭の影が動いて、菅笠の中を覗き込んでこようとするのが分かった。燈矢は身を引いてそれを交わし、菅笠の前を深く引き下げる。


「隠すことないだろう。いったいどんな顔をしているんだ?」

「……からかうなよ、もう」

「本当に……愛しいな、お前は」


 愛しい、などと軽々しく口にする。旭は深く下げた菅笠を上げられないまま、離れて行く旭の足元を見送った。


 燈矢はフゥと息をつき、都とは反対方向へ足を進める。

 りんは姿を現さない。どこかで見ているのか、なにかを感じているのか。燈矢が蔵に入る日、りんはやってこないことが多かった。


 木々に囲まれた小径を行く。低く鳴く葉擦れの音が、燈矢の存在を囲むように降りかかった。燈矢は葉陰が覆う径を黙々と歩いていった。どこに行くかは、いまいち分かっていない。

 懐に忍ばせてきた銀鼠色の系図に触れると、菅笠の影から望む視界に薄っすらと青紫の鬼火が浮かんだ。鬼火は地面すれすれの位置を漂いながら、燈矢に行く手を示すように進んでいく。


 高く昇る日差しが、揺れる葉の隙間を縫ってチラチラと地面に光の粒を撒いた。

 光は徐々に小さくなって、完全な影となる。鬱蒼とした木々が囲む、比叡の山奥。朽ちた地蔵や祠の名残の木材。いくつも伸びる花をつけるまえの彼岸花の茎。いつからそこに溜まっているのか、雨の名残の水たまりがポツポツと現れて、昏い影に沈んでいた。


 青紫の鬼火は不意にふわりと浮き上がり、スゥと迷いなく飛んでいく。燈矢は菅笠の前を上げて、視界を開いた。


 そこには、朽ちかけた社があった。しめ縄はほどけ、藁の繊維が黒ずみ雨に溶けている。半ば外れた扉は風に軋み、長年の湿気で木肌が膨れていた。吊るされた鈴は青く錆び、苔の幕に覆われて、もう音を失っている。石段には落ち葉が幾層にも積もり、腐葉土の匂いが鼻を刺した。


 風も光も、ここだけは何年も前から止まっているようだった。


 それでも――どこかにまだ、祈りの名残のような気配がある。


 風が抜ける度、鈴の下が微かに震えて、鳴らぬ音を鳴らそうとしていた。


 その声を上げようとする鈴の下に、うっすらと揺れる影。青紫の鬼火の傍に、女が立っていた――紫苑だ。


「……紫苑さま」


 静かな森に、燈矢が呼ぶ声の余韻は鈴の音のように澄んだ音で広がっていく。

 紫苑は燈矢を見て軽く頭を下げる。


「私の願いを聞いてくれるの?」

「……その前に、教えてください」


 紫苑は無言のまま、先を促す視線を燈矢に据えた。燈矢はコクンと唾を呑み込んで、懐から系図の書かれた巻物を取り出した。


「景綱というのも、消された名前のうちのひとつなのですか?」

「ええ……そうよ」

「それは、鬼堕ちした言われる先祖さまのことではないでしょうか?」


 燈矢の問いに、紫苑は哀しげに目を伏せる。


「そのように、伝わっているのね」

「違うのですか……?」


 紫苑は微かに顎を引いて頷くと「こちらへ」と言って塔矢を誘う。ぼんやりとした光に包まれた紫苑の足は、朽ちた階段を踏んで社へ上がった。燈矢は紫苑に後に続きながら、朽ちた木を踏む抜いてしわないかと懸念しながら、慎重に足場を踏む。


 紫苑は外れた戸を潜り、暗澹たる闇が横たわる社の内に入っていった。燈矢は入口で足を止めて、内側から漏れる《気》を探った。感じるのは、不気味なほどに凪いだ気配。静寂が呼吸をするならばきっと、こんな温度だろうと思わせる。


 燈矢は唇を開いて息を吸った。体に流れ込む空気はどこか懐かしい感じがして、細胞の隅々まで行き渡たり、自身の一部となるような感覚に呑まれる。胸の奥が熱に焼かれるたび、血が目を覚ましていくようだった。


 徐々に上がっていく息をゴクンと音を立てて喉奥へ押し込め、燈矢は暗闇の中で瞬きをする。


「え……?」


 暗闇に徐々に慣れていく目が映したものに、燈矢は息を呑んで制止した。視界に映るものが”何か”――それを脳が理解するまでに数秒を要した。


 闇の奥で、何かかが呼吸している。


 その音を、確かに聞いた。


「……人?」


 燈矢が微かに呟いた声に、闇の中にある影はゆっくりと顔を上げる。長い前髪の隙間に覗く、炎が燃え立つような深い緋色。その人は燈矢に視線を据えると、色を失くした唇の端を持ち上げ、表情を綻ばせた。


「大きくなったなあ」


 人懐こい笑顔を浮かべて、その人ははっきりとそう言った。

 人だ、とは思ったものの、その人の様相は“生きている”ものには到底見えなかった。


 社の柱にそれぞれ吊られた両掌には、太い杭が打たれている。そこから流れた血は赤黒く貼りつき凝固して、手首を伝い、着物を黒く染めていた。大きく裂けて襤褸布のようになった着物から覗く肉体は、肉が削げて骨が覗いている。食いちぎられたような跡は、野生の獣に食われたのだろう。彼の足元には別の骨も落ちていて、それらは彼の肉を食った獣たちのものようだった。低い羽音を立てて死体に集まる虫が飛び、ほとんど肉の残っていない彼の体を啄んでいる。


 空洞の腹から、少し上。唯一残った着物が覆う下の肉体がどうなっているかは知れない。けれども、その中央には深々と刃が突き立てられ、彼の体を貫いていた。ひと際大きく広がる血の染みが、その刃の下に心臓があることを示している。


 しかも、貫かれた心臓は未だ鼓動を続けている。刃が微かに震える動きが、その信じがたい事実を伝えていた。


 燈矢はゴクリと強く息を呑んだ後、その場に膝をつく。深く頭を垂れて、その名を呼んだ。


「――景綱さま」


 名を呼ぶ声が、朽ちた社の闇に吸いこまれていった。


 彼――景綱は深緋の瞳をスゥと細め、穏やかに笑う。


 消された名前は、一族の間に伝えられてはいない。燈矢はただ、紫苑がそう呼ぶのを耳にしただけだった。


 それでも、彼が如月景綱であることは分かる。目覚めた血が、奥底で息継ぐ魂が、彼との強い結びつきを示していた。


「顔を上げて。お前、名はなんという?」

「――燈矢です」

「とうや……燈矢か。良い名だ」


 旭に呼ばれるのとは異なる感覚。けれども、真っすぐ燈矢の芯に響き、心地よく震わせる音だった。


 景綱は体の自由を奪われ、心臓を刺し貫かれているにも関わらず、穏やかに凪いだ命の波長を響かせていた。

 本人は気にしていない様子でも、どうしても視線が彼の胸に向いてしまう。


「ん? これか?」


 視線の先は案の定簡単に気取られる。燈矢は自身のあからさまな仕草を恥じて、再び顔を伏せた。


「はは、よいよい。面を上げよ。俺は別に気にするなとは言っていないだろう」

「ですが……」

「このような姿になっても尚、生きているのは俺の意志だ。……それももう、終わりが近い」

「え……?」


 寂しげに呟かれた景綱の言葉に、燈矢は反射的に顔を上げる。燈矢と目があった景綱は、ハハッと声を上げて笑う。旭の持つ夏の日差しのような明るさとは違い、景綱は春の陽だまりのような光を持つ人だ。


「紫苑がお前を呼んだのだろう? それはたぶん、そういうことなんだ」


 景綱の視線が向くのに合わせて、燈矢も社の入口近くに控えている紫苑を見た。

 紫苑は紅を縫った唇の端を微かに緩める。


「燈矢、近くに来て見てみないか?」

「いえ、そのような……」

「いいから、おいで?」


 フワッ、と。春風が頬を掠めるような温かさで、景綱は誘う。

 燈矢は唇を歪めて逡巡した後、ギィと音を立てる床を押し返して立ち上がった。踏むたびに、湿気で浮いた床板が沈み、音を立てる。数歩の距離で景綱の傍に寄った燈矢は、間近で彼と目を合わせた。


「ここ、見てごらん?」


 微かに顎を引き、燈矢の視線を誘う景綱。燈矢はその先に目線を向けて、ハッとして息を呑んだ。


「この刀は……」

「そう。これは――東雲の刀だ」


 瞳に戸惑いを揺らす燈矢。景綱は、自身とよく似たその色を一心に見つめる。


「なぜ……東雲が……? あなたは、如月の手で裁かれたのではないのですか……?」


 一族に伝わる歴史では、鬼堕ちした一族の者は、同族の手により裁かれ、系図より抹消されたと伝えられている。東雲はあくまで如月の分家であり、本家である如月に刃を向けることはご法度である。


「その通りだ。もっと、よく見て」


 動揺する燈矢を宥める口調で、景綱は言う。燈矢は景綱に言われるまま、彼の体を貫く刃を見た。磨き上げられた銀の刀身。そこに自身の姿が映るのを目にした燈矢は「あっ」と小さく声を上げる。


「この刀は……新たに刺されたもの……」

「そう、正解だ」


 景綱の声が一段低くなる。途端に、周囲を取り巻く空気がヒリついた。燈矢は顎を引いて息を呑み、再び錆びひとつない美しい刀身を見つめる。


 カラン、と、ひとつ微かな音。燈矢が音の方に視線を向けると、昏く影に沈んだ場所に黒ずんだ刀が落ちていた。


 それは、如月の刀だった。


「誰かが、如月の刀を抜き、東雲の刀に換えた……? 誰が、そんな」

「獣だよ」


 冷えた風が、床下から吹き上げる。燈矢はハッとして、床に散らばる骨を見た。景綱の肉を食い破ったものだと思っていた獣の骨が、まさか――。


「獣と呼ばれることをやつらは嫌うだろうがな……それでも、知ったことか」


 穏やかに凪いでいた深緋の瞳に感情が揺れる。それは微かでもはっきりとした――憎悪。


「やつらは鬼斬りの力を利用し、そして、鬼斬りの一族を絶やそうとしている」


――あなたを殺す。

 聞き取りにくい掠れ声が、ふと脳裡に浮かぶ。痛そうに顔を顰めた銀の顔を思い出して、燈矢は奥歯を強く噛んだ。


「鬼斬りの力が、かつて鬼が『御禰』と呼ばれていた頃の始祖の加護によるものだということは、知っているかしら?」


 半ば外れた扉から仄かに差す外光の中。紫苑が柔らかな声で問う。


「はい……蔵の中にあった書物で読みました」

「当主としての自覚があるのね。立派だわ」


 紫苑の声音は、まるで母親が幼子に向けるようだった。

 一瞬でも、長老陣に相対する自信が持てないことを理由に、当主になる決心が持てなかった自分を恥じる。


「その加護は、ある理由から今は景綱さまの体から供給されているの」

「景綱さまの、体から……?」


 再び景綱へと戻す視線。景綱は表情から憎悪の色を消し、燈矢に向けて微笑む。

 燈矢は2人の語ることから、思考の中で組み立てられていく事実を整理していく。そして浮かんだ懸念に、サァと顔を青ざめ着物の袖を握りしめる。


「それはつまり……今、正当な鬼斬りの力を有するのは如月ではなく東雲、ということですか……?」


 部屋に満ちる湿気が、燈矢の呟きをも重く沈ませ、静寂が息をした。


「……そうよ」


 景綱に変わり、答えたのは紫苑だった。2人は共に、痛みに耐えるような顔をしている。

 おそらくそれが、東雲が如月を排した理由。ということは――


「もしや先代は、鬼斬りの力を失っていた……?」


 如月は先代――燈矢を育て、幼い頃に山奥へと送った祖父を思い出す。

 祖父は、燈矢に剣術の稽古をすることを禁じていた。それは恐らく、祖父自身が燈矢に伝える如月の剣技を失っていたからなのだろう。

 禁を破り、旭と剣術の稽古をしていると知った彼は、すぐさま燈矢を罰して旭から――東雲の家から遠くへ燈矢を引き離した。


 パチン、パチン。ひとつずつ嵌まっていく事実の欠片。


 今まで孤独を理由に目を逸らしていた世界の輪郭が一気に押し寄せてくる。

 燈矢は震えを押さえられず、思わず口元を手で覆う。自身の呼吸が掌で跳ね返り、生温い熱に思考が溶けていく。燈矢は慌てて頭を振って、ハァと強く息を吐いた。


 一つだけ、嵌まらない欠片が残っている。


「あの、それではなぜ、俺は鬼を斬れるのですか……?」


 俯いたできた影の中で、紫苑の瞳が光を映して揺れた。緩く体の前で組まれていた腕が解かれて、微かに下へと降りていく。まるで子宮の辺りを包むように組まれた両手。燈矢は静かに瞬きをして、紫苑の答えを待つ。


「あなたが、わたしと景綱さまの子だから」


 燈矢は静かに息を呑んだ。ドクン、と。体の奥で心音が立つ。2つ重なるような鼓動はどんどん大きくなり、内側から膨れ上がって破裂しそうなほど激しく脈打った。

 キィン、と額が痛む。視界が一瞬真っ白になって、ピークまで達した心音が徐々に凪いでいった。


 すべての欠片が、カチリと音を立てて嵌まる。

 燈矢は、泣き笑いのような表情を浮かべていた。


「俺はやはり、鬼なのですね……」


 その場に力なく膝を着き、深く項垂れる。深呼吸を繰り返す間に、そっと傍に近づく気配。顔を上げるよりも早く、紫苑の腕が燈矢の体を優しく包んだ。


「あなたはわたしの血を引く鬼……けれども、景綱さまの血を引く鬼斬りでもあるわ」


 鬼であり、人でもある。紫苑の限りなく優しい声音は、燈矢の中に淡く降り積もっていく。


「あなたを産んだ母親と、そして父親にも、申し訳ないことをしたわ。如月の血を守るために、必要なことだったとは言え……あなたの産みの両親は、あなたを産んだことで殺された。それでも、あなたが生まれたことで、唯一の希望は守られたの」

「希望……?」

「獣は、自らの手で如月を絶やすことはできなくなった」


――斬らないのではなく、斬れない。


「もしや、獣は……」


 ハッと顔を上げ問おうとする燈矢。紫苑はその深緋の瞳を覗き込んで、ひとつ頷いた。


「彼らは鬼を斬れない。あの忌々しい――銀狐ぎんぎつねは」


 はっきりと、その名が音になる。

 すべての欠片が嵌まった先、現れる事実の中に――銀がいる。

 ならば、旭は――


「燈矢」


 静かに、景綱の呼ぶ声が降ってきた。そっと腕を解く紫苑に促され、燈矢は景綱を振り返る。

 注がれる眼差しに命じられた気がして、燈矢は景綱に向き直り、姿勢を正して片膝をついた。

 スゥと、息を吸う音。

 湿った空気の流れが、静止する。


――沈黙が、血の音を呑み込んだ。


「俺を斬れ、燈矢」


 確かに繋がった線がフツリと切れる音を聞いた。


 同時に、社に近づく影がひとつ。


 影が手にした重たい刀は、磨き上げた表面を歪に浮き立たせ、声なき悲鳴を上げる。


 土を踏み、落ち葉を散らし、燈矢が慎重に踏んだ階段を無慈悲に踏み抜いて。

 影は社へと、遂に足を踏み入れた。



《6/END》

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