第7話・銀狐の長
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腐った木材を踏み抜く足音。雨に漬され虫に侵蝕され、繊維のみになった木片が崩れる湿った音は、命を踏みにじるような音だった。
燈矢は影の内に落ちていた錆びついた刀を拾い、正面に構える。
紫苑を下がらせ背中に庇い、外れた扉を打ち捨て踏み込んできた侵入者を目にした瞬間――呼吸が止まった。
「――東雲か」
声を出せずにいる間に、景綱が苦々しく呟く。
冷える頭。刀を取り落としそうになるほど手汗で濡れた指先。景綱の声が、目の前の現実を突きつける。
「あさ、ひ……」
ようやく喉奥を抜け出し零れた声は、情けないほど弱々しく、掠れていた。
入口を塞ぐように立つ長身の影。細身だが程よく筋肉がついて引き締まった体つき。深藍色の羽織に白の着流しを纏い、右手に携える黒漆の鞘を持つ刀。やや長めの栗色の柔らかな髪は、風に靡くことなく肩に貼り付いていた。
逆光の影が隠す表情は昏く、常に柔らかな熱を孕む金茶の瞳に光はない。
「ちがう」
そっと、肩に触れる手。白梅香がふわりと掠める。背後にいる紫苑が、燈矢の耳元でそっと囁いた。燈矢は背筋を微かに震わせ、揺れる視界を瞬いて再び旭を見上げる。
影の中で動く瞳は、ゆっくりと燈矢を捉える。金茶の中に微かに滲む青の気配。燈矢はグッと喉を締めて素早く右肩を引き、戻す勢いのまま鋭い突きを放った。
爪先で蹴った床は燈矢の軽い体重を弾いてトッと軽やかな音を立てる。旭は腕を持ち上げるだけのわずかな動きで刀を掲げ、燈矢の切っ先を刀身で受け止める。
突き立てる刃の下でギョロリと数多の瞳が一斉に動き、唇のない歯がガチガチと音を立てながら高い声で悲鳴を上げた。
刀が放つ生温い血の匂い。周囲の湿気の匂いと混ざり合って、息をするたび喉に貼り付く。
燈矢は切っ先を押し込む力を緩めず、間近で旭の瞳を覗き込んだ。――やはり、澄んだ金茶を侵蝕するように、禍々しい青が揺れている。
「旭」
「何だ? 如月」
瞳を一切動かすことなく、唇をだけを動かして旭が呼び返す。
瞬間、ゾクリと背筋が震えて、燈矢は切っ先を払うように旭の刀から離れ、十分な間合いを取る。
「ああ、間違えた。こいつはあなたを“燈矢”と呼ぶのだったね」
旭はククッと笑い、喉を押さえてニタァと口の端を吊り上げる。燈矢は低い構えのままで旭を睨みつけ、震える喉から声を搾りだした。
「……誰だ、お前は」
旭は肩にかかる髪を指で払い、首を傾げておどけたように笑ってみせる。
「銀狐」
返ってきた答えは、旭の口から聞こえるのに彼の声をしていなかった。
じっとりと絡みついてくるような、甘く艶のある声――それは、銀の声でもない。
燈矢は胸の内に微かな安堵が灯るのを感じつつ、改めて強く刀を握り直した。
「俺はお前を知らない」
旭は小指でツッと唇を撫で、その軌跡を追うように舌が這う。金茶の瞳は完全に青に呑まれ、彼はその凍える色を細めて笑った。
「如月には縁がないものだからね、僕たちは。――初めまして。僕は、
「あ、お……?」
旭の金茶を飲み干した色と同じ名前。
燈矢がその音を繰り返すと、旭――蒼は上機嫌に微笑んでみせる。
「蒼……銀狐一族の長だな」
景綱が言うの聞いて、燈矢は朧に聞いた話を思い出していた。
――東雲は銀狐の一族を頼りにしていました。中でも銀狐の長がそれはそれは力の強い狐で……当代の前の代では、かなり重宝されていたという話でした。
――先代が鬼に殺された後、銀狐は姿を消したそうですね……一族もろとも。
「姿を消したはずの銀狐が、なぜ旭に憑いているんだ。東雲の現当主と知ってのことか」
蒼は一度きょとんと目を丸くして、緩やかに首を傾げる。
「当然。だがこの旭という男は何も知らない。我々銀狐がどういうもので、何を成そうとして東雲に付き従っていたのかも、何も。そうだろう?」
蒼が返した問いかけに、燈矢は思わず答えに詰まる。
蒼の言う通り、旭は恐らく何も知らない。人の思惑など疑うことなく、目に見えるものを真っすぐに信じる男だから。
だからと言って、利用していいという理由にはならない。
「何も知らない、真っすぐな男。だから都合がいいんだ……剣を育てるためには」
「剣……」
蒼は燈矢の視線が向くのを待って、黒漆の鞘を持つ剣をゆっくり持ち上げる。銀の刀身は歪に浮き立ち、目玉をギョロつかせ、歯を剥き出しにして叫ぶ。蒼はその刀身にヒタリと頬を寄せ、愛おしげに頬ずりした。
「――美しいだろう、この剣は。東雲旭の働きにより、たっぷり怨みを呑み込んでいる。こんなに禍々しい剣は、2つとない」
幾多も重なる哭き声、叫び声、うめき声。悍ましい音の中に、微かに子守唄が聞こえた。掠れて、苦しげなまま、それでも尚止まない子守り唄。鬼堕ち墓場であの哀しい母鬼が口ずさんでいた旋律だった。
燈矢の中で、言い表せない感情が湧く。日々祖父から冷たい目を向けられていた時も、旭と引き離されて山奥へと追いやられた時も、永く鬼斬りに従事する中でも、抱いたことのない感情。
燈矢は固く食いしばった歯列の隙間から、獣のような息を吐いた。
燈矢が低く立てる音に気付いた蒼は、口元に笑みを浮かべたまま冷ややかな目を向ける。
「おや。誇り高き如月さまが、まるで獣のようだ」
「黙れ、狐」
燈矢の深緋の瞳が燃える。低い構えを解いて立ち上がり、左脚を引き、刀の先を斜めに据える形で構える。
蒼は表情から笑みを消して、刀を下ろした。
「お前に俺は斬れない」
「だが東雲には斬れる」
「旭にも――俺は斬れない」
ドクン、ドクン――胸の奥で、旭の名を呼ぶ音が鳴る。芯を熱くさせるその音を聞いて、燈矢は静かな視線を蒼に据えた。
フッと微かに息を吐いた燈矢は、蒼の視界から姿を消した。否、補足できないほど俊敏な動きで床を蹴り、蒼の死角に入ったのだ。
地を這う高さで移動した燈矢は、蒼の懐に入り刀を返した柄でみぞおちを突く。
そのままグッと肩を入れ体重を乗せて、扉の外れた入口から旭の体を社の外へと押し出した。
崩れた階段を飛び越し、朽ちた落ち葉が積もる地面へと落下する。湿った泥が飛び散り、腐葉土の黴臭い匂いが鼻を突く。蒼は旭の鍛えた体で細身の燈矢を跳ね退け、刀を拾って塔矢に斬りかかる。
旭の体躯から繰り出されるのに、旭とは全く異なる太刀筋。
一太刀ごとに、知らぬ誰かの手が旭を動かしているのをありありと感じて、胸の奥が軋む。
彼の剣ならば決して入らない角度――獣が手探りで振るうような軌跡は、規則性がまるでない。
だが、その分無駄が多く、旭の優れた肉体の優位を借りたごり押しの力業ばかりで、旭よりキレもなければ速さもなかった。
旭の剣は、もっと――迷いがなく、力強い。燈矢は幻想の中に旭の太刀筋を見て、決して重なることのない蒼の太刀筋を雑音として打ち払っていく。
刀がぶつかる金属音が深い森に響いた。繰り出される太刀を受け、躱し、次々と払って圧倒していく。鳥が飛び立つ羽音が響き、遠く、カラスがガァと鈍い声で鳴いた。
ハッ……と、一瞬。蒼の乱れた呼吸を聞く。燈矢は頃合いを見計らい、攻撃に転じるべく呼吸を整える。
一度呼吸を止め、掬うように振り上げる切っ先で湿った落ち葉を一斉に巻き上げた。蒼の視界を遮り、目晦ましに身を隠した燈矢は、低い構えから素早い突きを放った。
一瞬目を剥いた蒼は、刀で防ぐ素振りを見せた後――フッと力を抜いて無防備に肉体を晒す。
「……なっ……!?」
燈矢はヒュッと息を詰め、旭の体を貫く直前で太刀筋を曲げ地面に突き刺し、とびかかる勢いのまま腹に膝蹴りを打ち込み地面に倒れた。
湿った葉が2人分の体を受け止めてブワッと舞い上がる。
「っ……は……はあ……っ……」
打ち込んだ膝に力を込めて旭の体を押さえつけながら、燈矢は荒い呼吸を繰り返した。俯いた角度のこめかみから、冷たい汗が噴き出し頬を伝う。
蒼は必死の形相を浮かべる燈矢に目を細めて、冷ややかに笑った。
「あなたも、東雲旭を斬れないようだ」
その声は、まるで呪いのように耳底に貼り付く。
呼吸を忘れた喉が再び空気に触れるまで、数秒を要した。
「……何のために、ここに現れた」
燈矢は威圧する視線を向けながら、絞り出すような声で問う。
「景綱を斬られては困るんだよ」
蒼は平坦な調子で答えた。燈矢は、背筋が冷える感覚を覚えた。
――景綱を斬る。それは今しがた当人の口から燈矢に向けられた願いだったから。
「鬼斬りの力を東雲で独占するためか」
「そんなものに興味はない。僕はもう東雲の従者ではないしね」
燈矢は思わず息を呑む。言葉の応酬で、つけ入る隙を見せることは悪手だと知りながらも、動揺を隠せない。
案の定、蒼は燈矢が滲ませた隙にスルリと入り込むように言葉を継いだ。
「いずれにせよ、間もなく景綱の力は尽きよう」
何も言い返せない燈矢の心中を見抜くように、蒼は嘲笑する。音を伝える空気がまるで刃のように固く、皮膚に触れてヒリついた痛みが走った。奥歯を噛んで震える燈矢にじっとりとした視線を据えた蒼は、燈矢の視界の及ばない場所でゆっくりと手を持ち上げる。
空気の密度が変わる。その手が触れるよりも先に、肌がその意図を感じ取っていたのに――動けない。
蒼の手が頬に触れると、燈矢は金縛りから解けたように一瞬ビクッと体を震わせ、眉間に力を入れて蒼を睨んだ。おかしな真似をしたら容赦はしないと、強い牽制を込めて。
鋭利な視線とは裏腹に、蒼は澄んだ目に燈矢を映して柔和に微笑む。
「あなたは僕に似ているね」
「……は?」
自分でも驚くほど、冷えた声が出た。蒼は愉快そうに微笑んで、感触を楽しむように輪郭に添わせた掌を滑らせる。
「支配者の目をしている」
蒼の存在をありありと示す瞳に揺れる姿。頬を撫でる体温が旭に触れられている錯覚を起こさせて、脳が悲鳴を上げるようだった。
「……――っ!」
頬に一瞬の熱が走り、次いで痛みが感覚に染みた。
ツゥと生ぬるい感触が伝い、落ちた雫が旭の着流しに赤黒い染みを作る。
蒼は燈矢の頬から手を離し、血の付いた親指の爪に舌を這わせる――蒼の爪が、燈矢の皮膚を裂いたのだ。
蒼はコクンとわざとらしく喉を鳴らしてみせる。
「美味いな――良い味だ」
澄んだ瞳の奥に揺れる狂気に、背筋が凍る。呑まれてはならないと本能が警鐘を鳴らし続けるのに、目を離すことができなかった。
――刹那。ザッ、と風が舞い、吹き飛ばされた落ち葉が視界を覆う。
反射で瞑った目を開く前に強い力で突き飛ばされ、燈矢は地面を転がった。
「……っ!?」
すぐさま体を起こして身構えた燈矢は、深緋の瞳を見開いて息を止める。
目の前で、先を三つ編みに結った銀髪が揺れた。
「銀……」
思わず零した声に、銀の背中がビクッと微かに震える。
振り返らない背中が、ひどく細く見えた。
風が止み、森の音が消える。
銀は燈矢に背を向けたままで、旭の姿をした蒼と対峙していた。
蒼はゆっくりと体を起こし、服についた落ち葉を払う。彼の瞳の青が、一層温度を下げたように見えた。
「何をしに来たの、お前」
「……おれは、旭様の従者です」
「ああ、そうだったね……僕らが捨てた東雲に拾われたんだった。随分、上手くやっているようだね」
蒼は傍らに落ちた刀に視線を落として、黒漆の柄を掴む。蒼は刀を掲げ、角度を変えてその刀身に銀の姿を映した。痛そうに歪む蒼黒目が一瞬見えたが、光の加減ですぐに隠される。
「見事な出来だよ、銀」
蒼は再び刀を掲げて天に切っ先を向ける。空を覆う木々の隙間からわずかに漏れた光が、スゥとその刀身を撫でた。
「……兄上」
陶酔したような蒼の表情が、銀の零した一言で凍り付く。
燈矢も目を見張り、呼吸を止めた。
蒼の瞳が炎を揺らし、見る者を凍らせる温度で銀を突き刺す。
「その名で呼ぶんじゃないよ、この罪獣が――追放では足りないか?」
銀は糸を切られた操り人形のように、フッとその場に座り込んだ。蒼は氷の視線を銀に突き刺したままで、刀を手に立ち上がる。朽ちた落ち葉を踏んで銀を見下ろす位置に立った蒼は、逆手に掴んだ刀の切っ先を銀の頬を掠める位置を通して地面にグサリと突き刺した。
切っ先が掠めて落とされた銀の髪が、ヒラリと風に吹かれ地面に散る。
「その刀はお前が育てろ――必要だろう? お前の目的のためにも」
肩頬を吊り上げて笑った蒼――旭の体は、不意に力を失くして銀の上に圧し掛かるようにして倒れ込んだ。
不意に、空気が歪んだ。森の中で息づいていた音が遠ざかり、光だけが世界に残る。
そして、倒れた旭の背後から立ち上がる影。
鈴の音でも、呼吸でもない。空気が軋むような音が、耳の奥で鳴った。
長く垂れた銀髪が、体を起こす動作でゆっくりと揺れる。透き通るその髪色は、まるで真雪のように純度の高い色彩。白く長い指先が肩にかかる髪を払うと、分けた前髪の隙間から息を呑むほど整った顔立ちが覗いた。
長い睫毛が縁どる切れ長の青い瞳。細い輪郭と筋の通った高い鼻。形の良い唇にだけ、仄かに血色の色が宿り象徴的に浮き立っている。
銀の顔も人間離れした美しさを持つが、それをも優に凌駕する、完成された隙のない美しさ。顔に収められた部位のどれもが細部まで緻密に造られた芸術品のようで、目が離せない圧倒的な魅力を備えていた。完璧すぎる均整は、むしろ不安を呼ぶ。人の形をしているのに、どこかが違う――。
片袖だけを通した羽織は、純粋を装う欺瞞の白。そして着物は、深海のような支配の群青。
銀狐の長――蒼。
蒼は真っすぐに、燈矢の深緋の瞳を見つめる。舐めるような視線に、内側を弄られるような不快感が湧く。
「景綱を斬られては困ると言ったが――あれはもうどちらでもいい」
「え……?」
蒼は、首を傾け艶然と微笑む。
「あなたの方が、景綱よりもいい“器”になりそうだからね」
未だ燈矢の血の名残が滲んだ舌を出して、蒼はツゥと舌舐め擦りをした。
風が吹き、濡れた落ち葉を巻き上げる。
トッと駆け抜ける足音がして、蒼の姿は忽然と消えていた。
静寂が、落ちて。誰もがジッと押し黙る間に、周囲の音が少しずつ聴覚に還ってくる。
燈矢はそれら生命の音を意識の外に追いやって、自身の内側の音を聞いていた。
脈打つ鼓動。巡る血の音。内臓が鳴く音。潜めた息遣い。どれも、人の形をした命の音。
確かに自身のものだと感じる音の奥に、もうひとつ、鳴る音がある気がしてならない。
もしかすると、ずっと以前から鳴っていたかもしれない。聞かないように、蓋をしていただけかもしれなかった。
山奥でひとりで暮らすようになったときも、夜になる度のしかかる孤独を耐え抜くことができたのも。りんが傍にいてくれたからだけが理由ではなかったのかもしれない。
燈矢は虚ろな瞳で銀を見た。銀は燈矢の視線に気づいて見返すも、唇を噛んですぐに目を逸らす。
蒼との会話で明らかになった――銀も、狐だ。
何より、鬼の気配に敏感な銀狐。銀もまた、最初から燈矢の本質に気づいていたのだろう。
知らなかったのは、己だけ。そして――。
「ん……っ、ぅ……」
微かな声を零して、銀の腕の中で旭が目を覚ます。その瞳は元の金茶色に戻っていて、燈矢は密かに安堵した。
旭の瞳は空中をさ迷い、やがて燈矢を見つけて柔らかく微笑む。
「――燈矢」
体の芯が、熱く震えた。
久しく呼ばれていなかったように感じる名前に、見失いかけた体の輪郭が明確に結ばれていく。
燈矢は落ち葉で滑る足場を踏ん張り、ふらつく足を叱咤して旭の傍へ近づいた。傍らで膝をつくと、旭は痛そうに顔を歪める。
「どうした? どこか痛むか」
燈矢が問うと、旭は小さく首を振った。
空気の密度が変わる――覚えのある感覚。触れられるより先に肌が感じ取った意図を、燈矢は自らの意志で受け入れた。
引き合うように、伸ばされた掌に擦り寄せる頬。
旭の親指がそっと動いて、蒼に付けられた傷の上を触れない位置で撫でていく。
「痛そうだ」
「痛くない」
「強がるなよ」
「本当だ」
旭は納得の言っていない顔で不満げに唇を尖らせた。燈矢は噴き出しそうになるのを堪えて、緩く息をつく。
「旭に触られたら治った」
「触っていないが」
「くどい」
燈矢は瞼を伏せて応酬を打ち切る。旭が息を呑む音が聞こえて、次いで、ゆったりと頬を撫でる感触が染みる。
降り積もる雪のような冷たさで埋まりそうだった心が、呆気なく溶けて行った。
それはまた、現実に蓋をして考えるのを先延ばしにしたに過ぎなかったかもしれない。けれども今すべてを受け入れて、手にしているもののすべてを捨てていけるほど、燈矢の心は強くなかった。
そしてそれはきっと――彼も同じ。
燈矢は伏せていた瞼を上げて、銀に視線を据える。銀もまだ瞳に戸惑いを浮かべながら、静かに燈矢を見返した。燈矢は銀の瞳の中にも、自身と同じ揺らぎを目にする――一族から見放され、寄る辺のない孤独を。
「あなたたち」
ふと、涼やかな風に似た声が呼ぶ。
まるで社そのものが息を吐いたように、場の空気が和らいだ。
燈矢は旭の掌に預けていた頭を起こし、姿勢を正して膝をつく。
「紫苑さま」
燈矢の態度を見た旭と銀も、燈矢の少し後ろに下がり同じように膝をついた。
「……いいのよ、そんな。こちらに来てくれるかしら」
社の入口に立っていた紫苑は、扉の外れた木枠に手を掛け燈矢たちを呼ぶ。
燈矢は一度深く頭を下げて、紫苑が呼ぶのに従った。旭と銀も、燈矢の後についてくる。
先の戦闘のせいで、より傾いたように見える社。触れただけで床は崩れ、社全体がギシッと鈍い音を立てた。
瓦が落ちる音がして、隙間の開いた屋根から光がこぼれた。
薄暗い中に差し込む光の柱の中で、木くずや埃が雪のように舞っていた。
光が沈黙を裂くように社を貫く。
その光の向こう、景綱は深く頭を垂れていた。緋色の髪が完全に彼の表情を覆い隠し、ただ、単調な息遣いだけが聞こえる。
「景綱さま……? 眠っているのですか?」
「いいえ、違うわ。彼は……もうすぐ、終わるの」
「終わる……?」
燈矢が問い返すのに、紫苑は小さく顎を引いて頷く。
紫苑は景綱に近づき、深く俯いた頬に両手を添えて持ち上げた。緋の髪を指先で梳き上げる。その仕草の一つひとつに、永い時を共にした者だけの温もりが宿っていた。
景綱は紫苑の助けを借りて頭を起こし、彼女に向かってそっと微笑みかける。
そして、深緋の瞳を揺らして燈矢を見た。
「答えは決まったか? 燈矢」
相変わらず春の陽ざしのよう。景綱の纏う空気も、声も、口調も。
このまま何もせず時を待てば、差し込む光に導かれるように穏やかな最期を迎えられそうな彼を、なぜ――
「――なぜ、斬らねばならないのですか?」
燈矢の声は震えていた。傍らで聞いていた旭と銀も、状況を呑み込み切れないまま息を呑む。
景綱はフッと柔らかく笑って、口を開いた。
「俺を人のまま終わらせてくれ」
「人の、まま?」
「ああ、言い換えれば――鬼斬りのまま」
似たような会話を、どこかでした記憶。燈矢はハッとして肩越しに旭を振り返った。旭は不思議そうな表情で燈矢を見て首を傾げる。燈矢は次いで、銀を見る。銀の瞳は驚いたように見開いたまま景綱の体に据えられている。
後ずさる足元で床板の繊維が浮き上がり、パキッと微かな音を立てた。銀は震えていた。
燈矢は察する。きっと旭は、銀のこの様子を見て「怖がり」だと言ったとのだろうと。
――銀は、見えない《鬼》の存在に気付いている。
燈矢は銀の前に掌を差し出し、万が一にも動くなと、無言のまま視線で釘を刺した。
「景綱さまは……鬼になるのですか?」
瞬間、旭の視線が険しくなる。燈矢は銀に目配せをした。銀は小さく頷いて、旭の傍に寄り彼の袖を掴む。
「特に、未練や恨みがあるわけではないのだがな……俺がこんな姿でもこの世にとどまったのは、贖罪のつもりだったから」
「贖罪……?」
「俺は紫苑を――
背後で旭の気配が揺れる。瞳に浮かんでいた険しい色は消えて、放心したような表情を浮かべていた。
旭は、鬼斬りの知識が浅い。というか、深いところ何も知らない。
「奪った力は俺の中にあったから、それを全て返すつもりで如月の刀に貫かれた。そして、刀を通して鬼斬りの力を歴代の如月に与え続けた――贖罪であり、願いだった。幕府が傾き、動乱の時代が訪れれば鬼が増える。哀しい鬼や、鬼に魂を食われる人を生まないためにも、鬼斬りは存在し続けなければならないから」
景綱は一度深く俯き、息をつく。彼の掌を貫く杭が、キシッと微かに軋む音を立てる。
「俺の願いはそれだけだ。周囲の思惑など知らない……皆、それぞれ、願いのもとで動いているのだろうがな」
背後で、銀が息を呑む気配がした。
景綱の声は、聞く者の心を震わせる。長い年月をかけて成熟した想いは、微かな憂いを帯びながらも渦巻く思惑すべての深淵を真っ直ぐに見据えていた。
「だから俺は、俺の願いを貫くのみだ――俺を斬れ、燈矢。さすれば、俺の願いのすべてが知れよう。知りたくはないか?」
まるで、内緒で用意した特別な贈り物の中身を当てさせようとするように。景綱の声や表情には悲壮な色は一切なく、底抜けに明るい光で満ちている。
旭ですら、景綱に羨望の眼差しを向け、淡い息を吐いていた。素直で純粋な旭は、景綱にいつの間にか惹き込まれている。
自身の命が尽きようとする時に、こんな表情をする人がいるだろうか。
燈矢は胸が詰まる想いに焼かれるまま、泣き笑いのような表情を浮かべる。哀しみと、憧憬。最も強く湧く感情は――もっと、彼と話がしてみたかった。
「……燈矢?」
旭に困惑した声で呼びかけられてはじめて、燈矢は自分が涙を流していることに気がつく。
「泣いてくれるか、優しいのだな、燈矢は」
燈矢は次々と溢れる涙を拭いながら、力なく首を左右に振った。
「俺は……優しさよりも、あなたのような強さが欲しいです」
「あげるさ。俺を斬れば、お前は俺の強さを受け継ぐ」
――どうしても、斬らせたいのだ。この人は。
人であるうちに、というなら。
幾代もの永い時間、心臓を貫かれたまま生き続けてきたならば。贖罪の念だけで、人であり続けることができようか。
涙を拭って見上げたその瞳の奥に、燈矢は見た。
終わりの間際に、なお燃える火を。――この人は、死ぬために生きてきたわけではない。
まだ、何かを成そうとしている。
血を吸って、赤黒く鈍った刃。今彼の心臓に刺さる東雲の刀の前に、永く、景綱を貫いていた刀。
構えた切っ先の向こうで、景綱の口元がゆるやかに上がる。
誰も、止めない。紫苑も沈黙し、旭も銀も息を潜めていた。
答えはひとつ――景綱を斬ること。
それが景綱の願いであり、燈矢の役目。
迷いは、まだ胸の奥に残っていた。
それでも、景綱の火を受け継ぐなら――いま、斬らねばならない。
「まだ、迷うか?」
柔らかな声がフッと差し挟まれた。燈矢は再び力なく首を振る。
「猶予は、ないのですね」
「ああ、できれば。今すぐに」
「従います。けれども……最後に、一度」
「ん?」
景綱は微笑んだまま首を傾けた。燈矢はその表情を一心に見つめて、スッと息を吸い込む。
せめて震えてくれるなと願ったが、無理だった。これが最初で最後だと思えばこそ。
青紫の鬼火が、小さく揺れた。
「……――父上」
景綱の瞳が、ほんの一瞬だけ童のものになった。深緋がわずかに滲み、笑いがほどける。
旭と銀は、驚いて固まっている。紫苑は慈愛に満ちた顔で微笑み、眦に滲む涙をそっと拭う。
「ありがとう、燈矢。とてもいい気分だ――なあ、斬ってくれ」
燈矢は微笑む2人につられるように、泣き笑いの表情を浮かべた。
息をひとつ、喉の奥で整える。
「……ひどい人ですね、あなたは」
「ああ、すまない」
躊躇のない返事だった。
悪びれなく言う景綱の瞳を再び覗き込む。燃える火は未だ消えないどころか、より強固に燃え立つ。
終わらせなければ。終わらせることで、何かが結ばれる。そしてそれを、景綱は燈矢に受け継ぐと言った。
深い場所で結びついた絆が見える。景綱と紫苑、そして、燈矢を結ぶ糸。
燈矢は静かに息を吸い込み、左脚を引いて低く構えた。同時に右肩を大きく引いて、床と水平に刀を構える。
燈矢が最も得意とする剣技――突きの構え。鬼の核を一撃で貫き消し去る。刀を突き刺す一瞬、重く感じる魂の名残。その感触を刀を握る右手にまざまざと思い出して、燈矢は一度目を瞑り、開く一瞬で床を蹴った。
東雲の刀が貫く心臓へ、真っすぐ向かわせる切っ先。
一瞬、紫の煙が立った。
燈矢の突きが一瞬、紫の煙を切り裂いたその時、青紫の鬼火がひそやかに揺らぎ、空気が一瞬低く唸るように震えた。白く細い女の指先が刀身へと伸びるのが、視界の片隅に見える。
あ、と瞳を見開き揺らぎそうになる切っ先を、その手が掴んで強く引く。
声を上げる間もない。心臓がひとつ、ドクンと脈打つ音を聞ききる間さえなかった。
燈矢の突き出した刃は、彼の前に重なるように立つ紫苑の胸ごと、景綱の体を深く貫いていた。
「な……んで……、紫苑さま……」
「いいの。大丈夫よ――燈矢」
突き刺した切っ先から、2つの鼓動が伝わる。柄に貼り付いたようになった右手が、その律動に合わせて震えた。
「受け取って、燈矢」
紫苑の紅を塗った唇がそう囁いて、彼女の姿は揺らぐ紫の煙に変わり、刀に吸い込まれるようにして消える。
赤黒く斑だった如月の刀の表面に、清い銀色の光がゆっくりと差した。
一方、足元に落ちた東雲の刀は、不意に亀裂を走らせ真っ二つに砕け散る。
「これは……」
「紫苑の加護だよ。もう、お前のものだ。そして俺からは……――」
血の気の失せた顔で穏やかに微笑みながら、景綱は燈矢の耳に囁きかける。燈矢がその声を聞き、瞬きをする間に景綱は燈矢から別の人物へと視線を移した。
燈矢の背後にいる、揺れる青黒目を貫いて。景綱は狡猾な笑みを浮かべる。
「……悪いな、若いの」
ドッ、と倒れる音がした。燈矢はそちらを振り向けぬまま、景綱の最期を瞳に焼き付ける。
幻のように姿が透けて、景綱の姿は金色の光に包まれていく。
杭から抜けた穴のあいた掌が、髪を撫でた。胸を焼くほどに温かな掌。
「鬼になるなよ、燈矢」
手が、するりと落ちる。
それが、景綱の最期の言葉だった。
静寂が満ちる。扉を失くした入口から吹き込む風が、喪失に落ちた空気を静かに塗り替えていく。
燈矢は、同時に失った両親の残滓を体の内に留めるように深呼吸を繰り返した。
落ちた刀を抱き上げる。そこから、鈴のように澄んだ旋律が聞こえる気がした。
フッ、と。頬を風とは違う生温い感触が撫でる。
耳を掠めて抜けていく一瞬、あの子守唄が聞こえた。
「え……?」
燈矢は瞬きをしながら振り返る。背後では、放心したように座り込んだ銀と、その背中を支える旭がいた。
銀は虚ろな目を空に向け、ゆっくりと瞬きを繰り返していた。勘のいい彼には見えているのだろう――昇っていく鬼の魂が。
仄あたたかい乳白色のそれは、銀が抱えていた旭の刀から立ち上っていた。禍々しい鬼哭を上げ続けていた鬼の魂が解放され、浄化されていく。
燈矢は手にした刀を旭に向けた。旭は燈矢の表情を窺い、察したように刀の切っ先に触れる。
「……これは……?」
「始祖である
「俺が斬ったとき、人として逝ったのではないのか……?」
金茶の瞳を震わせながら問う旭に、燈矢は首を振って返す。
「鬼になるほど堕ちた魂が、再び斬られ、安らかに逝けると思うか? 人だった時の怨みの記憶に捕らわれ、再び苦しむだけなんだ」
「俺は……じゃあ、今まで……」
「旭はなにも悪くない。彼らも、旭が再び閉じ込めていたことで、今安らかに逝けると思えばいいだろう」
自身の口から出る言葉が、まるで自分のものではないようだ。
これまで幾度も重ねてきた葛藤や迷いが消え失せ、思考する脳が澄んでいる。
燈矢は昇っていく魂を見つめて、景綱の遺した言葉を思い出していた。
――俺を受け継げ。最強の鬼斬りのすべてをお前にやろう。
――もう、迷うな。
失っていた寄る辺が、胸の中心に根差している。そして、もうひとつ。
――金狐を助けてやれ。
新たに告げられた狐の名。聞き覚えのない名だった。けれど、何故だろう。胸の奥が、柔らかく疼いた。
“金狐”――その響きが、どこか懐かしい温度を帯びていた。
残された謎を思い、やはり話す時間が足りな過ぎたなと後悔を抱く。
「……燈矢」
旭の声に呼ばれて、燈矢は宙に向けていた視線を地に戻す。
旭は刀からそっと手を離し、膝をついた。
「……過ちを、どうかお許しください。己の浅はかな盲目さを恥じ入ります。そして、その愚かな過ちを救ってくださり、ありがとうございます」
旭の声は震えていた。それでも、揺るがぬ凛とした芯を感じさせる心地いい響き。
燈矢は密かにホゥと淡い息を吐き、旭の言葉に耳を傾ける。
「ご恩を、忘れません。俺は生涯あなたに仕える――燈矢さま」
体の芯が熱く震える。景綱の想いに触れて変わってしまったと思っていた自身に、再び巡り合うような。
旭に呼ばれると、己に還れる。
燈矢はその確信を胸に抱いて、フッと微かに笑った。
「その呼び名は、随分前に禁じたぞ」
「茶化すな、受け取れ」
「うん……ちゃんと、聞いたよ」
柔らかな口調に、旭がそっと顔を上げた。視線を交わして気楽に笑い合う。
その傍らで、銀は呆然と旭の刀を見つめていた。鬼哭はもう聞こえない。
銀は一度力なく笑ったような顔をして、次の瞬間、震える手で黒漆の柄を握り直した。瞳の奥が一瞬、真っ白に光る。
哭かない刀が彼にとってどんなことを意味するのか、燈矢は知らない。
けれども景綱が銀の“願い”を砕いたことは確かだった。
「……おれはもう、一生銀狐の一族には戻れない」
銀は魂が抜けたような掠れ声で呟く。絶望とともにどこか解き放たれたような安堵がその瞳をかすめた。無意識のような吐息が漏れる。
燈矢はその色を黙って見つめて、やがて呆れたような口調で言う。
「戻らなくともいいだろう、あんなところに」
ギョッとした顔が燈矢を振り仰ぐ。
旭が立ち上がり、彼に手を差し伸べながら言う。
「お前は俺の従者になると誓っただろう。今更どこへ帰ると言うんだ?」
いまいち論点のズレた主張ながら、旭の言葉は真っすぐ銀の心を射抜いたようだった。
「俺はお前が頼りだ。一生俺の傍にいてくれ」
そして、ダメ押しの一手。旭の天然人たらしを正面から浴びて、銀は白い肌を真っ赤に染めた。
旭は真剣だった。だからこそ、余計にたちが悪い。
真っ赤な顔のまま何度も頷く銀に近づいて、燈矢はそっと彼に耳打ちをする。
「お前、旭のこと好きだろう?」
図星を突けたようで、銀は耳の輪郭まで真っ赤に染め上げ唇を歪めて黙り込んだ。
揶揄うつもりで言ったことだが、燈矢にも銀の気持ちが痛いほどわかった。
銀は調子を取り戻そうとするように肩を下げて息をつき、まだ鋭さの戻り切らない瞳で燈矢を見る。
唇を噛み、ほんの一瞬だけ視線を落とした。
「おれがあなたに言ったことは、撤回する気はないですから」
仕返しのつもりか、微かな声で向けられた言葉だけは十分鋭利だった。
燈矢は軽く目を伏せ、受け入れる。
「願うのは、幾らでも自由だ。ただ俺は、お前に殺されてやるつもりはないよ」
お互いの思惑を胸にしまう。――願うのは自由。それを貫く覚悟と力を手にし続けられるかという話であり、止める権利は誰にもない。
――いつか、願いそのものが俺を殺すのかもしれない。
燈矢はその影を振り払おうとして、もう一度だけ刀の鈍い重みを確かめた。
◇
生い茂る木々に閉ざされた社を出て、小径を下る。燈矢の手には角度によって紫に光る、澄んだ銀色の刀が握られ、旭の手には変わらず黒漆の柄の刀が握られていた。銀は硬い表情のまま、旭の斜め後ろに控えている。
濃緑の葉影から降る陽光は眩い金色。
泣き腫らした目に染みるその強い光に、燈矢は視線を足元に落として進む。
木漏れ陽の粒が揺れた。
「――とーや!」
声と同時に、足音。次の瞬間、澄んだ鈴の音が跳ねた。
燈矢はハッとして顔を上げる。眩い光と一緒に、揺れる金色の目が視界に飛び込んできた。
「……っうわ……!」
加減など知らないというように、全身でぶつかってくるりん。燈矢は不意打ちを食らったこともあり、抵抗も出来ぬ間に地面に尻餅をついた。乾いた土がブワッと舞い、陽の光に照らされキラキラと散る。
りんは艶のある黒髪の頭に映えた三角の耳をプルプルと震わせながら、強い力で燈矢の着物の背を握りしめていた。燈矢は心音が落ち着くのを待って、フゥと短く息をつく。
「……りん。ただいま」
強張っていた背中が、微かに解ける。怯えたように丸まっていた尻尾がわずかに揺れて、グズッと洟の鳴る音がした。
燈矢はフッと笑みを吐き、りんの小さな頭を撫でる。淡い息の音がして、三角耳の震えが止まった。
「りーん?」
もう一度呼べば、りんはゆっくりと顔を上げる。唇をツンと尖らせ、不満で膨らんだ顔は愛らしく、可笑しい。
「……っふ」
「なに笑っとんの」
りんはさらに頬を膨らませて、小さな拳で燈矢の胸をポカポカと叩いてくる。燈矢は思わず声を上げて笑い、その吹っ切れたような笑い声は初夏の空気を震わせ静かな山間に響いた。
「如月殿ともあろうお方が……気でも触れましたか?」
光を遮って、逆光の影の内から聞こえる呆れた声。
「……
茶渋の羽織の袖に両手を差し込み、腕組をした朧はフゥとため息を添える。
「何で朧がここにいるの?」
「はあ? 何で、と。そちらのお嬢さんが手前の店の前で散々『とーやがおらん』と喚き散らされて……大変手を焼いたもので、比叡まで送ってきて差し上げたのですが?」
朧は眉間に指を添え、表情に疲れと苛立ちを覗かせる。
感情をめったに出さない朧のそんな顔を見るのは新鮮だった。けれども、素直に口に出しては火に油を注ぐだけなので大人しく口を噤む。
「今日はこないと思ってたんだ。ごめん」
燈矢は改めてりんの前髪に触れながら謝罪した。りんは不機嫌そうに唇を尖らせたままでいたが、ジッと自身の手元を見つめていた金眼が不意に大きく揺れた。表面に溜まった涙の膜が、今にもこぼれそう。
「うちも……きょうは燈矢が蔵にいる気がしたから、いかんつもりやった。でも、なんや胸の中がザワザワして、こわくて……そんで、とーやの小屋行ったけど、おらんし、あさひもおらんし。うち、とーやの他にだれも頼れる人おらんから……おぼろのおっちゃんに聞きに行ったんや」
話の途中で挟まるしゃっくり。その拍子に、限界を迎えた幕が破れて雫がこぼれおちる。
ボロボロと大粒の涙を零しながら泣くりんの声は、燈矢の笑い声の何倍も大きく響いて、胸を淡く締め付けた。
「この子いま、私のこと“おっちゃん”って言いましたか……?」
ぼそりと呟かれた朧の低い声が聞こえないよう耳を塞いで。燈矢はりんの背中に手を添えて、ポンポンと優しく弾ませる。着物の生地に染みていく温かな雫。緩やかに左右に揺れる金色の尻尾を眺めながら、燈矢はしばらくりんに胸を貸す覚悟を固めた――が。
たいして時間のたたない内に、ぐぅとりんの腹が鳴く音が響いた。
りんはぴたりと泣き声を止めて、何かを言いたそうな視線を燈矢に向ける。
「……お腹空いた?」
「空いた」
「わかった。何か作るから」
艶黒の頭を撫でてそう言うと、りんは「それで赦す」というように大きく頷いた。
背中側から燈矢の頭越しに伸ばされた腕が、りんの脇を掴んでヒョイと抱き上げる。赤い鼻緒の草履が頼りなく揺れる先を見上げれば、旭が柔らかく笑って見下ろしていた。
「どれ、俺が屋敷までお連れしよう」
「あさひ!」
はしゃいだ声をあげたりんは、すっかり懐いた様子であさひの頭に抱きつく。
じゃれあいながら小屋に向かって歩き出す旭の後ろに銀が従って、その場には燈矢と朧だけが残される。
朧は手を貸すことはしないものの、燈矢が起き上がるのをジッと待っていた。
「……あのような男、私は好きません」
朧は常に閉じているように見える狐目の隙間を開き、旭の背中を見据えて言った。
ジリジリと肌を焼く陽光に、燈矢は掌を掲げて影を作る。
彼の太陽ような本質を指してそう言うのか、それとも、彼が背負う東雲の名を指して言うのか。朧の意図は読めない――それでも。
「今に好きになる」
思わず、口元が緩んだ。
朧は閉じた扇子を口元に添えて、呆れたような吐息を漏らす。
カラスが、ガァと鈍く鳴く。幾多も重なり山間に響き渡る不吉な予兆。
旭の背中を見つめたままの燈矢の瞳に、そのひと匙の不穏は映らない。
「……光は毒だと言ったでしょうに」
それでも、彼は微笑んだ。
毒さえ呑み込むように。
《7/END》
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