第5話・迷子の小鳥



 鬼哭きこくが針のような痛みであるなら、斬るべき鬼が立てる音は太鼓の音のように低く、太い衝撃。ドンッと突き上げられる感覚に、内臓が震える。体に染みついた宿命が音を立てて動き出す。燈矢とうやは体中を巡る警告音のような震えを押さえつけて、刀を手に立ち上がった。


「行くか」

「……ああ」


 小屋の中にはあさひと銀が控えていた。共に鬼を斬る、との誓いを成就するべく、燈矢が彼らを引き留めたのだ。


 玄関の傍に置いた菅笠を手に取ろうとすると、横から旭が呼ぶ。旭は燈矢の背後から腕を回して菅笠を取ると、燈矢の頭に被せて顎紐に指をかけた。


「自分で」

「いいから。従者らしいことをさせてくれ」

「だから、旭は従者じゃ」

「嬉しいのだ。俺はずっと、こうして燈矢に仕えることを夢見ていたのだから」

「……大げさだ」

「そう言ってくれるなよ」


 ハハッと声を出して苦笑した旭は器用な手つきで燈矢の顎紐を結び、手を離す。用が済んだのに、離れて行かない視線の気配。燈矢は笠の内に隠した視線を上げられないままでいた。笠の影、熱がこもる。名前を呼ばれた時と同じ熱だ。


 ようやく旭が傍を離れたのを足元の動きで知る。燈矢はフゥと安堵の息を吐いて、玄関戸に手をかけた。


 梅雨明けの空気は地上に降った雫を存分に使うがごとく、ムッと湿って重苦しい。ただ見上げる明るい夜空だけが涼やかに、群青に広がりチラチラと不安定に揺れる銀の星明かりを散らしていた。黄金の月に薄っすらとかかる雲。音を発するもののない暗闇では、星の瞬く音さえ聞こえてきそう。


「ここから徒歩で都に出るのでは時間がかかるだろう」


 耳をくすぐる涼やかな風のように掠める声。燈矢は傍らに並んだ旭を見上げて小さく微笑んだ。


「呼ばれているから、移動は速いよ」

「呼ばれている……?」


 旭は燈矢の言葉を繰り返し、首を傾げながら後ろをついてくる。呼ばれている、といった感覚は間違いかもしれない。実際、鬼に真意を確かめられるはずがないから憶測でしかなかった。そしておそらく、感覚は呼ばれるという「引き合う」というほうが近い。けれども、そうした鬼と「共有」する感覚を東雲は毛嫌いするだろうと思い、燈矢はそれ以上の説明を呑み込んだ。


 小径にある稲荷の祠の横を抜け、生い茂る草木をかいくぐって森に入る。旭は不思議そうな目で燈矢を見つめながら、黙って従ってきた。


「できるだけ近くに」

「わかった」


 背後に添う旭の熱を感じる。旭の隣に並ぶ銀の気配も感じ取って、燈矢は静かに呼吸した。体の芯を燃やすように、溜めた《気》を息に込めてスゥと吐き出す。地面に翳した掌にボゥと宿る青白い鬼火。地面に紋様が浮き上がり、その軌跡に火が移るように紋様が炎の色に光る。軽い旋風が巻き起こり、紋様の内に立つ3人の体を包んだ。


 燈矢は瞼を伏せて掌にすべての意識を集中させて、引き合う方へと吸い込まれる様をイメージした。


 耳を打つ川の音。頬を撫ぜる湿った夜風に瞼を開くと、周囲の光景が一変していた。川にかかる四条大橋は深い闇と静寂に沈み、昼間の喧騒の残像だけが、橋桁に薄く貼りついていた。川面にまたぼんやり浮かぶ月明り。ぽつりぽつりと灯る灯篭の明かりは頼りなく揺れて、鬼火のように宙に浮いて見えた。提灯の赤が乳白の膜に沈み、遠く東山の稜線が幻のように揺れる。


 じっとりとした湿気の感覚が、徐々に薄れていく。ゴポッ、ゴポッと、川面が沸き立つ鈍い音だけが鮮明に立つ。燈矢は刀の柄に手を添え重心を落とした。

 川面を這う白い霧が急速に膨れ上がり、視界を塞ぐ。忍び寄る底冷えの気配が足に纏わりつくように起きて、燈矢は思わず奥歯を強く噛んだ。肌に触れる霧は、相変わらずゾッとする冷たさを帯びていた。


「燈矢」


 心音に意識を呑まれる寸前。体の芯に真っすぐ触れる声音が呼ぶ。燈矢は繰り返していた呼吸を一度詰めて、脳が熱くなる感覚を覚えながら一点に視線を据える。


「来るぞ、旭」

「ああ。俺は、如月の刀になろう」


 力強い言葉は心を震わせる。ああ、歴代の鬼斬りはこうも頼もしい思いで使命に臨んでいたのか。背中を預ける相棒の存在に、燈矢はグズッと小さく洟を鳴らした。濃い霧の中からガァと口を開けた異形の影が飛び出してくる。巨体は迫る間に避けて複数に別れ、濃い霧の中で影を揺らした。


「見えるか、旭」

「ぼんやりとだが……」

「なら、俺が先行する」

「承知した」


 呼吸を合わせ、燈矢は太刀を構えて低い姿勢から鋭く飛び出す。正面の影を薙ぎ払い、後衛の旭にとどめを任せる。高い悲鳴が上がり、紅色の紫煙が舞った。燈矢はそれを肩越しに見て、次なる鬼の胸に太刀を突き立てた。貫かれた鬼は動きを止めて崩れ落ちる。地面に伏す前に旭の刀が傷口から真っ二つに太刀を走らせ、鬼は地面に至る前に脆く崩れて煙となった。


「なるほど……死体を残さない鬼斬りとは」

「こつらにはもう、死しても残る魂はないんだ。すべて鬼に食われてしまっている……だから魂を求めて、人を襲うんだ」

「魂が、ない……」 


 旭がポツリ呟く声に、後方で護衛に当たっていた銀の視線を感じる。銀の白い肌は一層青ざめているようにも見えて、青黒の瞳は潤んで揺らいでいた。


「旭、銀は……」

「あいつは怖がりなんだ。だが腕は立つから、心配いらない」


 あれは、恐怖だけの感情だろうか。燈矢はチラリと浮かんだ疑問を腹に溜めて、また向かってくる鬼を斬った。スッと体を除けると、空いた空間に飛び込んだ切っ先が鬼を裂く。


 燈矢が投げた視線に、旭が応えてフッと微笑む。心臓が、心地よく脈打っていた。旭、とわけもなく呼びたくなる衝動が湧いて、燈矢はハァと吐息して欲を収める。


「燈矢」


 けれども旭は燈矢が抑え込んだ衝動を素直に吐いて、燈矢を呼ぶ。


「燈矢……ははっ、燈矢……燈矢!」

「……旭」


 濃い霧の中に、旭の気持ちのいい笑い声が響いた。燈矢は旭の呼ぶ声に欲が満たされていくのを感じて、ホゥと噛み締めるように名前を呼ぶ。いつもは早く終われと願う勤めが、長く続けばいいと思ってしまう――これは、業だ。ながらく自分には不要と押し込めてきたものがはっきりと輪郭を成して現れて、開いた視界が潤んで揺れた。


 ガァ、と。邪な思考を打ち消すように鬼が哭く。燈矢は瞳に揺れる感情を排して、深緋の瞳を目の前の影に据えた。


「旭、最後だ」

「ああ、では」


 旭は切っ先で空を切り、スラッと斜めに落とした。燈矢は旭の刀の先に自身の刀を添わせ、呼吸を止める。フッと浮き上がる旭の切っ先。旭の刀が美しい孤を描く。燈矢は旭の切っ先の軌跡を見極め、刀の隙を埋めるように剣先を走らせた。軽やかで美しい切っ先の一方、鋭く隙もなく相手を切り裂く。残月ざんげつの餌食となった鬼は高い咆哮を上げ、紫煙をまき散らした後に骨となり、残骸を撒いて消滅した。


「燈矢」


 呼ぶ声は、まるで報酬のようにジワッと燈矢の内側に歓喜を灯す。燈矢は熱い息を吐いて、滴る汗を拭いながら顔を上げた。立ち込めていた霧が少しずつ晴れて、澄んだ群青色の夜空が覗く。青と白。静謐な空気の中にあるのに、旭の笑顔は太陽のように眩しい。燈矢はゴクリと唾を呑み、旭を呼び返そうとする――その刹那。


「旭さま」


 鋭く呼ぶ声に、旭の瞳の色が変わった。地面を擦る剣先がズズッと鈍い音を立て、重そうに引きずられる。違和感に目を見張った瞬間、燈矢の頭に鋭く突き刺す針のような痛みが走った。


「痛ぅ……ッ……」


 キィン、キィンと鋭く立つ金属音――鬼哭だ。燈矢は揺らぐ視界を一度強く目を瞑って慣らし、痛みを堪えながらじわりと開く。


 ユラッ、と揺れる旭の広い背中。美しかった銀の刀身は紅色の靄を纏い、か細い悲鳴を上げた。浮かばれず斬られた魂が、同胞を呼んでいる。亡霊のように動く旭が向かう先には、少年の姿した影があった。


 白い顔に痩せた体。窪んだ眼は底なしのようにどこまでも黒く、空洞の中に深い影を落としている。肋骨の浮く胸はところどころ皮膚が剥げ、空っぽの中身を覗かせていた。


 少年は、空洞になった瞳で泣いていた。鋭く突き刺すような痛みで鬼哭が響く。旭にこの音は、痛みは届いていないのか。燈矢はふらつく足を叱咤して旭に近づき、着物の背中を掴む。


「旭……」


 軋む喉から縋るような声が零れた。旭は燈矢を振り返り、痛みを堪える顔で笑う。


「大丈夫だ。お前は休んでいろ。俺が斬る」

「旭……ダメだ……お前にも分かるだろう、この痛みが……鬼哭が。斬ったらダメだ」


 旭は一瞬空を仰ぎ、静かに目を閉じた。やがて再び開いた目は澄んで、燈矢はゾクッと背中が震える感覚に襲われる。


「すべての鬼を斬る」


 澄んだ瞳のままで、旭は言った。痛みの名を、彼は知らない。だから真っすぐに言える。


「その宿命から逃れてはならない」


 旭は燈矢の肩に両手を置いて、フッと離しながら背中を向ける。少年鬼は歯が全て抜け落ちた唇を開いて、声にならない音で咆哮した。カッ、カッ、と頼りなく零れる空気の音だけを吐いて、眦から涙を流し続ける。燈矢を襲う頭痛は激しくなり、一歩も動けない。


 グラッと揺れる視界に、銀の影がひとつ揺れた。控えたままのままの銀は、静かに燈矢に視線を据えて、やがて無感情のままに逸らす。


 まるで研ぎ上げた鏡のような瞳だった。


 世界を反射しつつ、己の内側は見せない。迷いのない青黒目は寒々しくすらあって、燈矢は胃の奥からこみ上げる不快感にグッと強く息を呑んだ――すべての鬼を斬る。彼らの信念の淵を覗いた心地がして、背中を薄ら寒い空気が駆ける。


 冷静な思考を、タガが外れた理性が食い荒らす。マグマのように湧く衝動を、別の感情が冷やし固めて、腹の奥に重たい石が据わるよう。


 燈矢は内側を冷やすようにスゥと群青の空気を吸い込んで、前傾させていた体を起こし背筋を伸ばした。


「――旭」


 キンッ、と。張りつめた空気をばちで強く打ち鳴らすように、空気を震わせながら響く音。旭は燈矢の声にピタリと動きを止める。振り返った瞳は恐怖したように見開いて、旭はその場にサッと跪き首を垂れた。


「旭さま……っ」

「動くな」


 旭に駆け寄ろうとした銀も、燈矢は声の圧で制する。銀はビクリと体を震わせ、歯噛みして後退した。


 燈矢は伏した2人を冷ややかに見下ろし、群青の空気を裂いて真っすぐ進んだ。川面の音さえ静止したように。真空のような無音の中を、燈矢は静かに進んでく。


 少年鬼は近づいてくる燈矢を警戒するように、カッカッと空気を吐きながら体を震わせていた。燈矢は少年の底なしの瞳を見下ろし、差し出した掌の上をフゥと吹いた。


 皮膚を滑る吐息は灰青の煙に変わり、少年鬼の体に触れる。それは徐々に濃さを増し、少しずつ伸びて少年の体を包み込む。少年は戸惑うように暴れたが、包み込む煙に圧されるまま、大人しくなった。


 少年鬼を呑み込んで、灰青の煙はやがて小さくなり、地面に落ちた。砂利の上を微かに震えて暴れた煙の塊は、ブルッと大きく震えて形を変えていく。


 見つめる燈矢の深緋の瞳に光が戻るのを目にした銀は、強張らせていた体の緊張を解いて煙の塊を凝視した。震えながら形を変えていく煙はやがて双対の翼を生やし、灰青の羽根を生やした小鳥の姿になる。


 不安定な河原の石の上をヒョコヒョコと跳び回り、石の隙間を啄む鳥の挙動を見て、燈矢はフッと表情を緩めた。跪いていた姿勢を解いた旭は燈矢の隣に並び立ち、跳ねまわる小鳥を見下ろした。


「鳥が化けていたのか」


 旭の呟いた結論は間違っている。けれども、訂正する気はなかった。


「ああ、自然のことだから理由は分からないが……時折こういうことがある。見極めは必要だ」 

「うん……気を付けるよ」


 旭は燈矢の傍らでしゃがんで、小鳥にソッと両手を差し出す。小鳥は首を傾げながら旭の指先を啄み、やがて旭の掌に飛び乗った。


「かわいい」

「……うん」


 燈矢は旭に応じながら、静かに銀へと視線を向けた。銀はホッとしたような、悔しそうな、複雑な表情を浮かべていた。彼の鬼を感じる素質は確かだ。でも――。


「銀」


 燈矢は銀に視線を据えたまま、彼を呼ぶ。銀はすぐさま視線をよこし、複雑な表情のまま燈矢に向かって頭を下げる。


「旭の刀を持て。今宵はもう、帰ろう」

「は……」


 銀は短く返事を返し、旭の刀を拾いに行く。


「燈矢、自分の刀は自分で持てる」

「……俺の命令を聞いてくれ、旭」

「分かった」


 言いたくはないが、今は仕方ない。燈矢は律儀に答える旭から視線を逸らし、ハァと重く溜息をついた。注がれたまま離れない旭の視線を感じるも、燈矢は顔を上げることしなかった。旭はやがて視線を離して、刀を拾う銀を見つめる。


「お待たせしました」


 旭の刀を手に持って戻った銀が慇懃に言う。燈矢はひとつ頷いて、掌に鬼火を灯した。灰青の小鳥は旭に懐いたようで、彼の肩にとまっている。燈矢はそれを見て苦笑を浮かべ、掌に《気》を込め目的の場所へとイメージを繋いだ。


 山奥への小屋へ戻り、燈矢は寝所を整え旭に眠るよう告げた。銀はまた姿を消していて、旭によれば見回りに出たとのことだった。


「こんな山奥に、見回りもなにもあったものじゃないのに」

「真面目なんだ、あいつは。最後の鬼の正体を見抜けなかったことに責任を感じているのだろうよ」


 布団に横になって、目を閉じたまま旭は言う。燈矢は彼の隣に並べた布団に入り、薄闇に浮かぶ旭の横顔を見つめた。


「旭と銀は、どうやって出会ったんだ?」

「ああ……父の葬儀の後、長老に呼ばれて鬼斬りの役を継いだ帰りに、道に倒れていた。傷だらけで口もきけなかったので、家に連れ帰って介抱したんだ」

「……そうか」

「銀に俺が鬼斬りであることを話したら、銀は『鬼が見える』と言ったんだ。試しに連れて鬼狩りに出たら、銀の言うことは本当だった。見てくれといい不思議なやつだが、いいやつだぞ」


 旭は眉尻を下げて困ったように笑う。おそらく、帰り際に燈矢が銀に向けた固い態度を気にしている。


「……うん」


 燈矢は、旭が銀を「いいやつ」というのは旭と付き合うせいだと思った。この太陽のような男に照らされれば、誰でも絆されてしまう。燈矢はフッと瞼を下して、短く息をつく。


「あれは……あの針のような痛みは、鬼哭というのだな」


 旭がポツリ呟いた言葉に、燈矢は伏せていた瞼を上げた。


「お前の方が強く感じているように見えた。痛いから、お前は鬼哭が聞こえる鬼を斬らないのか?」

「……そういうわけじゃ」


 ない、と。言い切ることが正しいかどうか分からなかった。痛みを、斬らない鬼を選別する理由にしているのは確かだった。傍から見れば、それは燈矢が痛みから逃げているようにも見えるだろう。


「俺が斬る鬼は皆、死体が残る。死体の残らない鬼を斬るのは今回が初めてだった。俺は長老から、鬼を斬り死体にするのは鬼を人として死なせてやるためだと聞いた。捨て置いては、お前が斬る鬼のように魂が尽きてしまうから……と」

「……ああ」


 訥々と語る旭の声が、胸に降り積もる。旭の刀は、迷いがない。彼の語る言葉も道理にかなっているように思う。人として死ぬこと。鬼に魂を食われ、骸の化け物となり果てた後に斬られること。どちらが魂の救済になるかなど、燈矢に判断できることではなかった。


 でも、痛いのだ。責めるような痛み、斬ってくれるなと懇願するような。その声が聞こえると言っても、旭は納得しないだろう。しぼんでいく期待が、燈矢の口を重くさせる。


「俺の剣は、誤っているか?」


 燈矢は薄闇に浮かぶ旭の澄んだ瞳を見つめ、胸を突かれる思いを味わった。誤りだとは言えるはずもない。燈矢は唇を引き結んで、ただ無言で息を吐く。


「……困らせたな、すまない」

「いや……」


 燈矢は詰まる息を何度も吐いて、常の調子を取り戻そうと努める。無理に笑うと、旭の大きな掌が伸びてきた。燈矢は顎を引いて、旭の手を受け入れる。


 旭の掌は燈矢の後ろ頭に触れ、優しく引き寄せてきた。燈矢は旭の手が促すままに体を寄せ、旭の胸に鼻先を寄せる。じんわりと伝わる体温と、トクトク脈打つ鼓動。燈矢はその音に頭をつけて、ソッと目を閉じた。


「ずっと独りで鬼を斬ってきたんだな、燈矢は」

「それとこれとは、別だ」

「だが、お前の剣は己を信じる剣だった。俺の剣は牽制になっていたかもしれないが、本当に人に害を成す鬼を斬っていたのは燈矢、お前の剣だった」

「それは……俺が、如月だから」

「そうだな。だから俺は、お前に仕えたいと言ったんだ」


 後ろ頭に触れていた手が背中に回り、体を寄せるように強く抱きしめられる。燈矢は全身が熱くなる感覚を覚えて、旭の腕の中で身を固くした。


「お前は違うと言うけれど、やはりお前は俺の主人で、俺は従者だ。……俺を導いてくれ、燈矢」


 ソッと。髪に唇が触れる。それは恋慕や肉欲の類ではなく、懇願であると痛いほど伝わる。燈矢はキュッと小さく唇を引き結び、旭の首筋に額をつけた。


「旭の剣は……綺麗だ」


 それが旭の望んだ答え出ないことは分かっていた。それでも、旭の言うように彼を導ける自信など燈矢にはなかった。もはや鬼斬りの一族からも忘れられ、お触れも届かない場所でひとり鬼斬りを続ける燈矢が東雲の当主を従えるなど、あってはならない。この爪弾きの立場に、旭を巻き込むわけにはいかなかった。


 燈矢はハァとため息を吐いて瞳を閉じる。シンと静寂が落ちる狭い小屋に、旭のひそやかな寝息の音が静かに響いた。


 燈矢は旭に腕に抱かれながら、言いようのない孤独を覚えていた。



 夜、鳥の鳴く音で目を覚ます。旭の連れ帰った灰青の小鳥が枕元で跳ねて、チチチと小さく鳴くせいだった。


 燈矢緩んだ旭の腕からスルリと抜け出し、枕元の小鳥に手を伸ばす。小鳥は素直に、燈矢の手にとまった。


「苦しいか、解放してやろうな」


 燈矢は柔らかく微笑んで、鳥を手にとまらせたまま小屋の外に出る。


 群青の夜空に浮かぶ金色の月。抜ける夜風は少しに湿気を孕んで肌に纏わりついた。燈矢は控えめな足音を立てて庭を進み、金の月に向けて灰青の小鳥を重ねた。


 少年鬼は、きっと餓死したのだろう。空洞の体も、すべて抜け落ちた歯も、生前の悲惨な暮らしを思わせた。誰にもその恨みが聞き届けられないまま、世を恨み、鬼となった。そうした魂を、再び人として死なせることは、本当に正しいだろうか。


「……分からない」


 燈矢はポツリと呟いて、掲げていた小鳥を一度胸の前に下す。そのまま周囲を見回して、道具をまとめて置いた場所の傍からもみ殻を手に取り地面に撒いた。


 小鳥は燈矢の手から飛び降りて、地面のもみ殻を啄み始める。チチチッと鳥らしい声で鳴き、次々ともみ殻を啄んでいく。せめても弔い。これから消えるのであれば、最後は腹いっぱいにして逝くことができたらきっと、寂しい魂が少しは救われるかもしれない。


 燈矢は東の空が白み始めるまで、そうして小鳥を見守っていた。チチッ、と。最後に短い泣き声を残して、灰青の小鳥は幻のように姿を消した。


「……如月殿は、鬼に心を寄せるのですね」


 ポツリと落ちる冷えた声音。燈矢は深緋の瞳をスゥと動かし、声の主を見る。

 旭の刀を抱いたままの銀が、そこに立っていた。その瞳はまた、鏡面のような色をしている。


「そういうわけじゃない……ただ、俺は痛みに弱いのかもしれない」

「如月の当主が、ですか」


 銀は青黒の目で燈矢を見つめる。口調には糾弾する色が混じっている。燈矢はフゥと息をつき、銀に向けて曖昧に笑う。


「如月の者である自覚はある。痛みも……耐えてこそとは思うし、痛みを感じても刀を振れる旭を尊敬しているよ」

「ではなぜ邪魔だてをしたのですか」


 銀の瞳に映るのは、敵意だ。燈矢は小さく息を呑んで笑いを消した。


「お前たちの信念に背いたことは申し訳なく思ってる。けれども、斬るべきでないと思った」

「なぜ?」


 突き刺すように、間を置かずに問いを向けてくる銀。燈矢は胸の奥がじくじくと痛む感覚を覚えつつ、静かに言葉を継ぐ。


「哀しいからだ」


 銀は落胆するように肩を落とした。ハッと吐き出された息が白く形作られ、空気に交わり消えていく。


「あなたの剣は、情が過ぎる」

「……ごめん。でも、このまま鬼哭を無視して斬り続ければ、その刀は持ち主を食らうぞ」


 銀の青黒目が静かに燈矢を見た。燈矢は無言のまま銀を見返す。


「斬られた魂がその刀に巣食っている。その刀は重いだろう?」


 燈矢の問いかけに、銀は答えない。ただ、刀身に触れる手が微かに震えていた。


「東雲はなにを考えている?」


 東雲の家となんの関係もない銀に向ける問いではないことは分かっていた。けれども燈矢は、この若者が腹に何かを抱えているように思えてしかたがなかった。旭は恐らく何も知らない。彼の剣は美しいままだ――美しいまま、汚れていく。


「できれば、彼の剣を汚したくない」


 吐露した願いは喉が詰まる音に混じり、掠れたまま零れ落ちる。

 銀はフッと俯いて、長い髪の内側に表情を隠した。微かに揺れる肩と、風の音に紛れて笑い声が聞こえる。


「……銀?」


 燈矢の呼ぶ声に、銀はゆっくりと顔を上げた。口元はわずかに微笑んでいるものの、目の色は荒み、痛そうに眉根が寄っている。凄惨、と言える色に燈矢は困惑して息を呑む。


 燈矢を睨め上げる瞳には、ありありと憎悪が滲んでいた。


「あなたは何も分かっていない」

「……なに?」


 銀の手の中にある刀の刀身が、黒い瘤のように歪に膨れた。数多の黒目が一斉に別の方向を剥き、奈落のような口が悲鳴を上げる。銀はそれを拭い去るように刀身を撫でて、乱暴に刀を振り下ろした。ザワッ、と一瞬湧いて広がる銀髪。青黒の瞳に長い睫毛の作る影が落ちて、美しい相貌の陰影を際立たせる。


 銀の掠れて聞き取りにくい声が、小さく空気を揺らした。


「俺は……あなたを殺す」


 心臓に冷たい刃を突き立てられるように。その声は燈矢の耳底に呪いのように張り付いた。


《5/END》

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る