二十三歳、一億人の失恋を受け流す夜

クソプライベート

合気道

澄水静玖の二十三歳は、蝋燭の火が揺れる、静かな道場で始まった。

去年は隕石を受け流し、その前は暴走する新幹線をいなした。波乱万丈の二年間だっただけに、彼女は心から願っていた。「今年こそは、穏やかな誕生日を」と。

​その願いが天に聞き届けられなかったことを、ポケットの中のスマートフォンが告げた。けたたましい通知音と共に表示されたのは、号外ニュース速報。

​『国民的スターカップル、本日破局を発表』

​太陽と月、とまで謳われた、日本の誰もがその幸せを信じて疑わなかった二人の、あまりに突然の別離。

静玖がニュースの文面を読み終えるよりも早く、世界の「気」が淀み始めたのを肌で感じた。最初は小さなさざ波だった。近所の家から聞こえる、ため息の音。コンビニの店員の、虚ろな眼差し。やがて、そのさざ波はうねりとなり、街全体、いや、日本全土を覆い尽くす巨大な「負の気流」へと変わっていった。

​人々が流す涙、吐き出すため息、裏切られたと感じる心。その一つ一つは小さくとも、一億人分が束になった時、それはもはや単なる感情ではなかった。都市のネオンは活力を失って滲み、人々の足取りは鉛のように重くなる。街から笑顔が消え、まるで彩度を失った映画のように、世界が灰色に沈んでいく。

これは、物理的な質量を持たない、純粋な「心の暴力」。隕石の運動エネルギーよりも遥かに複雑で、新幹線の暴走よりもたちの悪い、制御不能の奔流だった。

​「……これまでで、一番厄介なお客様ですね」

​静玖は道着の帯を締め直すと、街の中心、無数の人々と思いが交差する天神のスクランブル交差点へと向かった。

雨も降っていないのに、誰もが傘をさしているかのように俯いて歩いている。信号が青に変わっても、動き出せない人々がいる。その中心に、静玖は静かに立った。

​目を閉じる。四方八方から押し寄せるのは、悲しみ、怒り、失望、無力感。人の心が発する、無数の「突き」だった。

これに力で抗えば、己の心が砕かれる。恐怖で退けば、奔流に呑み込まれる。

合気道の本質は「受け流す」こと。相手の力を、まず受け入れること。

​静玖は、構えない。ただ、そこに立つだけ。

そして、その小さな身体の全ての感覚を開き、一億人分の失恋という、途方もない悲しみを、自らの内へと招き入れた。

​「――受け身」

​技の名を呟く。それは、攻撃を受け流し、身を守るための基本動作。

彼女の心に、激痛が走る。まるで自分のことのように、幾千万もの別れの光景が流れ込んでくる。涙が溢れ、膝が折れそうになる。だが、静玖は己の中心を保ち続けた。悲しみを受け入れ、しかし、決してその場に留まらせない。

​彼女は、その膨大な負のエネルギーを、自らの丹田で練り上げ、一つの大きな「気の塊」へと昇華させていく。

そして、夜空を見上げ、静かに、舞うように腕を振るった。

​「――呼吸、投げ」

​それは、誰の目にも見えない、魂の演武だった。

静玖の掌から放たれた悲しみの塊は、夜空へと投げ上げられ、宇宙の広大な静寂の中へと、吸い込まれるように消えていった。まるで、最初から何もなかったかのように。

​ふ、と街の空気が軽くなった。

人々は、はっと顔を上げた。なぜ涙ぐんでいたのか、なぜ足が止まっていたのか、もう思い出せない。ただ、心の重荷が少しだけなくなり、もう一度前を向いて歩き出せるような、不思議な解放感に包まれていた。

​スクランブル交差点の真ん中には、もう誰もいない。

静玖は、ふらつく足で自らの道場へと戻った。テーブルの上には、すっかりクリームが乾いてしまった、一人分の誕生日ケーキ。

​彼女は、そのケーキを一口、口に含んだ。

甘さの中に、ほんの少しだけ、一億人分の涙の味がした。

それが、澄水静玖の二十三歳。あまりにも重く、そして、忘れられない始まりの味だった。

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