第3話 蜜蓋

(セラの手記)


 午前の斜光が蜂場の木肌を浅くなぞり、巣門の出入りは落ち着いていた。今日は採蜜前の最終点検、そして一部の枠で**蜜蓋(みつぶた)**の開封を行う。蜂が集め、風で水分を飛ばし、熟したと判断された蜜房の口に、薄い蝋の蓋がかかる——その規則性を私は信頼している。構造に従えば、判断は誤差を減じる。


 納屋の奥、遠心分離機の金属面は曇っている。ノアが布で磨き、映る自分の輪郭に笑いかけたのを見て、私は注意しない。笑うことは規律に抵触しない。むしろ、余計な会話を避ける点で助けになる。私は工具の並びを整え、解蓋フォークの湾曲角を指で確かめた。歯先は鈍すぎても鋭すぎてもいけない。蜜房の縁だけを掬い、蜂児房を誤って傷つけないための角度がある。


「No.7、第三巣枠から。温度、確認」


「三一度。表面、乾いてます」


 ノアの返答は簡潔だ。私は頷き、枠を置台に固定する。蜜蝋の光沢は均一ではない。微細に揺らぐ光を読む。乾いて硬い蓋、まだ湿って柔らかい蓋。適切なのは前者だ。私は解蓋フォークを滑らせ、蓋の薄膜を割る音を確かめる。ぱり、と微細な、しかし確かな音。金属的でなく、紙でもない。熟度が音になる瞬間を、私は幾度経験しても緊張する。


 ノアが息を吞むのが横でわかった。私は視線を枠から外さず、声だけを落とす。


「見学は良いが、触らないこと。今日は音を覚えた方が早い」


「……はい」


 解蓋面を半分ほど進めたところで、私はフォークを止めた。薄い蜜が縁から光っている。粘度は高い。適切。私は刃先についた蜜蝋の屑を落とし、作業布に付ける。ノアの視線がそこに釘付けになるのを感じ、言葉に迷う。蜜蓋の欠片は廃棄物ではない。食品として口に入れてよい程度には清潔だ。だが、ここは作業場であり、規律が優先される。


 迷いは短く。私は欠片を取り、秤の上にわずかに載せてから、沈黙のうちにノアへ差し出した。理由が要るなら、味見の確認。秤に一度触れさせたのは、自分の妥協を計量の儀式で包むためだ。ノアは一瞬だけ私の顔色を見、次いで欠片を舌に置いた。喉仏が僅かに動く音を、私は聞こうとしない。私はただ、温度計の目盛りを読む。三一度。規定の範囲にある。


「音、もう一度聞きたいです」


 ノアが言う。私は頷き、反対側の未開封面へフォークを入れた。薄膜が連鎖して割れる。ぱり、ぱり、細い雨のように続く。遠心分離機の向こうで、まだ昨日のラベンダーの香りが金属に残っている。午前の涼気、蝋の匂い、蜜の匂い、油の匂い。匂いの層が重なり、その中心に音が沈む。ノアの呼吸が深くなる。私は彼女の集中を評価する。感覚で理解するのは、数字で理解するより遅いが、忘れない。


 枠を二枚、三枚。解蓋を終え、遠心機へ固定する。蓋を閉める前、小さな儀式のように私は一拍おき、ノアを見る。


「回す。最初は弱く。偏りが出る」


「はい」


 スイッチ。金属の回転が低く鳴り、蜜が壁へ叩かれ、流れる音——ざあ、という、液体の重さをともなった走行音。私は速度を少し上げる。ノアの目に、円の中の円が映る。私の耳には、回転の偏差が聞こえる。蜂場で鍛えられた耳は、機械のわずかな不均衡を拾う。速度を微調整し、音が滑らかな帯になるのを待つ。


 ノアがぽつりと言う。「雨みたい」。私は答えず、蓋へ指を置いて振動の伝わり方を確かめた。問題ない。私は徐々に速度を落とし、停止。蓋を開けると、甘い香りが、涼気の中で急に重くなる。ステンレス面を流れる黄金色。私は秩序の確認を繰り返す——濾過布、容器の清潔、ラベルの準備、バッチ番号の記載。「B7-UT-03」。巣箱7、私的な略号、三回目の採蜜分。私的な略号は規律上の問題にならない符牒の範囲で、私の拠り所だった。


 作業は淡々と進む。それでも一つずつ、三度目の小さな迷いが私に起こる。ノアが解蓋した断面を見せに来たとき、彼女の指先に微量の蜜が残っていた。私は無意識に手を伸ばし、それを布で拭おうとして止める。触れずに指示する。私は彼女の手元を、言葉で整える。


「布で拭いて。蝋は残すな。次の枠へ移る」


「……うん。わかりました」


 その返事の短さに、温度があった。私は背中に回しがちだった注意を、正面から言語化する。


「よくやっている。焦らないで」


 ノアの目が丸くなり、次いで小さく笑う。私は唇を結ぶ。褒め言葉は規律に触れない。だが、効果が大きすぎると、秩序が揺れる。私は自らの言葉の影響を、機械の回転音に紛れさせた。


 昼の鐘のあと、短い休憩が許される。蜜で固まった指先をぬるま湯で洗い、蝋の薄層が水面に踊るのを見た。私はたぶん、ノアの視線を背に感じていた。背に感じる視線は、蜂の警戒フェロモンよりも正確に、私の姿勢を正す。私はそれを有難いと感じる一方、依存の匂いを怖れる。秩序は、私的な欲求を針で突けば簡単に穴が開く。


 午後、雲が厚くなり、蜂場のざわめきが変わった。風が谷の向きを変えると、分蜂の兆しは誇張されることがある。私は巣箱を巡回し、No.7の巣門前に長く立った。群れの密度と温度、出入りの規則性。数字を拾い、ノアの足音を後ろに聞く。


「セラ」


 呼び止められ、振り返る。ノアが解蓋フォークを胸の前で握り、ためらいがちに差し出した。刃先に小さな蜜蝋。私はそれを受け取り、正しい場所へ置こうとして、一拍だけ手を止める。蝋は体温で柔らかくなり、形を失いかける。鍵のようにも見える。蜜蝋の鍵——私が考案した小道具。境界を溶かす象徴。私は短い逡巡ののち、蝋を作業台の隅へ置き、後で溶かして再利用の列へ滑らせた。象徴を実用に戻す。戻さねば、境界は本当に溶ける。


 夕刻、分離した蜜を濾過し終え、ラベルを貼る。ノアにペンを渡すと、彼女は震える字で「百花・薄色」と書いた。私はその語を標準語に整えたい衝動を抑える。「百花、浅色」。だが、彼女の言葉は味の記述として妥当だった。私は修正しない。ラベルは、味覚の記録でもある。二人の感じた言葉が混ざるなら、それは商品規格の範囲で許される。


 終礼。私は分蜂記録ノートに今日の「音」の欄を増設した。正式な項目ではない。だが、音で判断する技術を次代に渡すため、私的な工夫は必要だ。隅に「B7-UT-03:cap音良」と記す。ノアの視線がその略号を追う。意味はまだ伝えない。伝えないことが、今は秩序に利く。


 消灯前。私は、今日だけ私的な祈りを加えた。秩序に寄りかかるのではなく、秩序を背負う祈り。群れに必要な分離が、彼女にとって喪失ではなく配置であるように。蜂はやがて、蜜蓋で甘さを守る。その封を切るのは、いつも十分に熟してからだ。熟すまで待つ勇気を、私に。


* * *


(ノアの手記)


 今日、蜜蓋(みつぶた)を割る日。そう聞いただけで、胸がふわっと甘くなる。お菓子の包みを開けるみたい。いや、お菓子より大事。だって、蜂たちの“よし”の合図だから。


 納屋に入ると、機械がでんって座ってる。丸くて銀色。私の顔がぼんやり映る。変な顔。ふふって笑う。セラは怒らない。ただ工具をぴしっと並べて、歯のあるフォークみたいなやつを持って角度を見てる。セラの指はきれい。少し蜜で光ってて、ずるい。その光、私も欲しい。


「No.7、三枚目から」って言われて、「はい」って言う。温度を言う。「さんいち度」。セラがうなずく。そのうなずきが、私の背中をまっすぐにする。


 枠を固定。私は横で見てる。ぱりって音がした。小さい。なのに胸の真ん中に届く。薄い膜が割れる音。二回目はぱり、ぱりって続いた。雨みたい。紙でもなくて、ガラスでもない。はじめて聞くのに、ずっと知ってた音な気がして、目が熱くなる。変なの。


 セラは手を止めない。私は触らない。我慢する。今日は音を覚える日。セラがそう言ったから。口の中に唾がたまって、のみこむと、喉が鳴った。恥ずかしい。聞こえたかな。聞こえてないふりしてたらいいな。


 解蓋の欠片が、ちょこんって見える。きれい。セラがそれを取って、秤にちょんて乗せてから、私にくれた。なんで秤? と思ったけど、秤を通ると「お仕事の味見」って感じになる。ずるい。かっこいい。舌に置く。とろって溶ける。甘い。花の匂い。昨日のラベンダーも遠くにいる。セラを見たくなるけど、見たら怒られそうだから、見ないふりをして、でもちゃんと見てる。喉がごくんって動いたかどうか、知りたい。


「音、もう一回……」って言ったら、セラはうなずいて、反対側もぱりぱりって割った。私の耳の中で音が広がって、頭の中の地図にしみこんでいく。今日の“ぱり”は、ちょっと乾いた“ぱり”。きのうの雨上がりみたいな“ぱり”じゃない。私は勝手に名前をつける。「ぱり・からり」。へんな名前。でも、わかる。


 枠を二枚、三枚。銀色の大きな機械に入れる。回す前、セラが一拍止まる。その止まるのが好き。合図みたい。回しはじめると、ざあって音。雨の屋根。遠足の朝に聞いた雨の音。セラの指がちょいって回転を弱めたり強めたりするたび、音が変わる。私はその変わる場所を覚える。目じゃなく耳で。耳のなかに、丸い帯ができる。


 「雨みたい」って言ったら、セラは答えないで機械のふたに指を置いた。振動を感じてるんだと思う。かっこいい。私はまねして、机の脚に指を置く。びびびって震える。笑いそうになる。がまん。


 止まった。ふたを開ける。甘い匂いがぶわってくる。足の指まで甘くなる。黄金色が流れていく。すごい。私、しゃべれない。セラが淡々と仕事するのを見てるだけで、胸がいっぱい。ラベルを書くように言われる。手がぷるぷるして、字がふにゃってなる。「百花・薄色」って書いた。変かな。セラは直さない。へえ、って思う。直さない、ってことは、ちょっとだけ、私の感じ方をそのままにしてくれたってことだ。ふふ。


 お昼の前、手を洗う。ぬるい水。水面に蝋がふわって広がって、まるで花びら。私、指先の蝋を集めて、丸める。ちいさい鍵みたいになる。やわらかいから、押したらすぐ形が変わる。セラに見せたくて、でも怒られたらやだから、胸の前で握ってから、そっと差し出す。セラは受け取って、作業の列にぽいって滑らせる。再利用するやつ。ちょっとしょんぼり。でも、わかってる。仕事中だから。私の鍵は、あとでまた作ればいい。夜に。


 午後。雲が厚くなって、風の向きが変わる。蜂たちの音も変わる。私の耳でもわかる。セラは巣門の前で長く立つ。背中で風を見るみたいに。私はその背中のすきまに入りたくなる。入れない。代わりに、解蓋フォークをぎゅっと握って、「大丈夫?」って心の中で聞く。声に出さない。出したら、風に混ざってどこか行っちゃいそうで。


 夕方。蜜をこして、瓶に入れる。ラベルを貼る。セラが小さくメモを書く。英語みたいな、ラテン語みたいな略号。「B7-UT-03」。わからない。でも、好き。このしるしがあると、なんだか守られてる感じがする。私たちの合図みたい。言っちゃだめだけど。


 終礼。私は「今日の音」のことをノートに書きたい。でも正式じゃない気がして、ちいさく書く。「ぱり・からり・ざあ」。へんなのに、ちゃんと私にわかる言葉。セラのノートをちらっと見たら、ほんとに「音」の欄があった。びっくりした。セラも、音って書くんだ。にやにやしそうになる。がまん。


 夜。指に残った蜜の匂いを洗っても、ぜんぜん消えない。うれしい。ベッドで、今日の音をもう一回聞く稽古をする。ぱり。ぱり。ざあ。セラの喉がごくって鳴ったかどうか、そこだけは思い出せない。見なかったから。明日は見る。いや、見ない。ううん、ちょっとだけ見る。


 私は蜜蝋をこねて、また小さな鍵を作る。さっきより上手。鍵穴は胸の真ん中。そこにすっと入る。熱い。いい。スモーカー三回の合図を夢の中で待つ。まだ鳴らない。鳴らない音も、甘い。


 目を閉じる前、指でうなじの結び目をさわる。きゅ。きゅ。きゅ。今日の一日は、この結び目から始まって、この結び目で終わる。私は明日も結ばれる。結ばれたら、またぱりって音を聞ける。蜂たちは封をして、私たちは封を切る。甘いのは、中にいる。ふたりで、静かに、開ける。

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