第2話 王台
(セラの手記)
午前の鐘が鳴り終わると、谷の空気はすぐに蜂の羽音で満たされる。まだ太陽は斜面の向こうにあるが、蜂たちはもう巣門を出入りし始めていた。巣箱No.7。昨日よりざわめきが厚い。私はそれを「羽音の質」と記録用紙に書き込むが、本当は「不安の重さ」と呼びたい気持ちを押し殺す。観察者は形容を捨てるべきだ。数字と記録だけが、後から確かに残る。
私はノアとともに、蓋を外した。金具の硬さ。木の膨張。昨冬からの変化。指先が覚えている。ノアが少し息を呑んだ。蜂たちが外気の冷たさに反応し、一斉に体を震わせる。その音は厚く、重い合唱のように私の胸に乗った。
スモーカーを二度、穏やかに吐く。煙が白く漂い、ラベンダーの香りが蜂の警戒を沈めていく。ノアの肩の緊張もわずかに緩む。彼女は音に敏感だ。蜂場の沈黙を読む術を、もう覚え始めている。
私は巣枠を持ち上げる。蜜の重さが腕に伝わる。厚い房。その隙間に滑らかな突起。王台。女王の部屋。数える。ひとつ、ふたつ、三つ……。私は眉を寄せる。数が多すぎる。これは過剰だ。分蜂が近い。
「ここ……大きいです」
ノアが指先で示す。彼女の声は震えていない。だが、その目は私を捉えて離さない。私は頷く。
「今日は人工分蜂を考えなければならない」
私の声は、いつも通り、事実だけを告げる響きのはずだった。だが、喉の奥が乾いた。舌が言葉を拒む。
ノアが私を見上げた。
「……群れ、離れちゃうの?」
問いの形をしているが、これは質問ではない。彼女は答えを知っている。むしろ、答えを求めてなどいない。ただ、「いやだ」と言いたいのに言えないから、そのかわりに「群れ」と言ったのだ。
私は、頷くだけにとどめる。説明はしない。規律に従う。人工分蜂は必要だ。群れを守るために。蜜房の密度を下げ、新女王に居場所を与える。理屈は清潔だ。私はそれを幾度も繰り返し学び、従ってきた。
だが、頷いた瞬間、ノアの顔を正面から見られなかった。視線を王台に戻す。数字に戻る。秩序に戻る。
蜂のざわめきが耳にまとわりつく。分蜂の瞬間を私は知っている。ある高さの震えが混ざり、群れは一気に空へ舞い上がる。目が追いつかず、ただ空洞のような心臓を抱える数歩。私はその感覚に名前を与えない。名前を与えた瞬間、それは物語に変わり、秩序ではなく願望を生むからだ。
ノアはまだ私を見ている。彼女の瞳に映るのは「群れ」ではない。私自身だ。私はそれを知ってしまう。知らないふりを、繰り返す。
昼にかけて、私は作業記録を整えた。ノアが数字を写し取る。字はまだ幼い。だが、その幼さに安堵している自分がいる。未熟さは距離になる。距離があれば秩序は守れる。秩序が守られれば、私の立場は揺らがない。
しかし午後、空が曇り、群れがざわめきを増したとき、私は心の中で小さくつぶやいてしまった。「まだ離れないで」と。声には出さなかった。だが胸骨に残った響きは、記録用紙のどこにも書けなかった。
* * *
(ノアの手記)
羽音が大きい。昨日よりもっと大きい。胸の奥がびりびりする。巣箱の前に立つと、体じゅうがざわざわして落ち着かない。セラはいつも通りまっすぐ立ってる。かっこいい。ぜったいに怖くないみたい。私はすぐにわかる。強がってるんじゃなくて、本当に強いんだ。
蓋を開けたら、蜂たちがどーんって広がった。私は一歩下がっちゃったけど、すぐ戻る。セラの横だから大丈夫。スモーカーがふっと煙をはく。白くて、ラベンダーのにおい。あったかい。胸の冷たい石みたいなのが少しとけた。
フレームを持ち上げた。重い。腕がぷるぷるする。その中にあった。丸くて大きい房。普通のよりずっと大きい。まるでお姫さまのベッドみたい。私は指をさす。
「ここ……」
セラが数える。ひとつ、ふたつ、みっつ……。いっぱい。数が増えるたびに、私の胸がぎゅうぎゅうになっていく。なんでこんなにあるの。なんで。
「今日は人工分蜂を考える」
セラが言った。落ち着いた声。冷たいくらいまっすぐ。でも私はすぐ意味がわかった。群れを分ける。誰かが出ていく。離れちゃう。
「……群れ、離れちゃうの?」
本当は「セラ、離れちゃうの?」って言いたかった。でもそれはだめ。だから「群れ」って言った。言葉をすり替えただけ。心の中ではぜんぶ「いやだ」って叫んでる。
セラは頷くだけ。完璧な頷き。きれいすぎて、私から遠い。泣きたくなる。蜂たちの羽音は歌みたいなのに、私は声が出ない。
でも、結び目はうなじにある。セラが結んでくれた。まだきゅっと締まってる。ほどけてない。だから「大丈夫、大丈夫」って自分に言い聞かせる。言い聞かせないと、胸が壊れちゃう。
午後。雲が広がって、煙と空がまざって灰色になる。蜂たちがざわざわして落ちつかない。私は胸の奥で思う。「まだ行かないで。まだ離れないで」。祈りみたいに。声には出せないけど、蜂たちが聞いてくれる気がした。
夜。ノートに数字を書く。王台の数。位置。温度。ぜんぶならべて。字はぐらぐら。でも私は欄外にちっちゃく書いた。「セラ、息、ちょっと遅い」って。私だけの秘密。
ページの端に「B7-UT」ってしるしがあった。意味はわからない。でも見ただけで胸がきゅんとした。あまくて、痛くて、ぜったい忘れない感じ。私は蜜蝋をこねて、また小さな鍵を作った。へたくそでもいい。合う鍵穴はない。でも、胸に置けばぴったり合う。
私は思った。もし群れが離れても、もし女王が出ていっても、私はセラの結び目をほどかない。結んだままでいる。ずっと。
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