第1話 面布

(セラの手記)


 朝課の鐘が三度鳴り、谷に薄い羽音が流れ始める。夜露の重みを受けたハンノキの葉が、蜂場へ下りる細道に点々と暗い緑を落としている。私は納屋脇の作業台から面布と手甲を取り、結び紐のほつれが増えていないか、いつものように指先で撫でた。蜜蝋を薄くしみ込ませた布は、体温を移すと従順になる。規律は、柔らかさを味方にしたときにこそ、よく守られる。


 ノアが来る気配を、私は羽音より先に覚える。靴底が砂利に触れる音が軽い。まだ歩幅が季節に合っていない。春の斜面は、溜息のように崩れる場所があるのだ。私は彼女が転ばぬように、わざと肩を巣箱の影へ引く。気づかれない工夫をするのが、私の悪い癖だ。


「おはようございます、シスター・セラ」


 低く抑えた声。沈黙時間はすでに解かれているが、彼女は朝の空気を壊さないことを覚えつつある。私は頷き、面布を掲げた。ノアの髪は昨日より少し短い。襟足に残った切り口が、ふと、まだ決め切れていないものの匂いを運ぶ。


「今日はNo.7から始める。王台の確認、わかるね」


「はい。王台が多ければ——」


「分蜂の兆しだ。落ち着いて数えること」


 私は言葉より手順を先に示す。面布をノアの頭上から落とし、うなじで結び目を作る。標準の高さ。動脈の鼓動が紐に伝わらないよう、二本の指で均等に引く。気温の低い朝は、結び目が硬くなりがちだ。皮膚が引き攣れぬ程度に、しかしほどけぬように。ここでは、すべての「ちょうどよさ」が祈りの一部である。


 指先に、微かな甘さ。昨夕、蜜蓋を試すために割った欠片の残りが、面布の縁に乾きかけていたのだろう。私は拭うべきか思案し、やめる。余分は、次の手順で自然に落ちる。手を速くして秩序を乱すより、ゆっくり基準へ戻すのがよい。


 スモーカーに火を入れる。乾いた藁にラベンダーをひとつまみ。煙は白く、蜂たちの緊張を穏やかに解く。合図は一つだけ、ふっと吐く。ノアの肩が静まる。彼女は音に敏い。沈黙の質を、まるで蜜の等級のように嗅ぎ分ける。


 巣箱No.7の蓋に指をかける。蓋金具が、最近ほんの少し歪み始めた。冬越しの間に木が膨らんだのかもしれない。私の左手の焼き印——古い巣箱番号の痕が、金属の冷たさで疼く。開ける。羽音が重層的に立ち上がり、光の線が蜜房に浅く刺さる。私は内心の高鳴りを押さえ、王台の影を探す。ノアが私の呼吸に合わせて、フレームリフターを差し入れた。手順を覚えるのが早い。良いことだ。良いこと……のはずだ。


「ここ、王台、あります」


 彼女の指の先、滑らかな突起が幾つか並ぶ。私は数え、位置を記す。何も思わぬように、ただ数と位置、温度の偏り、働き蜂のざわめきの質だけを拾う。私は養蜂担当であり、誓願を終えた修道女であり、群れの管理者であり、——それ以上であってはならない。


「今日は人工分蜂を視野に。午後、天候が崩れなければ」


「……群れ、離れる、んですね」


 ノアの声は落ち着いている。だが言葉の継ぎ目が僅かに重い。私は頷きだけ返す。分けることは守ることだ。群れ全体の健康のために密度を下げ、新女王に居場所を与える。理屈は清潔だ。清潔なものは救う力がある。そう教わり、その通りにやってきた。


 それでも、分かたれる音を私は知っている。羽音の層の中に、ある一定の高さの震えが混じったとき、群れは空へ行く。姿が見えなくなり、目が追いつくまでの数歩、心臓が空洞になる。その感覚を私は個人的に名づけてはいけない。名づければ、そこに物語が生まれ、秩序ではなく願望が手順に混入する。私はそれを恐れている。


 作業は滑らかに続き、午前の光が斜面を上へ上へと移動させる。ノアは余計な質問をしない。ただ、私の動作を読む。読みすぎるのは、規律上、良くない。教える側の癖が、私の中で疼く。距離は指示の明快さになる。曖昧さは誤解になる。私は彼女から半歩分の空間を保つが、蓋を閉じるときだけ、同じタイミングで重さを受けるように指を添えた。共同作業のリズムであって、親密の合図ではない。違いは、私の中でだけ明白だ。


 納屋に戻る道すがら、ノアが面布の結び目に触れた。ほどけそうになっていないか確かめる、正しい仕草。私は「よく気づく」と言うつもりで、言わなかった。言葉は、ここでは衣服と同じだ。必要なときにだけ着る。私は代わりに、面布の端についた乾いた蜜を指で外し、彼女の掌に渡した。栄養価としては些細な欠片。規律としては作業上の廃棄物。だが、私の指に残った温度が、その欠片を一瞬だけ柔らかくし、ノアの掌でまた固まった。


 午後、雲が出たが、雨にはならなかった。人工分蜂は予定通り行い、女王を確保し、分けた群れが落ち着くのを見届ける。スモーカーの合図を二度鳴らして距離を保ち、三度鳴らして助けを求めることはなかった。——私は、求めなかった。求める必要がなかったから。そう結論づけたのは私だ。結果は正しい。手順は守られた。夕の祈りで唱和するラテン語が、胸骨の内側を清掃するように流れ、私はようやく安堵に寄りかかった。


 夜、分蜂記録ノートに今日の日付を書き、王台の数と位置を写経のように清書する。ペン先が紙を擦る音がやわらかい。ノアの字はまだ揺れるが、褪せない。私はページの隅に小さな記しをつけた。「B7-UT」。巣箱7の略号と、私だけが意味を知る二文字。規律に触れない範囲の、私的な印。そこに寄りかかる弱さを、私は今夜に限って、許す。


 灯りを落とす前、私は手甲の焼き印を指でなぞり、掌の蜜蝋の匂いを吸う。蜂たちは静かだ。谷は静かだ。私も静かだ。静かであることが正しい。正しいはずだ。そう繰り返すうち、紐の結び目を結ぶ手の感覚——うなじの温度、呼気の速さ、掌に移った欠片の重み——が、祈りの最後の語尾みたいに、長く尾を引いた。


* * *


(ノアの手記)


 朝は冷たい。ひゅうって胸の奥まで風が入る。少し痛いけど、それが好き。目がさめるから。砂利の道を歩くと、じゃり、じゃりって音がする。セラがもうそこにいる。背中がまっすぐで、ぜんぶ整ってて、まるで教科書みたい。指で面布の端をなぞってる。毎朝そうする。ほんの少しずつ違うのに、同じに見える。私はそれを見るのが好き。昨日との違いを見つけるのが、宝探しみたいだから。


「おはようございます、シスター・セラ」

 声は小さく。大きくすると朝の空気が割れちゃう。セラが頷く。面布を持ち上げる。


 頭に布が落ちてくる瞬間が好き。暗くなるけど、すぐ光が透けてくる。白い布。牛乳より白くて、でもほんのりあったかい白。私は目を閉じて、うなじに指が来るのを待つ。ちょっと冷たい。ひやってする。でも逃げない。むしろ、もう一度来てって思う。ぎゅって結ばれると、ああ、今日も始まるんだって胸が鳴る。


 くん、と甘い匂いがする。蜜だ。昨日のだと思う。小さな残り。指の先に光って、セラの動きが一瞬止まる。私はそれを見逃さない。心の中でにやって笑う。声は出さない。沈黙の時間じゃないけど、黙ってる方が楽しい。目で話すのが好きだから。


 セラがスモーカーをふっと吹く。煙が白くて、ラベンダーのにおいがする。あったかい。胸の中のつめたい粒が少しとける。私は匂いの中でセラの呼吸を数える。いち、に、さん。落ち着いてる。けど、王台の話をするときだけ、少し呼吸が遅れる。ぜったいそう。私は「ほら」と思って胸の奥でにやり。


 巣箱No.7。私の中では「私たちの巣箱」。でも口に出したら、たぶんだめ。だから思うだけ。蓋を開けると羽音がどんって押してくる。体中にぶわっとひろがる。セラが肩で受けとめてる。その背中がかっこよすぎて、ずるい。私は王台を見つけて指差す。セラが数える。私は数字なんてどうでもよくて、声の響きだけ聞いてる。冷たい声じゃない。少し揺れてる。


「……群れ、離れる、んですね」

 私はつぶやく。ほんとは質問じゃなくて、「いやだ」って意味。でも言えない。セラはただ頷く。完璧な頷き。きっちりしてて、私から半歩遠い。遠い遠い。けど、遠いのに、結び目は私のうなじにある。結ばれてる。なら、いいじゃない。って思い込む。


 午前の作業が流れていく。私は何も言わない。言わない代わりに、セラの手を見てる。フレームを持つとき、指がふるえた。ちょっとだけ。寒いせい? それとも……私のせい? 私は勝手に「私のせい」って決めて胸をぎゅうぎゅうにする。


 戻るとき、私は面布の結び目に指をあてる。ほんとはほどけてない。でも、もう一回結んでもらえるかなって思って。セラは言葉を言わないで、蜜の欠片を外してくれた。それを私の掌にのせる。小さい。なのに重い。体温でちょっとやわらかくなって、また固まる。私の中で「鍵」みたいになる。私だけが持ってる小さな鍵。どこに差すんだろう。たぶんセラに。


 午後。人工分蜂。雲が広がる。煙と空がいっしょになって灰色になる。セラがスモーカーを二度鳴らす。「来ないで」って意味。私は止まる。三度は鳴らなかった。「助けて」はなかった。だから私はただ見てる。見てるだけ。役に立てなかった? でも邪魔でもなかった。私はその真ん中で凍ってる。足が冷たい。


 夕方。祈りのラテン語。みんな声を揃えてる。私は声を出しながら、胸の中の蜜を隠す。祈りの水で洗っても、蜜の匂いだけは消えない。残ってる。こっそり甘い。


 夜。ノートを開く。字はぐらぐら。まっすぐ立たない。でも今日の数字はちゃんと並んだ。王台の数。場所。温度。ざわめき。私はこっそり「セラの息の遅れ」を欄外に書く。規律じゃないけど、大事だから。ページの端に「B7-UT」って印があった。意味はわからない。けど見た瞬間、胸がきゅうっと痛くて、でも甘い。甘い痛みは、蜂蜜より長く残る。


 消灯前。蜜蝋をこねて小さな鍵を作る。へたっぴな形。でもいい。私の鍵。合う鍵穴はまだない。でも、胸に置いたらすぐ合った。夢の中でスモーカー三回の合図を練習する。鳴らない。でも鳴らない音も好き。


 眠る前、結び目の感覚を思い出す。今日の一日は、結び目を中心にぐるぐる回った。明日もきっと同じ。セラが結ぶ。私は結ばれる。結ばれたら、もう迷子にならない。私は明日もここにいる。

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