第4話 巣落ち
(セラの手記)
七月半ばの午後、気温は三五度を越えていた。谷を下りる風は乾いているが、蜂場の巣箱内部は別だ。蜜で充満した巣板は、外気温と群れの発熱でやがて支えきれなくなる。重さに耐えかねて、板が落ちる。それを「巣落ち」と呼ぶ。
私は午前から不穏を感じていた。No.7の巣門の出入りは規則を崩し、群れの動きに揺れがあった。ノアは「今日は羽音が重い」と言った。私も同意したかったが、言葉を抑えた。観察者は数値に依るべきだ。私は温度計を差し込み、三九度を見た。蜂児の限界に近い。
夕刻、蜂場を巡回中、箱の中で鈍い音がした。板が崩れる低い響き。私はすぐに蓋を開け、内部の状態を確認した。蜜が滴り、蜂が動揺して乱舞していた。私はスモーカーを三度強く吹いた。合図。助けを求める。
ノアが走って来た。私は手短に指示する。「冷却を優先。蓋を外し、布を濡らして掛ける。水を多めに」
私たちは手順に従った。だが夜になっても群れの動揺は収まらず、作業は続いた。蝋の破片を拾い、蜂児を救い出し、蜜を布で拭う。ノアの額から汗が滴り、蝋に落ちて白い斑点を作った。
深夜、私は気付いた。私は規律を守りながらも、言葉が多くなっている。「急がなくていい」「そこは押さえて」「君はよくやっている」。これらは指示の体を取っているが、実際は慰めだった。
ノアが一瞬だけ手を止めた。蜂児をそっと置きながら、私を見た。目の奥に、感謝と、それ以上の何かがあった。私は耐えられず、言った。
「私はもう、群れを失いたくない」
それは祈りではなかった。懇願だった。秩序の外の言葉。私は自覚しながらも口を閉じられなかった。
ノアは何も答えず、ただ手を動かし続けた。救い出された蜂児が小さく震え、群れの奥へ戻るのを見ながら、私は自分の声の残響に耳を澄ました。
夜明け。群れはようやく静まった。巣落ちは完全には防げなかったが、多くを救えた。私は全身に疲労を抱え、記録ノートに「巣落ち・部分救済」と書いた。その横に、小さく印を加えた。「B7-UT-夜」。
ノアは隣で眠そうに目を擦りながら、蝋を丸めて小さな塊にしていた。私はそれを見ないふりをした。境界を越える象徴を、見れば心が揺れる。だが、心はすでに揺れていた。
* * *
(ノアの手記)
昼から暑かった。胸の中まで熱くなるくらい。蜂たちの音もいつもと違った。ごうごうしてて、重たい。私は「羽音が重い」って言った。セラは返事しなかったけど、温度計を見て眉を寄せた。三九度。わたしでも数字のやばさがわかる。
夕方、箱の中からどすんって音がした。心臓が落ちたみたいな音。セラがすぐ蓋を開けた。蜜がだらだら落ちて、蜂がばらばらに飛んだ。私、泣きそう。でも泣いてる場合じゃない。セラがスモーカーを三回ぶしゅって吐いた。助けての合図。
私は走った。布を水に浸して持ってきた。セラが「冷やして」って短く言う。私は必死で布を広げ、箱の上にかけた。蜂が私の腕に止まって、ちくってした。でも逃げなかった。セラが横にいるから。
夜になっても蜂たちは落ち着かない。蜜が床にぺたりぺたり落ちる。私は布で拭う。手がべたべた。汗もべたべた。全部混ざって甘い匂い。気持ち悪いのに、嫌じゃない。セラの匂いも混ざってる気がしたから。
セラはいっぱい話した。いつもより。急がなくていい、とか、押さえて、とか、よくやってる、とか。言葉がやさしすぎて、逆に泣きそうになる。ほんとは私がセラに言いたいのに。よくやってる、って。
蜂児をそっとつまんで巣の奥に戻してるとき、セラが言った。
「私はもう、群れを失いたくない」
びっくりした。耳が熱くなった。胸がどんって鳴った。失いたくないって、群れのこと? それとも……。考えちゃいけない。考えたら、だめ。でも、だめって思うほど、考えちゃう。
私は答えなかった。だって、答えたら全部ばれちゃう。だから手を動かした。ずっと動かした。指が痛くなるまで。
朝が来た。空が青くなったころ、蜂たちがやっと静かになった。私はふらふら。目がとろんとする。セラはノートに字を書いてた。「巣落ち・部分救済」。その横に、ちっちゃく印を書いた。私は盗み見た。「B7-UT-夜」。よくわからない。でも、夜ってついてるのがうれしかった。私たちが一緒に過ごした夜、ってことだから。
私は蝋のかけらを丸めて、また小さな鍵を作った。眠くて、手が震えて、ぐにゃってなった。でもいい。私はそれをポケットに入れて、こっそりにぎった。合図みたいに。スモーカー三回。セラがほんとに鳴らしたら、私は全部言う。まだ鳴らないけど、待つ。待つ時間も、鍵のかたちになる。
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