わたしの葛藤
「花ちゃん」
「おひさしぶりです」
予定どおり、一度東京に戻って一息ついたあと、わたしは、どうしても会っておきたかった菜乃子さんに連絡を取って、なつかしい亮太郎の実家を訪れていた。
「花ちゃんが連絡してきてくれるなんて、わたし……」
気丈な菜乃子さんが、ぽろぽろと涙をこぼす。わたしも、菜乃子さんのことが大好きだった。
「ごめんなさい、花ちゃん……あがってね。どうぞ」
「おじゃまします」
何ヶ月ぶりになるんだろう? 以前のままの雰囲気のリビングのソファに、腰かけた。
「くるみさん、赤ちゃんは順調そうですか?」
「……うん。そう聞いてる」
「そっか。よかった」
それは、本心だった。響くんとのことがなくても、同じ思いだったはず。
「紅茶と……これ、今焼いた柚子のシフォンケーキなんだけど、食べられる?」
わたしを気遣いながら、美味しそうなケーキが載ったトレイを運んできてくれる、菜乃子さん。
「いただきます。わたしが柚子好きだったこと、覚えてもらえていて、うれしいです」
「忘れるわけないじゃない。花ちゃんのことなら、何でも覚えてる」
わたしも、涙をこらえるだけで精一杯だけど、ちゃんと報告しなくちゃ。早く、菜乃子さんに安心してもらいたい。
「そうだ。何か、わたしに話があるのよね?」
「はい。もう一度、わたしも結婚することになりました」
「あ……そう、なの?」
また、菜乃子さんが泣き出しそうな表情になった。安心したというよりは、寂しそうな。
「そうよ……うん。そう、そうよね。花ちゃんは、花ちゃんの幸せを見つけなきゃね。どんな人なの?」
「水沢 花、になります」
「水沢? もしかして、響くんなの?」
「はい」
しっかりと、うなずいた。一瞬、目を見張ったあと。
「そう……そっか」
納得したように、菜乃子さんが優しく微笑んでくれる。
「菜乃子さんのおかげかもしれません」
「わたしの……?」
「はい。わたし、響くんが外食ばかりだっていう話を聞いて、菜乃子さんに教わったお料理、たくさん作ってあげたんです。そのおかげかもなって。それで、また教えてもらえませんか? もちろん、平日の亮太郎のいない時間に。何回通えるかは、わからないけど」
「花ちゃん……」
「菜乃子さんと親子にはなれなくなっちゃったけど、先生と生徒の関係で。たまには、親も交えた親睦会なんかも」
わたしに対してはもちろん、菜乃子さんがお父さんとお母さんに抱いている罪悪感の大きさは、ずっと感じてきた。どうか、楽になってほしい。
「ありがとう……ありがとう、花ちゃん」
菜乃子さんが亮太郎のお父さんをどんなに愛しているかは、よく知ってる。でも、わたしのお父さんへの特別な気持ちも、前以上にわかる。愛しいと思う感情の種類は、ひとつじゃない。
「お礼を言われるようなことじゃないです。でも、ひとつだけ、お願いがあって」
「お願い?」
少し改まって、菜乃子さんがわたしを見る。
「響くんのこと、嫌わないであげてほしいんです」
昔、いろいろあったのは想像できるけれど。
「そんなこと」
菜乃子さんが、今日初めて、力を抜いた笑顔を見せる。
「当たり前じゃない。花ちゃんを幸せにしてくれる人だもの。嫌いでいられるわけがない」
「うれしいです。ありがとうございます」
菜乃子さんの優しさも、わたしは忘れない。
「本当に、よかった……花ちゃんがずっと慕っていた、響くんで。うん。年齢も何も関係ないと思う」
「はい。わたし、幸せになります」
力強く言いきった。菜乃子さんのためにも、亮太郎のためにも。
「そうはいっても、まだ信じられないけど……でも、花ちゃんが亮太郎と結婚してくれる前に、
「え……?」
と、そこで。
「あら? 誰かしら」
部屋に鳴り響いた、来客を知らせるインターホンの音。
「ごめんなさいね。ちょっと待っててね」
「はい」
一度、息をついた。さっきの話……それは、当然ながら、亮太郎のお父さんは、響くんがわたしのお母さんを好きだったことを知っているからだよね。やっぱり、わたしとお母さんは、似てるところがあるということなのかな。だから、そんなふうに?
「えっ? どうして、今なの?」
「…………?」
動揺しているようすの菜乃子さんの声で、我に返った。
「じゃあ、そこで待ってて。すぐに持って行くから」
明らかに、わたしの方を気にしながら、インターホン越しの相手と会話をしている。間違いない。今、この家の前にいるのは、亮太郎だ。
「亮太郎、ですか?」
「……バカね、あの子。昨日、携帯の充電器を忘れていったのよ。今日は、仕事が半休だったらしくて」
再び、菜乃子さんの顔が泣きそうに歪む。
「ごめんね。今、亮太郎に渡しに……」
「わたしが行って、いいですか?」
「え……?」
「亮太郎にも、わたしの口から伝えたいです。響くんのこと」
「花ちゃん……」
あの日、わたしの背中を押してくれたっけ。わたしが自分の荷物を引き取りに行った、最後の日。
「亮太郎と少し話して、今日は帰ります。充電器、ありますか?」
今はただ、亮太郎の元気な姿が見たい。
「何かあった? 誰か来てるの?」
ドアを開けた瞬間、耳に入ってきた、なつかしい声。
「ひさしぶり、亮太郎。はい、充電器」
「は、な……?」
言葉どおり、目を丸くして、固まってしまった亮太郎。
「元気そうだね、亮太郎。わたしも元気だよ」
無言で充電器を受け取ると、わたしの顔を見つめる。
「花」
わたしに触れようとして、思い止まったのがわかった。
「赤ちゃん、順調なんだって?」
「……うん」
「そんな顔しないで、亮太郎」
まるで、さっきの菜乃子さんみたいな表情で、わたしまで泣きそうになる。
「強がりじゃないよ。わたしね、ちゃんと幸せなの」
冷静になって、亮太郎にもわかったんだろう。原野さんの前で、わたしが亮太郎は響くんの身代わりだったと言ったのが、本心じゃなかったこと。
「だけど、こんな……」
亮太郎が心配そうなのも、無理はない。体調は回復したものの、体重の方は、まだ半分くらいしか戻っていないから。
「あのね、亮太郎が最後に言ってくれたこと、実現したの」
「え?」
亮太郎が、大きく目を見開く。
「わたし、響くんと結婚す……」
「花……!」
言いきる前に、亮太郎に強い力で抱きしめられて、遮られた。
「そっか。よかった……よかったね、花」
「痛いよ、亮太郎。苦しいってば」
笑いながら、わたしの目からも涙が流れる。
「花がいなくなってから、後悔しかなかった。全部俺が悪いんだから、当然なんだけど」
「ううん。それは違うよ」
わたしのお父さんも言ってたように、どちらかだけが悪いわけじゃない。
「弱音を吐ける立場じゃないのは、わかってる。それでも、つらかった。花を傷つけながら、原野さんといる意味が見出だせなくなって。生まれてくる子のために自分を殺して、原野さんに愛情を持ってるふりをして」
「亮太郎……」
そこまで考えていなかった。とっくに、原野さんと新しい道を歩いていると思っていて。
「ごめん。こんなこと、言うつもりなかったのに……でも、花に救ってもらえた」
「え……?」
亮太郎の腕を解いて、亮太郎の顔を見上げた。
「響くんのこと、花がどれだけ本気で想い続けてきたか、知ってるもん。今回のことで、花が響くんと結ばれたんなら、俺は……」
そこで、言葉を詰まらせる、亮太郎。
「亮太郎?」
「これで、よかったんだって。いつか、そう思えるようになるっていう、希望が見えたから」
「……うん」
ありがとう、亮太郎。亮太郎がわたしのことを大切に考えてくれていたのがわかって、うれしかったよ。
「可愛がってあげなよ、お腹の中の赤ちゃん。亮太郎の子だったら、可愛いに決まってるんだから」
「花、俺……ずっと、花のこと、好きだよ」
「わたしだって。何があっても亮太郎を嫌いになることはないし、亮太郎のためにできることがあれば、何でもするよ」
今になってみると、わたしの本当の意味での初恋の人が亮太郎だったんじゃないかと思う。
「花にとっての響くんが、俺にとっての花なんだ、きっと。幸せになって、花。自信持って」
「うん。亮太郎も」
わたしも妊娠していたこと、亮太郎に伝えておけばよかったと後悔した時期もあったけれど、わたしの選択は間違っていなかった。だって、会わないでいたって、こんなにもお互いを思いやれていたんだから。
「ただいま」
菜乃子さんにも亮太郎にも、会えてよかった。またひとつ、心が軽くなったような気持ち。お母さんに菜乃子さんと亮太郎に会ったことを話そうか、どうしようかと迷いながら、リビングのドアを開けようとしたんだけれど。
「そうなの。今、出かけてる。もうすぐ帰ってくると思うよ。響くんは休憩中?」
お母さんが、わたしが帰ってきたことに気づかないで、響くんと電話で話している。そういえば、わたしの携帯、電源が切れちゃっていたっけ。なんとなく、ようすをうかがってしまう。
「うん。帰ってきたら、電話するように伝え……あ、響くん!」
切り際に、何かを思いついたように声を上げた、お母さん。
「や、あの……逃げないでくれて、ありがとう。それ、ずっと言いたかったの。うん。それじゃあ」
…………。
何? 今の。“ 逃げないでくれて、ありがとう”?
「あれ? 花、帰ってたの?」
ドアを開けて、脳天気な調子で声をかけてきた、お母さん。
「今、響くんと話してたの。花の携帯、つながらなかったから、すぐに電話してほしいって。花の予定を確認したかったみた……」
「疲れてるの。休ませて」
「えっ? 花?」
お母さんの顔を見ないように、自分の部屋に直行して、鍵を閉めた。いくら、お母さんだって……ううん。お母さんだからこそ、さっきの言葉は我慢できない。
なんで、お母さんが、あんなことを言うの? 同じことでも、お父さんが言うのとは訳が違う。お母さんを嫌いになりたくないのに ――—――。
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