わたしのわがまま
「……ごちそうさまでした」
「えっ? もう? 花、里芋のグラタン、好きじゃなかったっけ」
「食欲なくて」
夕食に一口だけ手をつけて、席を立った。
「そっか。まあ、無理はしない方がね」
気にしていないようすで、お母さんが食器を下げてくれたけれど、お母さんの言動のひとつひとつが気に障って、もやもやする。
「マリッジブルーだろ? 幸せすぎて」
相変わらず、お父さんは的外れだし。
「たしかに……! こっちに住んでもらえるなんて、びっくりしたよね」
「考えてみたら、響がずっと名古屋にいる理由もないしな」
ちょっと前に、響くんがわたしの携帯に電話してきてくれた。用件は、お母さんとお父さんが今話していること。これを機会に、響くんは東京に勤務先を移して、うちの沿線で住むところを探すつもりだという。
もちろん、わたしのことを考えてくれてだとわかってはいるけれど、わたし自身は、あの名古屋のマンションで生活することを楽しみにしていた矢先だったから、細かい内容がよく頭に入ってこなかった。
「とりあえず、週末に来るんだろ? 響」
「そうみたいだよ。よかったね、花……どうしたの? やっぱり、気分悪い?」
反応を返さないでいたら、お母さんに顔をのぞき込まれた。
「べつに」
「あ、花……」
お母さんと同じ場にいたくない。リビングを後にして、自分の部屋に引っ込む。わたしは幸せなはずなのに、どうして、こんなふうになっちゃうんだろう?
数分後。
「花」
ドアをノックして、部屋に入ってきたのは、お父さん。
「何やってるんだよ? 璃子に当たるなんて、大人げない」
「お母さんは?」
「おまえが食べられそうなもの、買ってくるって。どうせ、本の立ち読みやら何やらで、遅くなると思うけど」
「そう」
お母さんは、ずるい。そういう、何も考えていない行動のひとつひとつが、響くんに気に入られるんだから。
「聞いていい? お父さん」
「聞かない方がいいと言っても、聞くんだろ? どうせ」
あきらめ口調で、お父さんが床に腰を下ろす。
「響くんがお母さんを好きだったこと、お母さんは知ってるの?」
「一応、知ってはいるだろうな」
「響くん、お母さんに告白したことあるの?」
「あるよ。多分、一回じゃない。二回か、三回か」
「そうなんだ……」
それなのに、お母さんは、あんな態度を響くんに取ってきてたの?
「昔の話だよ。いらぬ想像をふくらませないように、教えたけど」
わたしが高校一年生くらいのときまで、響くんのお母さんへの対応だけが、意地悪で冷たいように思えた。それに、お母さんもそれを気にしているように見えたから、わたしはよく、お母さんをかばったり、なぐさめたりしていた。バカみたい。
「手に入ったとたん、不安になってるのか? おまえと結婚するなんて、相当な
「だって……!」
比べちゃいけないなんて、わかっている。わかっていても、比べてしまう。ずっと響くんに想われ続けていた、お母さんと……優しさで責任を取ってもらう、わたし。
「だいたい、お母さんもお母さんだよ。あんな、あいまいな態度」
「しょうがないんだよ、あれは。俺のことが好きすぎて、響が自分のことを好きだったなんて、頭から抜けてるんだから」
そんなこと、真顔で言われても。
「とにかく、おまえが考えてることは全部、響に直接話せよ。その方が話がこじれない」
お父さんは、そんなふうに言うけれど、そんな簡単なものじゃない。
「そうはいっても、お父さんだって」
と、そのとき。
「ただいまー」
玄関から、お母さんののんきな声。
「いいな? 璃子のことがわりきれないなら、響は無理だよ。前向きに考えろ」
「前向きって」
「あれ? めずらしい。遊佐くんもここにいたの? 花、苺買ってきたよ。食べない?」
お父さんが勝手に話を打ち切ったタイミングで、お母さんがわたしの部屋のドアを開けた。
「ありがとう。食べる」
「よかった。じゃあ、洗っておくね」
楽しそうに鼻歌を歌いながら、お母さんがキッチンに向かう。お父さんも、わたしの頭を軽く撫でて、部屋を出て行った。
今、お母さんに素直に対応したのは、あのときのことを思い出したから。菜乃子さんが入院して、お父さんの余裕がなくなったとき、お母さんのためだけに駆けつけた響くんのことを。
「響くん……!」
待ちに待った週末。新幹線の改札で、すぐに響くんを見つけて、駆け寄った。
「花」
特に以前と変わらない、響くんっぽい笑顔。
「会いたかったよ、響くん」
わたしから、響くんの手を握って、普通電車のホームの方へ歩き出す。
「まず、物件の相談に行く? それから、類と璃子を呼んで……」
「ううん」
あわてて、首を振る。
「新宿に泊まるんでしょ? 響くんの荷物、先にホテルに置きに行っちゃお? わたし、ちょっと疲れちゃったし」
お母さんに会う前に、響くんとふたりきりになりたいの。
「疲れた? わかった。まだ時間はあるし、少し休んでから出かければいいよ」
響くんがそう言ってくれたから、安心して、わたしは響くんの手をギュッと握った。
「わあ。高い」
響くんが取っていたホテルの部屋に着くと、窓の外を見下ろして、思わず声を上げる。
「ね、響くん。うちのマンションも見えそう」
と、はしゃいでしまっていたことに気づいて、口をつぐんだ。こんな子どもみたいに振るまっていたら、そういう雰囲気に持っていけない。
「何かあった? いや、何があった?」
「どうして?」
「今日は、いつもの花と違う。会ったときから」
「そんなことないよ」
笑って、ソファに座っていた響くんの隣に、ぴったりとくっついた。まだ、時間に余裕はある。
「ねえ、響くん。出る前に……」
「花の不安は、こんなことで解決するの?」
「え……?」
そういう雰囲気になるどころか、冷静すぎる響くんの反応に固まった。
「この前の電話のときも上の空だったし。ピアノは? 弾いてる?」
「弾いてる……けど」
いたたまれない気持ちで、小さな声で答える。本当は、お母さんのあの発言を聞いてから、ピアノに集中できるような精神状態じゃなかった。
「言ってみなよ。何を聞いても、あきれないから」
「……どうしたら」
「ん?」
響くんが、わたしの口元に耳を寄せる。
「どうしたら、響くんは……お母さんよりも、わたしを好きになってくれる?」
「え?」
響くんが、眉を寄せた。
「響くんがわたしと結婚してくれるのは、わたしの中に、お母さんみたいなところがあるからじゃないよね? そうじゃないこと、お母さんに知ってもらいたいの。わたしの方が……」
「花」
明らかに、あきれた表情で、響くんに遮られた。さっき、言ってくれたのに。何を聞いても、あきれないって。
「比べたことないよ、花と璃子なんて。だいたい、それを璃子に知ってもらうって、何の意味があるの?」
「じゃあ、今答えて。お母さんより、わたしの方が好き?」
「そんな薄っぺらい言葉が聞きたい?」
「薄っぺらくてもいいよ。だから、言って。お願い、響くん」
お父さんに忠告されたように、前向きに考えるなんて、わたしには無理。今日だって、これから、一緒にお母さんにも会うのに。
「意味がないよ」
当然ながら、響くんは、そんな言葉を口にしてくれるわけはなくて。
「じゃあ、響くん」
「何?」
「わたしに……」
お母さんに会う前に、とにかく今すぐ抱いてほしいとお願いしても、もっとあきれて、冷められちゃうんだろうな。だったら。
「わたしにも、ピアノを弾いて。お母さんみたいに」
何でもいいから、優しさ以外のわたしへの気持ちを、かたちにしてほしい。
「俺が、そんな考えのないことをするような人間に見える?」
「だって……」
じゃあ、わたしのこの不安は、どうしたらいいの?
「花! 響くん!」
いつもどおり、元気のいい、お母さんの声。結局、響くんに泣いているのをなだめられているうちに眠ってしまっていて、起こされたときには、お父さんとお母さんとの約束の時間になっていた。
「住むところの話、進んだ?」
「……ううん。休ませてもらってた」
我ながら、情けなくて、涙が出そう。緊張のせいで、昨日の夜はよく眠れなかったのもあるけれど、体調もまだ完全に戻ったわけじゃなくて。
「お母さん、お腹空いちゃった。花、何が食べたい?」
無邪気に、お母さんがわたしに聞いてくる。こうしている間も、響くんの目を気にしてしまう。
「お母さん、代々木のカンボジア料理の店が気になるって、ずっと前から言ってたよね。ひさしぶりに、わたしも行きたい」
「本当? うれしい……!」
言葉どおり、うれしそうに飛び跳ねる、お母さん。大丈夫だよ、響くん。わたしは、お母さんを困らせたりしないから。
「まあ、こんなところか」
お父さんが息をついて、テーブルの上にペンを置いた。料理を食べながら、今日決めた内容は、式代わりの食事会に出席してもらう人数や、場所の候補。
「悪いな。こっちに合わせてもらう感じになって」
「いいよ。派手にやるつもりもなかったし、俺も助かる」
「……ごめんね、響くん」
響くんのご両親は、ちゃんとした式を挙げてほしいはずなのに、わたしが二度目の式を挙げる気持ちにはなれなくて、申し訳ない。
「食事会か……緊張して、
緊張するというわりには、のんきそうなお母さん。
「べつに、結婚する相手は璃子じゃないからね。花なら、何の問題もないよ」
「そっか、たしかに……! 花なら、大丈夫だよね。初対面受けの完璧な、遊佐くんの血を引いてるんだもん」
「類、璃子の両親と会ったとき、お茶ひっくり返したとか言ってなかったっけ?」
「あ。そういえば、そうだったかも」
「そんな話、響にしてたのかよ?」
目の前の会話に、思うように反応できない。楽しい気分になれないまま、時間が過ぎていく。今日はこのまま、響くんと別れなくちゃいけないの? 明日こそは物件の相談にも行かなきゃいけないし、二人だけで話す時間すら……と、そのとき。
「そうだ。響」
調子を変えて、お父さんが口を開いた。
「このあと、花をそっちに泊めてやってほしいんだけど」
「えっ?」
思わず、声を上げた。
「いいの? お父さん」
やっぱり、お父さんは、わたしの気持ちをわかってくれる。籍を入れるまでは、おおっぴらには許してもらえないと思っていたのに。
「お父さん、ありが……」
お父さんの気遣いに最大限に感謝して、お礼を言いかけたんだけれど。
「いや」
途中で、響くんに遮られた。
「たまには、類と飲みたい。今日は璃子と帰ってて、花」
「え……?」
続く響くんの予想外の言葉に、固まった。
「あ? そうか?」
響くん大好きなお父さんはといえば、一瞬の迷いを見せたものの、うれしそうに顔をほころばせて、店を出る仕度を始めている。
「会計は、俺と響で済ませておくから」
「悪いね、花も璃子も。気をつけて」
「待って……」
引き止める間もなく、響くんとお父さんは席を立って、出て行ってしまった。どうして? 響くん。
「たしかに、ひさしぶりかもね。お父さんと響くんだけで飲みに行くの。あ。お母さんと花も、どこかで飲んで帰ろっか」
お母さんも、わたしの気持ちなんかおかまいなしに、そんなのんきな提案をしてくる。
「そうだ! 駅の反対側にね、面白そうなロックバーが……」
「お母さん」
やっぱり、このままにはしておけない。
「この前、わたしが出かけてたとき、響くんに電話で言ってたでしょ? 逃げないでくれて、ありがとうって。あれ、どういう意味?」
お母さんのこと、大好きだったのに。お母さんだけは何があっても味方だって、信頼していたのに。響くんに、あんな言い方をするなんて、見損なったよ。
「逃げないで……? ああ、あのとき!」
ここで、しらばっくれられたりしたら、人間不信にもなりかねないと思っていたんだけれど、お母さんは素直に反応した。
「覚えてる?」
「うん。思い出したよ。ごめん……あれ、聞いちゃってたんだね。でも、多分、花が思ってることとは違う」
それに、ごまかすために、言い訳を考えている感じでもない。
「あれは、その……昔の話なんだけど」
「いつぐらいの話?」
「あのね、お母さんとお父さんが結婚する、ちょっと前」
「じゃあ、響くんが沙羅さんとつき合ってた頃?」
「沙羅ちゃんとのこと、知ってたんだね」
少し安心したようすで、お母さんが続ける。
「そう、沙羅ちゃんと別れちゃったときの話。響くんに別れた理由を聞いたら、沙羅ちゃんと加瀬くんが兄妹だったり、その加瀬くんと菜乃子ちゃんが結婚して、菜乃子ちゃんも遊佐くんとつき合ってたとか、そういう狭い世界にいるのが嫌になって……抜け出したくなったって。そう言われたのが、ずっと頭の隅に残ってたの」
「響くん、そんなふうに言ったの?」
ショックだったんだろうな、お母さん。今、わたしも、軽くショックを受けている。わたしと響くんを取り巻く関係まで、全て否定されたようで。
「でもね、響くん、そのあとに言ってた。お母さんやお父さんの世界が狭いんじゃなくって、ずっとその中にいた響くんの世界が狭いってことを言いたかったんだって。わたしには違いがよくわからなかったんだけど」
そう言った響くんの感覚、わたしにはわかった。
「それがあったから、花が本当に響くんのことを好きだと気づいたときから、考えてた。なんで、よりによって、わたしと遊佐くんの間に花は生まれてきちゃったんだろうって。せめて、年齢だけでも、高校生くらいのときに花を産めてたらって」
「……高校生で産んでたら、大変だよ」
聞いていて、わかる。お父さんの言ったとおり、響くんがお母さんを好きだったなんて、頭にないどころか、お母さんの記憶から抜けている。
「わかった。ごめんね、お母さん。なんか、誤解しちゃってた」
そういう特殊すぎる状況から逃げ出さないで、わたしを受け入れてくれたことに対しての『ありがとう』だったんだ。わたしが勝手に思い違いをしちゃって、お母さんに当たっていただけだ。
「ううん。だから、なおさら、うれしかったんだよ。そんな響くんが花を選んでくれたこと」
「でも……」
そのとき、お母さんの携帯に着信音。
「あ、待ってて……! 遊佐くんだ」
毎日一緒にいるくせに、かけてきたのがお父さんだとわかっただけで、うれしそうに目を輝かせている、お母さん。
「はい。あ、そうなの? うん……そっか。わかった」
「何だって?」
なんとなく、最後の方のトーンが下がっていたのが気になった。
「なんか、盛り上がっちゃってるみたいで、朝まで帰らないって。あと、響くんが……明日は、花に会えなくなっちゃったって」
「会えなくなった……?」
今度こそ、あきれられちゃったのかもしれない。
「心配することないよ、花。もうすぐ、いつでも響くんといられる生活ができるんだから」
「そう……だよね」
心の中で、響くんに誓う。もう、響くんを困らせるような、わがままは言わない。だから、わたしを見捨てないで、もっと好きになってください。
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