八百メートル上の戦乙女

諏訪野 滋

八百メートル上の戦乙女

 トラックの第二コーナーを回り、百二十メートル地点に引いてある青いブレイクラインを越えると、アウトレーンを走っていた選手たちが一斉にインにかぶせてきた。最も内側、つまり第二レーンからスタートした私は全てのランナーを後方から観察することが出来るので、それぞれの選手のスピードを横目で確認しながら、二番手につけるように足運びをコントロールしていく。

 八百メートル走は面倒くさい競技だ、といつも思う。短距離とほぼ同じようなスピードで走らなければならないのに、二分以上も何かを考える時間があるのだから。そして二百メートルを過ぎて第三コーナーへと向かう私が今考えているのは、目の前をトップで走る彼女の肩甲骨の動きが、素晴らしくスムーズだということ。

 練習は嫌いだけれど、レースは最高に興奮する。レースの時だけは、先輩のセパレート型のユニフォーム姿が見れるから。そしてこの時だけは、彼女が私の事を本気で意識してくれるから。

 ホームストレートを過ぎて、ラスト一周を告げる鐘が鳴る。事前のリサーチ通りだけれど、少なくとも高校の地区大会レベルで、私と先輩の邪魔をすることができる選手は一人もいない。二回目の第一コーナーに入りながら、先行する彼女は少し加速したらしい。わずかに小さくなった先輩のうしろ姿を見て、いけないと思いつつ私の心ははやった。あからさまな挑発だとわかってはいるけれど、それに乗らないことで彼女に失望され興味の対象外にされることの方が、距離を開けられることよりも私にはずっと恐怖だった。

 第二コーナーを抜けてバックストレートに入ったところで、一度だけ深く息を吸い肺の先端まで酸素を送り込む。ここしかない、残り二百五十メートルで私はロングスパートをかけた。足音で察知したのだろう、ちらりと振り向いた彼女の視線に私はぞくりと身体を震わせる。先輩、私の存在を肌で感じてくれていますか? 持久力は私、瞬発力は彼女。対戦相手として私と先輩の身体の相性はミスマッチであるかも知れないが、その意外性が興奮を誘っているのも、二人の間では暗黙の了解であるはずだ。

 ついに並んだ、そのまま第三コーナー。遠心力が私をトラックの外へと弾き飛ばそうとするけれど、インコースを舐めるように走っている先輩の方がよりそれに苦しめられているに違いない。太ももの後ろが熱をもって痙攣し始める、今の速度が私の平衡状態だ。後はこのままゴールラインまで保ち続けるだけ、それに先輩が耐えることが出来なければ私の勝ちなのだけれど。

 第四コーナーを抜けて残り百メートル、最後の直線。鉄の味を含んだ唾液が、口の端から糸を引いて後方に流れる。今日こそは、とあえいだ私の隣で空気が揺れた。彼女の背中が再び視界に入ったかと思うと、それはみるみるうちに小さくなりながらゴールラインへと吸い込まれていく。あまりにも見慣れた光景に、私は思わず天を仰いだ。

 先輩はいつも自分勝手。私が達していないうちに、自分だけが気持ちよくなって終わる。

 トップでゴールした彼女は、私に背中を向けたまま観客へと大きく手を振った。




「いつもうちの娘がお世話になって。ありがとうね、佐本さもとさん」

「いえお母様、とにかく痛みがぶり返さなくて良かったです。まだ一年生ですから時間はたっぷりあります、少しずつ復帰してくれれば。キャプテンとして、彼女には今後も期待しています」


 ジャージに着替えた先輩の言葉に、後輩の母親は安堵あんどの表情を浮かべながら娘と共に競技場を去って行く。自動販売機の前でスポーツドリンクを飲みながらそれを眺めていた私に気付いた先輩は、もう一度母親にお辞儀をすると、笑顔のままでこちらに歩み寄ってきた。


「あの人、右田みぎたさんのお母さんですか?」

「そう、あの子しばらく腰痛で休んでたでしょ? 久しぶりのレースだったから安心させてあげないと、と思ってね」


 コインを投入しながら朗らかに笑う先輩の横顔を、私は物欲しそうに見ていたのかもしれない。


「キャプテン、優しいですね。私以外には」

「やけに他人行儀だね。二人の時は先輩でいいよ」

「そんな優しさ、私は求めていないんですけれど」


 頬を膨らませる私の肩をなだめるように叩いた先輩は、座って飲もうか、と言ってがらんとした観客席にさっさと向かう。ベンチに隣り合った私の横で彼女はペットボトルの中身を一息に飲み干すと、ああ美味しいと喉元の汗をぬぐった。


「なあに、美南みなみ。もしかしてねてるの?」

「……先輩のうしろ姿を追いかけるの、もう飽きました」

「何モチベ落としてるの、来月に入ったらすぐに県大会だよ。今年も私とあなたでワン・ツーでしょ」


 私は不機嫌を顔に貼り付けて、彼女をにらんだ。いつでも一緒だなんていう慢心は、慣れたら怖い。刺激を保ってくれるのは、常に緊張感だ。


「次は、私が一位になります」 


 くく、と彼女は手の甲を口元に当てて笑った。


「あなたも負けず嫌いだね。でも競技者としては大切な資質だよ、それは」

「先輩は私のうしろ姿を見たことがないでしょう? 私は、先輩に追いかけて欲しい。私がいなければつまらない、と思って欲しい」


 先輩はランパンから伸びた私の脚を、その硬さを確かめるようになでた。


「そういうのが、あなたが私を越えることができない理由なんじゃないの? いつも私頼りで練習するんじゃなくて、時には一人だけで集中して練習すれば、もっと上が狙えると思うんだけれど」

「自主練はいつもしています。けれど私は、先輩のことを考えないと走れない。ハードな練習をこなせないし、全力を出せない」


 足を触られるのに任せながら、私は先輩に愚痴をこぼした。


「だから、一人で走った後はむなしくなります。全然、気持ちよくない」


 嬉しいこと言ってくれるじゃない、と先輩は身体を寄せてきた。


「心配しないで、美南。私もあなたなしじゃ、レースでイケない」

「そこが一番いや、私はいつも焦らされるだけ。先輩の都合のいいおもちゃの役割なんて、もうまっぴら」


 ひどい言われよう、と苦笑した先輩は、誇示するように自分の足を叩いてみせた。逆さにしたワインボトルのように細い足首の、鮮やかな日焼け跡が目にまぶしい。


「そう思うなら、私に勝つことだね。危うい関係じゃないと、あなただって燃えないでしょう? 私があなたに厳しいのは、遊びじゃないから。そのことだけは覚えていて欲しいな」


 突き放すように笑った先輩は立ち上がると、ジュースもう一本おごったげる、と再び自動販売機に向かう。だからそういうのいらないです、と叫ぶ私に向けて振り返った彼女の額から、珠の汗が飛び散って五月の空に舞った。一瞬の虹が消えれば、県大会はもうすぐ。




 決勝での私は第三レーン、先輩は第四レーン。序盤の接触だけは避けようね、と確認し合う私たちに向けて、すぐそばでストレッチをしていた他校の選手が話しかけてきた。小柄で童顔の容姿だが、その瞳は猛禽もうきん類のように挑戦的に光っている。


河北かわきた第二の佐本先輩と、神松寺しんしょうじ先輩ですよね?」


 睨みつける私を抑えるように前に出た先輩が、にこやかに対応する。


「その赤のユニフォームは、翔海しょうかいの……桜庭さくらばさんだね。一年生の」


 少女という形容がふさわしいその選手は、小さな胸をユニフォーム越しに反らしながら、作られたようなはしゃぎ声を上げた。


「わあ、知っていてくださったんですか? 私、お二人のファンで!」

「もちろんよ。中学の県記録を更新した話題の新入生のことくらい、ちゃんと調べてあるから」


 うなずいた少女は大胆にも、値踏みするように先輩を見ながら笑った。


「だったら、私のタイムも知っているってわけですか……じゃあ、さっそくお手並みを拝見させて頂きますね。先輩たち」


 いい加減にして欲しい、と身を乗り出しかけた私をまあまあとさえぎった先輩は、腰をかがめて桜庭さんと目線の高さを合わせた。


「いいわねその態度、私たちに勝つ気満々ってか。でも、私も嬉しいわ」


 先輩は彼女の耳に唇を寄せると、小さくささやいた。


「観客が多い方が、私たちも興奮する」


 生意気な一年の表情が、一気にこわばった。


「……な? 観、客」

「あら、私はそう思ってるけれど。美南、あなたはどう?」


 部外者に口を開くのは面倒だったけれど、先輩の求めに私はしぶしぶ答えた。


「私はキャプテンと二人だけで十分です。後ろから見られても、むしろ邪魔」

「はは、だってさ。それじゃせいぜい楽しませてちょうだいな、翔海のルーキーさん」


 桜庭さんにくるりと背中を向けた先輩は、行くわよ、と私の右腕を軽く叩く。うなずきながら自分のレーンに入る私の視界に、青ざめた少女の顔がちらりと入ったが、私はすぐにそれを忘れた。




 オン・ユア・マークス位置についての声と共に、スタートラインにつく。八百メートル走にはセット用意の合図はない、全員が静止したらそれで号砲。火薬の破裂音ともに、私と先輩は同時に動き出す。私の右から、すぐに彼女が前に出た。スタートダッシュで後れをとるのはしかたがない、ここで私が勝てるようであれば苦労はない。七レーンに赤いユニフォーム、さっきの一年か。アウトレーンで私たちの姿が見えないからだろう、焦ってオーバーペースで突っ込んでいる。中学まではレーンが別れないオープンスタートが一般的だから、セパレートレーンでの駆け引きにはまだ慣れていないのだろう。勢いだけで相手を落とすことはできないわよ、と私はあわれみの目で見やると、それきり彼女のことは頭から振り払って、先輩を追いかけることに集中し始めた。

 第二コーナーを駆け抜けて全選手が合流した時には、私の前を走るのは当然先輩しかいなかった。飛び出したい、という衝動をかろうじて抑える。揺れるポニーテールも、小枝のように細い二の腕も、大殿筋の形がはっきりとわかる尻も、すべて乱暴につかんで悲鳴を上げさせたい。私が彼女のことを脳裏に思い浮かべながら、トラックでも自分の部屋の中でも一人で悲鳴を上げているように。

 一周目の第三コーナーに入り、出口の第四コーナー。先輩、今回は長い地獄に付き合ってもらいますよ。残り五百メートルで一気に加速する。半分以上の距離が残っている場面でスパートした私に意表を突かれたのだろう、ついに彼女は私のうしろ姿を見ることになった。先輩のあえぐ声が、欲情する吐息が聞こえる。

 二周目を告げる鐘の音が、頭の中でがんがんと鳴り響く。第一コーナー、第二コーナー。バックストレートに入っても、彼女の足音は全く遠ざからない。先輩、あなたは何を見ている? あっという間に迫ってくる第三コーナー? 半周回った左に見えているゴールライン? それとも汗にまみれた私の背中? まあ、どれでもいいか。先輩の関心がどこにあろうとも、今あなたを揺さぶっているのが私だという事実は消えないんだから。

 最終コーナーの出口で、ついに彼女は最後の加速をかけた。完全に並ばれても、私は自分の優位を信じ続ける。レースを、自分を、支配され屈服させられるのは快感でしょう? 私はよく知っていますよ、今までずっとあなたにそれを味わわされてきたんですから。外から肘を当ててくる先輩を、内側から跳ね飛ばそうと押し返す。崩れかけてもつれたまま、最後の直線。じり、とわずかに先輩の姿が下がる。あと十メートル、というところで彼女は今まで私が聞いたことがない叫び声をあげ、それに呼応するように私は内側からぜながら、真っ白な光の中に飛び込んだ。




 トラックに倒れ込んだ私の右手を、笑顔の彼女がゆっくりと引き上げる。


「優勝、ってね。優しく勝つ事だ、って名言があるけれど。美南のそれは全然優しくなかったなあ」


 先輩に肩を貸してもらった私は、もたれかかる振りをして彼女のうなじに唇を寄せた。


「激しいの、大好きでしょう? 先輩はお得ですね、うしろ姿でもイケるんですから」

「試してみてわかった、私はやっぱり前が好きだってね。だから、今回だけ」

「はは、負けず嫌いだなあ。先輩はやっぱり一流のアスリートですよ」


 陽炎が立つトラック上でピロートークを交わした私たちは、つないだ手を高く挙げて観客の声援に応えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

八百メートル上の戦乙女 諏訪野 滋 @suwano_s

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画