第16話:コメ価格を下げろ!

夜明けと共に、 三人は作戦通り、それぞれの持ち場へと散る。


「シルファン、あなたはフィーナたちと。気をつけてね」

「うん、わかった」

シルファンの一行は、町の外にあるミスリル湖へ。


そして悠夜は一人時を待つ。




「ストーム、頼んだわよ」

「はっ! お任せください!」

マカカチの指示を受け、部下たちはブロドスキーの市場へ「噂」という名の毒を撒きに向かう。


ブロドスキーの商業地区は、活気に満ち溢れている。

馬車が行き交い、商人たちの声が響き渡る。

そんな日常の風景に、小さな波紋が広がったのは、ほんの些細な会話からだった。


「おい、聞いたか? シュヴァルツ帝国の米が、とんでもない豊作らしいぞ」

とある商人が、取引相手に声を潜めて囁いた。


「豊作? どのくらいだ?」

「なんでも、生産量が五割も増えたとか……」

「ご、五割だと!? 馬鹿な!」

相手の商人は目を見開いた。


「本当なら、米の買い付け価格は一トンあたり六ドルまで下がるぞ……!?」

「ああ、まずいことになる……俺、まだ大量に在庫を抱えてるんだぞ……」

「俺だってそうだ!」

その会話を、近くにいた別の商人の耳が捉える。


ささやかな噂は、まるで水面に落ちたインクのように、じわじわと、しかし確実に広がっていく。

最初は半信半疑だった者たちも、「五割増産」という具体的な数字に、次第に不安を煽られていった。


市場に、微かな動揺が走る。

一部の嗅覚の鋭い商人たちが、手持ちの米を少しずつ売りに出し始めた。


価格が、緩やかに下がり始める。

その変化が、さらなる不安を呼んだ。


噂は人から人へと伝わるうちに、尾ひれがつき、その形を歪めていく。

「シュヴァルツ帝国の米、七割増産らしいぞ!」

「いや、聞いた話じゃ八割だ!」

「俺の知り合いの知り合いが言うには、倍になったそうだ! 生産量百パーセント増だ!」


数字が大きくなればなるほど、その信憑性などどうでもよくなっていく。


重要なのは、その情報がもたらす「恐怖」だ。

誰もが、自分の資産が紙くずになることを恐れていた。


噂の出所がどこなのか、そんなことを気にする者など、もう誰もいない。

金にまつわる情報は、どんな真実よりも早く、そして広く伝播する。


このパニックに、最後の一撃を加えたのはマカカチだった。

彼女は、商会が保有していた全ての米在庫を、市場価格を大幅に下回る「利益ゼロ」の価格で一斉に放出したのだ。


それは、市場に対する明確な「宣言」だった。

『米の価格は、これから暴落する』と。


この行動が決定打となり、市場のダムは完全に決壊した。

商人たちは我先にと、手持ちの米を投げ売りし始めた。


誰もが、少しでも損失を減らそうと必死だった。

ブロドスキーの米価は、坂道を転がり落ちるように暴落していく。


「シュヴァルツ帝国から安い米が大量に流れ込んでくる」

もはやそれは、単なる噂ではなく、「事実」として認識されていた。


この情報が足だけが頼りの世界で、その噂は絶大な破壊力を持って、さらに遠くの都会へと伝わっていった。


ブロドスキーの米の買い付け価格が、ついに一トンあたり5.5ドルまで下落した。

その瞬間を、マカカチは見逃さなかった。

「……今よ」

彼女の執務室から、静かな号令が発せられる。


その合図と共に、部下たちが密かに動き出した。

彼らは匿名を使い、市場価格をわずかに上回る絶妙な価格で、パニックに陥った商人たちが投げ売る米を、片っ端から買い占めていく。


昨日まで市場を満たしていた大量の米が、まるで蜃気楼のように、あっという間に姿を消していった。


一方で、マカカチは別の手も打っていた。

市場には、あえてごく少量の米を、さらに低い価格で定量的に供給し続ける。

それは、シュヴァルツ帝国の安価な米が、まさに今、大規模に到着しつつあるかのような錯覚を市場に与えるためだった。


買い占めと、計画的な供給。

この二つの操作によって、マカカチは市場の心理を完全に掌握していた。


商人の世界を駆け巡った噂は、数日の時を経て、ようやく商業から最も遠い場所にいる人々の耳へと届いた。


農民たちだ。




ブロドスキー近郊の、のどかな農村。

井戸端会議に集まった農民たちの顔には、深刻な不安の色が浮かんでいた。


「聞いたかい? シュヴァルツ帝国から、ものすごく安い米が入ってくるんだと」

「ああ、聞いた聞いた。なんでも一トン五ドルで売られるらしいじゃないか」

「五ドル!? そんなの、こっちの生産コストより安いじゃないか!」

「ああ、そうだとも。このままじゃ、俺たちの米は誰も買ってくれなくなる」

「どうすりゃいいんだ……」

「今のうちだ! 他の奴らがまだこの話を知らないうちに、手持ちの米を全部売っちまうしかない!」

「そうか! そうだな! 急いで売らなきゃ!」

そんな会話が、ブロドスキー中の農村で交わされていた。


しかし、彼らが慌てて売り先を探そうにも、もはやこの地で米を買い付ける商人は、一人しか残っていなかった。




「お嬢様、アレクシディム村の行政官様がお見えです」

メイドからの報告に、マカカチは口の端を吊り上げた。


「……思った通りね。準備はできてるわ。お通しして」

アレクシディム村の行政官。


彼は、フランド帝国が抱える腐敗した官僚システムの中で、奇跡的に生き残っている、良心的な役人の一人だった。

民のことを第一に考える、稀な存在。


執務室に通された行政官は、疲労の色を隠せない様子だった。

型通りの挨拶を終えると、彼は単刀直入に本題を切り出した。


「マカカチ殿、本日はお願いがあって参りました。どうか、我々アレクシディム村の米を買い取ってはいただけないでしょうか」

その声は、必死さが滲んでいた。


「すでに他の多くの商会を回ったのですが、どこも首を縦に振ってくれず……。マカカチ殿だけが頼りなのです」

彼は深く頭を下げた。


「現在の米価格が下落していることは重々承知しております。しかし、どうか村の民のことをお考えいただき、たとえ安い価格でも構いません。農民たちの手にある米を買い取っていただきたいのです」

真面目で、責任感は強い。


しかし、商売の交渉経験が絶望的に不足している。

彼は、交渉の席に着いた瞬間に、自らの手の内を全て晒してしまっていた。


マカカチは、心底困ったという表情を浮かべてみせる。

「それは……非常に困りましたわね……」


彼女は大きなため息をついた。

「ご存知の通り、シュヴァルツ帝国の米は百パーセントも増産したと聞いております。今、高値で買い取れば、我々商会が大損害を被ることは確実ですわ」

それは、丁寧な、しかし明確な拒絶の言葉だった。


「しかし、このままでは……! このまま米の価格が下がれば、農民たちは計り知れない損害を受けます! たった一度の不作で、何千もの家族が十年分の収入を失うことになるのですよ!」

行政官はなおも食い下がる。


「マカカチ殿とは、長年のお付き合いではありませんか。どうか、そこを何とか……」

「商人の使命は、利益を上げることですわ。農民を助けるのは、政府や貴族の方々のお仕事でしょう?」

マカカチの冷たい言葉に、行政官はぐっと言葉を詰まらせた。


正論だった。反論の余地はない。


彼は話題を変え、最後の望みを託す。

「……近々、勇者選抜が催されます。実は、我がアレクシディム村には、ジョルジアーナという候補者がおります。彼女は毎日、血の滲むような訓練を積んでおります。もし彼女が勇者選抜で勝ち抜けば、村には莫大な報奨金が与えられるはずです。今回の件、お助けいただければ、その暁には、優先的にマカカチ殿の商会と協力することをお約束いたします!」


「まあ、勇者候補ですか。それは素晴らしいですわね」

マカカチはにっこりと微笑んだ。

「ですが、それは勝ち抜いたらの話ですわ。先のことは、その時になってみないと分かりませんから」


行政官の最後のカードは、あっさりと無効化された。


もはや、彼に残された手段はなかった。

力なく、ただ懇願する。

「お願いします……マカカチ殿……」


一介の役人が、ここまで商人に頭を下げるなど、前代未聞だろう。


彼の誠実さが、マカカチの心を「動かした」ように見えた。


「……分かりましたわ」

長い沈黙の後、マカカチはついに頷いた。


「ただし、こちらにも条件があります」

「は、はい! 何なりと!」

「まず、代金は分割でお支払いします。我が商会の損失を少しでも軽減するため、十二回払いでお願いしたい」

「……!」

「次に、商品は10日以内に、全て納品していただきます。もし一日でも遅れた場合は、契約は破棄。同等額の賠償金を請求させていただきます」

「……」

「この条件が飲めないのなら、この話はなかったことに」


それは、悪魔の契約書だった。


しかし、行政官には分かっていた。

溺れる者にとって、これが最後の藁なのだと。

彼は、震える声で答えた。

「……分かり、ました。その条件で、お願いいたします」




その後、マカカチ商会の者たちをブロドスキー中の村々へ派遣した。

農民の手から、直接米を買い上げるためだ。


買い取り価格は、彼らの生産コストを大きく下回っていた。

しかし、農民たちは凄く感謝した。

「ありがとうございます……ありがとうございます……」

「この時期に買ってくれるなんて、神様みたいだ……」


不安定な情勢の中では、確実な現金こそが何よりも貴重なのだ。


彼らは、まるで溺れる者が浮き輪に掴みかかるように、マカカチが差し出したわずかな金に必死でしがみついた。


自分が本当に溺れているのかどうか、知る由もなく。

誰が自分たちを、その渦に突き落としたのかも、知る由もなく。


ただ、生きるための本能的な反応として、彼らは全てを差し出したのだった。

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