第1話「それは未知との邂逅か、それとも再開か」

 放課後、多くの生徒が教室内から出ていく中、椅子に背中を預けている一人の青年が片手で手帳を開いて眺めていた。


 彼以外にも幾人かの生徒が教室内に残っており、夏休みにあった出来事について語り合っている。


「——でさ、俺、塾の帰りはあの廃墟の辺りの端っこを通り過ぎるからさ、見ちゃったんだよ。噂の“獣人”を」

「獣人?」

「あれ? 知らね? 最近噂になってるやつなんだけど。地域開発跡地の廃墟で、建物の上を走ったり跳びはねたりしている人影があるって」

「俺もそれ聞いた……けど見たことねぇな。怪談とか都市伝説とかの創作話かと思ってたわ」

「いやいや違うって、俺マジで見たから。こう、視界の端から端までヒュンってさ——」


 “獣人”を見たと語る生徒は、伸ばした腕を横から横へとスライドさせるジェスチャーをした。


 手帳を眺めていた青年は、そんな彼らの雑談を耳に入れながら、時おり彼らに視線を送りながら、手元の手帳へと何やら書き込んでいく。

 彼が手にしている手帳は地図のページが開かれていた。この美螺市のおおよそ全域が二ページに渡って描写されている。

 彼は、中心街から南南西の方角にある特定の場所に◯の印を書き込んだ。それだけでなく、丸印のすぐ横にも2035/10/1と書き加える。

 よく見ると、彼がたった今書き込んだ内容以外にも地図のあちらこちらに書き込みがあった。それら全てが、丸印とそれに付随する年月日の情報という形式で統一されたものである。

 地図上における丸印の分布には偏りがあることが見て取れた。彼が先ほど丸印を書き込んだまさにその場所に、別の丸印も集まっているのである。


(またしてもあの廃墟地域かぁ……)


 彼は手帳をパタンと閉じ、目を瞑った。



 そんな彼に話しかける者が一人。


「——久留ひさとめくん、“獣人”について興味があるんですか?」


 後ろから聞こえて来た声に、久留と呼ばれた青年は首の力を抜いた。だらりと垂れた頭部に合わせて視線が後ろへと向く。

 逆さになった視界に入ったのは一人の女子生徒だ。ほとんど黒に見えるくらい濃い緑色の髪が特徴的で、それを肩より少し下まで伸ばしている。彼女は立った姿勢から久留を見下ろしていた。


 久留は、後方に垂れた頭部を引き上げ、背筋を真っ直ぐに立てた。そして、椅子ごと体を女子生徒の方へと向ける。


「ええっと、七海さん?」


 記憶している名前に自信がなかったため、久留は確かめる様に彼女の名前を口にした。


「ええ、七海天音ななうみあまねです」女子生徒は言う。「それで、どうなのでしょうか? 随分熱心に調べてるみたいですけど、それは“獣人”に対する興味からですか?」


 彼女の視線は、久留の手元にある手帳へと向いていた。


「それはそうだけど……」久留は肯定する。「その“獣人”って呼称、流行ってるのかな?」

「皆、そういう風に言っていますね」

「そうなんだ」久留は言った。


 いつの間にか教室は久留と天音の二人だけになっていた。開きっぱなしの窓から風が差し込み、カーテンが揺らめいている。


「やっぱり、皆こういう話が好きなんでしょうか。オカルトとか」

「いや、オカルトではないよ」久留はすぐさま返した。「そもそも、こういう噂話が上がる前から、の目撃例はあった」

「久留くんは“獣人”が本当にいると——?」

「いる……というか、実際に見たことがある」


 それだけ言って、彼は手元の手帳をポケットへと仕舞う。

 天音は、顎に人差し指を当てて考える姿勢を見せた。


「……自分は“獣人”がいると知っている。だから、それを証明するためにその実態を調査している、ということでしょうか?」

「いや、違うけど……」

「興味は、あるんですよね?」

「それはそう。……別にそんな深い理由とかないよ。ただ、もう一回見てみたい、会ってみたい……だから探している、というくらいで」

「それじゃあ、お知り合いではないと?」

「……? そうだけど」


 質問の意図が掴めず、やや遅れて返答した久留。

 恐らくは困惑の色を浮かべているであろう彼の表情を天音はまじまじと見つめた。天音のその挙動が気になって、久留の方も彼女を見返してしまう。

 互いに見つめ合って数秒……そこで天音が口を開く。


「嘘、ではないですね」

「まあ、うん。そんなこと言う理由がないし」久留が言った。

「変な事を聞いてごめんなさい」


 天音は、久留に背を向け自分の席へと戻った。彼女の机の上には、既に帰り支度の終えた鞄が置いてある。彼女はそれを肩にかけた。


「それと、久留くん」


 天音は久留に向き直り言う。


「ん、何かな?」

「あなたは先程、“獣人”は実在するという旨の話をしましたが……それが本当であれば、“獣人”なんて探さない方がいいのでは?

 噂が事実であれば、“獣人”には非常に高い身体能力があると言えます……それも、建物間の跳躍を容易たらしめるほどに。危ないものには近づかないに越したほうが良いと思いますよ」


 言い終わると、天音は教室から出て行ってしまった。

 残されたのは久留のみである。


 彼は何も言わなかった。

 帰り支度の終えた鞄を背負い、教室の窓を閉めてからまた自分も教室を出ていった。



 * * *



 その日の夜、久留は外の街を走っていた。


 場所は、市街から外れた南西の区域……地方開発の名残で、廃墟となった商業施設が多く存在している。元々、観光地とするために色んな企業が参入していたのだが、予想より伸びなかった需要に見切りをつけて撤退してしまった。スキー場を中心に建つホテルや温泉旅館、ショッピングモール、その他アミューズメント施設……全てが今は機能してない。

 建造物が密集する都市圏の景色から一部を切り取り、平凡な街並みの端っこに張り付けたような歪さのあるその場所は……なるほど、廃れるのも当然であるかのように思われた。


 そんな景色の中で久留は、走りながらに周囲に気を配っていた。特に、高い場所だ。ビルの屋上・家屋の屋根・電柱の上など視線が斜め上になるように頭を傾けている。

 彼が一帯の巡回を始めてから既に30分ほどが経過していた。既に、回れるところは回っていた。

 久留は、歩く程度にまで速度を緩める。そして、細かい連続的な呼吸だったのを深呼吸へと切り替えた。そうして息を整えていく。

 目の前には、山の麓近くに位置している旅館がある。これ以上道路の先に進んでも森の景色ばかりで見るべきところはもうない。

 久留は踵を返して、町の中心部へ向けて歩いた。念の為、周囲の観察は怠らない。


 そのとき——


「あ……」


 久留の目に動くものが映る。それは二人分の人影だった。それらは廃墟となった三階建てビルの屋上にいる。距離にして一五〇メートルほど先だろうか。

 二人の人影は交錯していた。何をやっているのかは遠く暗いためよく分からないが、何かがぶつかり合う重低音が、激しい攻防を行っているのだと容易に想像させた。


 一人が、後ろに跳んだ。いや違う。放物線を描くような自然な跳躍ではない。スライドと呼べるような直線運動。かなりの速度だ。

 その人物は、物理法則を無視した軌道のままビルの外側へと外れて地面へと落ちていった。しかし、その過程も物理法則を無視したものだ。ビルの壁に沿って振り子のように揺れながら徐々に地面へと近づいて行っている。

 それをもう一人が追った。ひと跳び、ふた跳び……それだけで、目算十メートルはある距離を駆け抜ける。まるで、ネコ科の動物様なしなやかな跳躍だった。その彼もまた、三階建てのビルの端っこから跳び下りた。壁を蹴りながらビル間の狭い隙間を往復し、地面へと降りていく。


「あの動き……」


 その肉体の躍動に、久留の目が奪われる。


「って、そんなこと言ってる場合じゃなくて! 追わないと!」


 突っ立っていた久留は、自身の意識を目の前の景色から五体に戻す。そして、二人の落下地点と思われる場所へ向けて駆け始めた。

 久留が駆けつけた先は、件のビル手前にある道路だ。しかし、長期間整備されていないことでアスファルトが剥がれている所が多々ある。


 そのような場所で例の二人は戦っていた。今度はちゃんと姿を視認できる。

 一人は男、一人は女だ。

 男の方は全身黒づくめで、フードを被っているため容姿すら分からない。ただ、パーカーから盛り上がった体躯で男性だと判断できるくらいだ。何やら装飾品を身に着けているのか、首元がキラリと光を反射した。一人目の人影を追って後からビルを跳び下りたのはこの男の方である。

 そして女の方には見覚えがあった。


(七海さん……だよな?)


 彼女……七海天音は、上下長袖の、胸や太腿のあたりにポケットの付いた野外活動向けの服装であった。その姿にはまるで軍人のような印象を受ける。また、彼女はその手に木製の棍を手にしていた。綺麗に成形された、細長い円柱状の棒である。


 天音に向かってフードの男が距離を詰めた。

 しかし、天音の前方から、コンクリートの地面を割って、槍の様に尖った形状の太い枝が生える。枝は男の進行を妨げて、その足を止める。


「おぉ…⁉」


 現実とは思えない現象を目にした久留の身体が驚きでビクリと震える。

 地面から斜めに突き出した枝は、立ち止まった男に対して、意思を持つかのようにグニャリと軌道を変えて追跡した。

 フードの男は、手の甲で、槍ともいえる太さの枝を払う。

 男は再度、枝を迂回しながら天音へと迫った。

 だが、天音も元の場所に留まっている訳じゃない。男に追いつかれる前に後方へと跳んだ。同時に、彼女の足元から蔦のような植物が膨張してきたかと思えば、天音の跳躍に合わせて彼女を後方へと押し出した。その勢いによって、彼女の体は、五メートル以上の距離を跳んで後退する。


 二人の激しい攻防に割り込むのに躊躇われ、久留はその動きを観察することに終始していた。


(今なにか落としたな……)


 だからこそ気付いたことがある。天音が後方に跳び下がる前、腿のポケットから取り出した“何か”を地面に落としていた。恐らくは種……蔦の発生源であろう。そしてその種を踏みつけた状態から後ろに跳ぶことであのように推進力を得ていたのである。

 しかし、フードの男はそれ以上に速かった。後方に跳んだ天音が地に足を着けるよりも先に彼女に追いついたのである。

 腰に溜めた左拳を突き出す男……天音は手にしていた棍でそれを受け止めた。だが、受けた衝撃によって後方へと転げる。


「うっ……!」


 息を強く吐き出し、彼女の体が痙攣する。

 そんな彼女に追い打ちをかけようと男が腕を伸ばした所で——


「流石に見てちゃいけないか」


 二人の間に割り込んだ久留が、フードの男と正面から相対し、手首を掴んで止めていた。


(凄い力だな)


 掴んだ手首を通して伝わって来る力に彼は感嘆する。


「誰……?」天音が言った。


 戦いに集中していて久留の存在に気が付いていなかったのだろう。それに彼女の方からでは久留の後姿しか見えない。それだけでは久留のことは分からなかったらしい。

 一方で、フードの男の方も足を止めて久留の方を見つめている。


「さて……」


 なんと話せばいいのか……と久留は思う。別に争いたいわけではないのだ。フードの男ふくめて一旦こっちの話を聞く姿勢になってもらいたいものなのだが——。


「……」


 言うべき言葉に困り久留は黙り込んでしまう。

 一方で、待つ気はないのか、フードの男はもう片方の拳を握る動作を見せた。


「ちょ、ちょっと待——」


 そう言いかけた久留の言葉に気を止めることなく、フードの男は捻りの効いたフックを繰り出してくる。

 久留は、咄嗟に顔を守るように腕を掲げた。フードの男の拳が久留の前腕とぶつかる。


……つぅ!」


 靴底を地面に擦らせながら、十数センチほど久留は後ろに押し出される。

 腕から伝わる衝撃と痛みが久留に危機感を与えた。また、頭が熱されるようなカッとした感覚が瞬間的に彼の頭を支配する。


「こん、のっ……!」


 彼の身体は、自らの生存欲求に従い、彼自身の思考を経ることなく動いた。

 彼は片足を持ち上げ、フードの男を引き剥がすように蹴りを放つ。フードの男の腹に押し当てられた彼のつま先は、静止状態から一気に加速し、斜め上に男を押し上げる。

 蹴りによって地面から足が浮き上がったフードの男はしかし、姿勢を崩すことなく着地した。着地と同時に膝を軽く曲げ、改めて久留の方へと駆け始める。

 自身の視界を埋め尽くさんとばかりに迫って来るフードの男の威容に、肘を曲げた腕を前に出す形で久留は身構えさせられた。


「……?」


 が、予期していた衝撃は久留の身体には伝わってこない。

 フードの男は、久留の脇をすり抜けると、久留の後ろにいた天音の身体を掴んで脇に抱えていた。そしてそのまま、久留から離れる様に直進していく。


「ちょっと⁉」


 無論、久留がそれを見逃すわけもなく、フードの男の後を追った。

 久留のいる場所から十メートルほど進んだ先で、フードの男は道路脇の小路地に入る。そこは、ビルとビルの間に出来た幅5メートルにも満たない狭い道だった。

 フードの男は小路地に入った直ぐのところで一度足を止める。そして、道を挟むビルの壁を交互に蹴って上方へと跳躍していく。

 フードの男が上っていく様子を久留は後ろから見ていた。彼は、フードの男に遅れて小路地に入ると、フードの男の動きをそのままなぞった。フードの男が壁を蹴った靴跡にそっくりそのまま自分の足を乗せる。壁を足場に、上半身を反対方向へ捻りながら斜め上へと跳び上がる。そしてまた、フードの男が作った靴跡に自分の足を乗せる。跳び上がる、乗せる、跳び上がる、乗せる——。


 久留がビルの屋上に上がった頃には、一つ隣のビルの屋上へフードの男が跳び移るところだった。もちろん彼はそれを追う。フードの男がそうしたように、膝が胸に着く程に脚を上げて柵の手すりに乗り上げる。そして、隣のビルへ乗り移るべく跳躍した。

 別のビルの屋上へ着地した久留は、その勢いのまま再び走り出す。


(俺の方が速いか)


 久留とフードの男の距離は、徐々にではあるが縮まってきていた。

 フードの男が、次のビルへ跳び移ろうとしている。しゃがみ込むように大きく膝を曲げていた。その動作によって、男の進行が瞬間的にではあるが止まる。

 その間に久留は一気に距離を詰めた。天音を抱えている男の腕を左手で掴む。それから右手でも掴んだ。

 フードの男がバランスを崩し、その体を後ろへと傾かせる。同時に、彼が抱えていた天音は彼の手からこぼれ床へと落ちていく。


「おっと」


 久留は、天音が床に体を打ち付ける前にそれを両腕で受け止めた。フードの男が無茶な動きをしていたせいか、天音は気を失ってしまっている。

 天音を受け止めた彼は、素早くバックステップを踏みフードの男から距離を離した。

 久留が視線をフードの男へと戻した時、彼は既に体勢を整えこちらを見ていた。


「……」


 久留を警戒しているのか、フードの男は窺う様にしてこちらを見ている。……とは言っても、目元がフードで隠れてしまっていて表情が分からない。実際の所、男が何を考えているのか久留には分からなかった。


(……でも、さっきよりは少し落ち着いてきた)


 暴力に慣れていない久留は、先程は後手に回ってしまっていた。だが、この状況に対して精神的に慣れつつある今なら、男の行動にもある程度対処できる気がしてきている。人ひとり天音を抱えていたとは言え、相手に追いつくことが出来たという事実も久留の心を落ち着かせる一要因となっていた。

 久留は腕を前に出した構えでフードの男と相対する。


「……」


 二人の視線が無言でぶつかり合う。

 先に動き出したのはフードの男の方だ。久留の真正面まで距離を詰める。かと思えば、そこから横に跳んで久留を掻い潜ろうとする。また、久留を避けて天音を捕らえるつもりなのだろう。

 久留は片腕を広げて男の行く先を遮る。

 フードの男は、久留の腕を弾き上げた。そのまま、減速することなく男は天音の方へと向かう。そして、天音を担ぎ上げようとしゃがんだ。


「ふっ……」


 そこに、久留が肩を突き出しながらタックルする。

 男は、天音に伸ばしていた両腕を交差させ防御に回した。踏ん張りの効かない立ち膝の状態でタックルを受けた男の体がゴロンと後方に転がる。


 立ち上がろうとした男に、久留が追撃をかける。振り上げるような蹴りだ。

 しかし、それはフードの男に完璧に受けられてしまった。体が揺らぎすらしていない。


「……軽いな」


 フードの男がボソリと言った。

 久留が一歩、後ろに跳んで距離を取る。


「そりゃあ素人ですからね」


 そう答えた久留の声は嬉しそうだった。


「よければもう少し話していかないかな? どういうトレーニングしてるかとか、興味あります」

「喋っている余裕は、ない」


 フードの男が言った。若さを感じる、高く澄んだ声だ。声には、若干の苛立ちが込められている様に久留には感じた。会話を歓迎している様子は当然ない。

 久留の視線が僅かに落ち、口から息が漏れ出た。

 感情を発露させるように男は立ち上がる。その行く先は久留の方だ。


「合わせろ、分かるだろ」


 誰に聞かせるでもない小さな声量でフードの男は言った。そして、引き絞った右腕を久留の鳩尾目掛けて放つ。

 久留は、それを両腕で受け止める。しかし、その威力は、これまでのどれよりも強力なものであった。

 今度は久留が吹っ飛ばされる番だった。


「……っ⁉」


 声を出す余裕もなかった。気付けば、受け身すら取れずに地面に背中を打ちつけていた。


「かっ……ふっ……」


 両腕で防ぎきれなかった衝撃が胸に浸透し、呼吸がままならない。

 それだけじゃない。打撃を直接受けた左腕前腕……そこに、骨が折れたと思う程の強い痛みがある。起き上がろうにも、その痛みに意識が取られて体を上手く操れない。力を入れては直ぐに抜けてしまう。久留の体は、まるで頭部を失った昆虫のように取り留めのない動きをしていた。


 無防備な久留に、フードの男が歩み寄って来る。


(これは……マズ——)


 痛みの少ない右腕で地面を押して上半身を持ち上げる……が、背中が地面から数センチ離れただけでガクンと落ちてしまう。腹筋に力を入れようとしても、胴体を震わせるので精一杯だった。

 久留は体の力を抜き、近づいて来る男を眺めた。

 相変わらず、フードの暗がりに包まれた顔を拝むことは出来ない。無表情に閉じられた口元がかろうじて見えるだけだ。


(いや、若干不機嫌……?)


 ——久留まであと一歩の距離にフードの男が来たところで、それは起こった。


「……っ⁉」


 途端、横際よりかち上げるよう伸びて来た細長い影がフードの男の顔を狙う。フードの男は首を傾けて躱す。影は男の首元を掠めた。

 男を襲った影の正体は蔦だった。真っ直ぐに伸びたそれは蔦らしからぬ硬さを感じさせる。しかし、それは一瞬のこと。蔦は直ぐに萎えてしまい、フードの男の肩に寄りかかるようにペタリと落ちた。

 蔦の発生源を辿っていくと、目を覚ました天音がそこにはいた。上半身を起こした状態で、コンクリートの地面に接地した掌の近くから蔦は生えている。


 蔦は、男を傷つける事こそ敵わなかった。だが、蔦はフードに引っかかり、暗がりに包まれていた男の素顔を露わにした。

 黒色の髪と瞳、整った目鼻立ち、華奢さを感じさせる顔の輪郭である。東洋系の顔立ちをしているが、恐らく日本人ではない。

 だが、それよりも目を引いたのが男の首元……そこに嵌められた金属製の首輪である。何らかの機構が働いているのかそれは定期的に赤い点滅光を放っていた。明らかに、只の装飾品ではない。

 一体何のためにそれはそこに存在しているのか。首輪の放つ異質性によって、天音・久留の二者の視線がそこに集まる。


 そして、首輪をつけている当人は、一度ピタリと体の動きを止めたかと思うと、目を細め、首輪を隠すように片手を首に当てた。


「——あっ」


 そう声を漏らしたのは久留。男は、彼の目の前で背中を向けると、屋上の柵へ向かって駆け出した。そして、柵を跳び越えビルから降りていく。


「待ちなさい!」


 立ち上がった天音がその後を追う。柵に駆け寄り、そこから彼女は地面を覗き込む。

 しかし、追いつけないと悟ったのか、直ぐに肩を落としながら項垂れる様に首を下げる。

 彼女は一度ため息をついてから、久留の方へと戻って来た。


「今夜の事は他言無用でお願いします」


 彼女はそれだけ言って、屋上に設けられた扉から階下へと駆け降りて行ってしまった。


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