第2話「七海家にて」
フードの男と邂逅した昨夜の出来事から一夜明け、久留は、左腕を包帯でグルグル巻きにした状態で学校に登校してきていた。午後は病院で診察を受けていたため、午後からの登校である。
三角巾を使って腕を首から吊るしていたので久留は良く目立った。
「うぉ⁉ どうしたんだよそれ」
教室に入ると、クラスメイトの一人が声をかけてくる。
ちょうど昼休みの時間だったようで、各々グループを作って弁当を広げていた。
「いや、昨日トレーニング中にちょっと事故ってね……」
そんな言い訳を口にするのは何回目か。久留は、病院の医師にも告げた内容を繰り返し語った。
最初はそれなりに人が集まっていたのだが、学友が怪我した状態で登校してくるという非日常に直ぐに飽きてしまったのか、仲の良いおしゃべりグループの元へと戻っていく。
そんな、今朝のちょっとしたハプニングを越えて久留は自分の席へと向かった。
「あっ、七海さん……おはよう」
彼は、自分の席の前に七海天音が座っている事を認識し、挨拶の声をかける。
「ああ、久留くん。おはようございます」
天音はそう挨拶を返し、再び自身の弁当を向き合う。ピンと背筋を伸ばして箸を口に運ぶその様子は全くの平常で、昨夜二人の間に起こったことを何ら感じさせない淡泊さがあった。
周りにはクラスメイト達の目がある。久留の方からも昨夜の件について触れるつもりは今のところはなかった。
さて、放課後である。
清掃活動を終えた久留は駆け足で教室に戻り、視線を巡らせる。そして、窓際の席に座っている天音の姿を認めた。彼女は何をするでもなく、いつも通りの綺麗な姿勢で座っていた。
ひとまず自分の席に戻り、荷支度の終わった鞄を机の上に置いておく。
久留はもう一度教室内を見渡した。まだ掃除途中の班もあるようで、教室内に残っている生徒は多い。
——今夜の事は他言無用でお願いします。
昨夜、天音が久留に告げた言葉である。その言葉を久留は忘れずに覚えていたし、それに背こうだなんて思いは抱いていなかった。
(流石にこんな所で話をするわけにもいかないしな……。少し待つか、それとも——)
天音の所在を確認するよう定期的に視線を送りながらも、声をかけるという一歩を彼は踏み出せずにいた。
「——久留くん、ただ今お時間の方はよろしいでしょうか」
意外にも、声をかけてきたのは天音の方であった。
天音から事情を聞き出したいと思っていた久留にとってそれを拒む理由はない。迷う素振りなく彼は首肯を返した。
二人は校舎を出て外を歩く。先導して進む天音の斜め後方に久留が付く形であった。
門を通り過ぎた後、久留は、周囲数メートルに人がいないことを確認してから口を開いた。
「七海さん、どこまで行くのかな?」
「久留くんには私の家まで来てもらいます」
「いえ……家? 少し話をするくらいならそこら辺の公園でもいいんじゃ——」
「それは、母上……私の母が貴方を家に呼んでほしいとのことで。昨日の事を報告した時にそう言っていました」
「……何の用事で?」
「それは、母に聞いてみないと分からないです。ですが、恐らく昨日の件の口止めに関する話ではないでしょうか」
そう言って天音は、首から吊られた久留の左腕に視線をやった。
「昨日は私も動揺していました。一方的な口約束だけで口止めしたのもそうですが……あの状態の貴方をその場に置いていったのは私の過失です。すみませんでした」
久留の方へと体を向けた天音が頭を下げる。
「いや、それを言うなら俺だって……じゃなくて全面的に俺の責任だよ。俺が勝手に怪我をしたわけだしね」
それよりも、と彼は話を逸らしにかかった。
「昨日の件、というか“獣人”と呼ばれているあの人について、話を聞かせてもらえると思ってもいいのかな?」
「それは……私の一存では判断できません。正直に言うと、あなたには関わって欲しくないのです」
「それは、困るね」
そこで二人の会話は途切れてしまった。
そのあと彼らはバスに乗り、時間距離にして十分ほど離れた場所にある停留所で降車した。彼らの降りた場所は、上代山という名の山の麓で、同じ山の名前を関する上代神社の参道入り口の近くでもあった。
「こっちです」
天音は、参道の脇にある「関係者以外立ち入り禁止」の看板を越えて先へ進んだ。勿論、久留もそれについていく。
土面の露出した二メートル幅の狭い道を歩いていく。木漏れ日が僅かに落ちてくる心地よい道のりであった。
道を歩いて数分。木々が密集しており先が見通しにくくはあったが、終点と思しき建物が眼目に迫っていることを認識する。
(——でかいなぁ)
薄暗い森の空間にぽかりと空いた特異点。そこに建てられた木造屋敷が、木々に遮られる事のない日光によって眩しく照らされている。屋敷の手前にはジャリの敷かれた庭が広がり、玄関まで続く飛び石が埋め込まれている。
門をくぐって歩いていくと、呼び鈴を鳴らしてもいないのに玄関の扉が開いた。中から出迎えを行ったのは和服を着た女中である。
「お待ちしておりました。天音様……と
天音の案内に従い、久留は応接間へと通された。
「母上、久留くんをお連れしました」
そう言って中に入る天音に続き、久留の部屋へと足を踏み入れる。
そこは少なくとも、六畳以上はある大きさの部屋だった。部屋の中心には重厚な縦長机が置いてあり、その両脇にソファが設置されている。和式の部屋に洋風の調度という組み合わせであったが、アンバランスさを感じさせないようになっていた。
部屋に入って右側のソファには、和服を着た女性が腰を掛けていた。皺の全くない綺麗な肌をしており、二〇代にしか見えない容姿である。彼女は、天音と久留の姿を認めるとその場から立ち上がった。
「七海天音の母、
久留が軽く会釈をする。
彼は、天音の誘導に沿って美弥の向かい側の席へと着いた。
それを見届けた天音は、ソファの横に敷いてあった座布団へと視線をやり、美弥の添え物の様にそこに正座した。
美弥も立った状態からソファへ座り直し、口を開く。
「さて、昨夜の件については既に話を伺っています。天音が世話になったようですね。親として感謝します」
「それは、はい。でも、たまたまです」
「だとしても、天音が助けられたことは事実。幾つかお礼の品を用意していますので受け取って下さい」
美弥が、包装紙によって包まれた箱状のものを机の上へと差し出した。
「……では、ありがたく頂かせてもらいます」
僅かな逡巡の後で、久留は机の上に右手を伸ばした。
その際、彼の腰がソファから離れ、その体位が前のめりになる。そのタイミングで、美弥も立ちあがり、包帯で巻かれた彼の左腕へと自らの手を添えた。
「おっ……」
神経がジンと痺れるような感覚、それが自らの左腕に走り、久留は声を漏らした。布越しに触られただけではありえない、体の内側を直接撫でられるような、それでいて不快ではない感触であった。
接触はおよそ二秒、直ぐに美弥は久留から離れた。
久留は、どうしていいのか分からずに腰を浮かしたままであった。
「失礼。少し、左腕を診させていただきました。骨に異常はないようですが、筋肉の損傷、内出血などが酷いですね。
天音、後で癒して差し上げなさい。私にはもう無理ですから」
「分かりました。母上」天音が頷く。
親子間のそのやり取りを見ていた久留は、止まっていた呼吸を再開させ、ゆっくりと息を吐きながらソファへと腰を下ろしていった。
「……驚きました」
久留がそう口にする。少なくとも、第一印象からはそういう突飛な行動を取る様な人物には見えなかった。
久留の言葉に、それまで能面の様だった美弥が少しだけ眉を歪めたように見える。
「悪い癖が出てしまいましたね。どうにも、物事を進めるのにあまり思考を使わない質でして……できそうだと思ったら機械的に動いてしまうのです」
美弥の顔は直ぐに無表情なものへと戻った。
「それでは、貴方をここに呼んだ本題の方に入らせて頂きます。
——久留友さん。あなたには、昨夜に見聞きした出来事の全てを口外しないようここで誓って頂きたい」
「それは、もう……」
「確かに、天音が貴方にその旨の要請をしたことは報告に聞いています。しかし、所詮は口約束。それに、貴方がその内容を承諾したという話も聞いていません。ですので、その辺りはここではっきりとさせておきたいのです」
美弥がそう言い終わったタイミングで応接間の障子が開く。そして、一枚の書類とペンを盆に載せた女中が外から入って来る。女中は盆の中身を久留の目の前へと置いた。
「これは誓約書です」美弥が言う。「ここにサインして頂くだけで構いません。ただ、その上で例の件を口外した場合、誓約書の内容を証言に訴訟いたしますのでそのつもりで。無論、そのようなことにはならないと信じていますが」
「なるほど、分かりました」
躊躇いや恐れといった感情を出さずに久留はペンを取った。書類の記名欄へと自身の名前を書き込む。
「これでお願いします」
手を膝の上に戻した久留を見てから、美弥は机上の書類を手に取って確認する。そして、それを女中へと手渡した。
「誓約書への記入、確認しました。ご協力ありがとうございます」
「いえ……」
「とはいえ、こちらからの要求を一方的に吞んでもらうというのも体裁が悪い。口止め料の方もお支払いしましょう。久留さんに何か希望があれば、金銭以外の形での返礼も用意いしますが——」
「あっ、なら……っ!」
久留の上半身が前のめりとなる。
「俺が昨日の夜に会った黒いフードのあの人の事を教えては貰えないでしょうか! あ、いや、やっぱりちょっと待って下さい……」
「久留くん、それは——!」
天音が何かを言い切る前に、美弥がそれを手で制した。美弥は視線で、続きを話すように久留に促す。
彼は、顎に手を当て、視線を畳みに下ろす。そうしてしばらく考え込んで……再び口を開く。
「その、貴方達のやっていることに俺も協力させていただくことは出来ないですか? 少しでもいいので、あの人と接触する機会を増やしたいんです」
「なるほど、要望の方は理解しました。ただ、例の件に関しては……実質的な指揮を天音に一任しています。であれば、協力の申し出を受け入れるかどうかの判断は天音に任せるのが筋でしょう。天音も、それでよろしいですね」
美弥は、その視線を天音の方へと寄越した。
「……分かりました」天音が頷く。
かくして、七海美弥と久留友の対面は終了したのである。
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