第27話 裏切りの萌芽

 黄金の杯にルーンを描き、厨房にある壺型の容器にビールを注ぎ出す。

 毎日、日課になっている作業だ。この酒が小人たちの労働の対価となる。

 後ろでは小人たちが、夕食の食器を洗って食器棚に片付けながら、同時に、明日の朝に焼くためのパン種を捏ねている。手際の良い、慣れた分業制だ。

 それを横目に見ながら杯を傾けていると、トコトコとドゥリンがやって来た。

 「ご主人様。先程は、ずいぶん盛り上がっておいでのようでしたな」

 「えっ?」

声をかけられて、はっとした。

 (――そうだ。食堂での会話…小人たちにも聞かれてたんだ…)

”小人を信用するな”という祖父の言葉を、すっかり忘れていた。

 食事中は小人たちも姿を隠し、気配が感じ取れなくなっていたから意識の外になってしまっていた。

 ユーフェミアの表情を見て、ドゥリンは苦笑する。

 「ご安心を。あの守護霊の言葉までは理解できておりませんし、我々も他言は致しません。ただ、何やら込み入った事情のようでしたので…少々、気になりましてな。あのお二方は、もしや、”英雄”シグルズ様と、その姉君カーラ様なのですかな」

 「…ええ」

聞こえてしまってたのなら、今更誤魔化すことも出来ない。ユーフェミアは、苦い表情で頷いた。

 「でも、生まれ変わりなんてピンと来ない。全ての生き物は死ねば生まれ変わる、っていう信仰があることは知ってるけど、中央島セントラルでは一般的じゃなかったわ。それに、転生しても前世の役割や因縁が引き継がれることなんて、仕組みがよく分からない。…ドゥリンさんは知っている? 彼が千年前、どうやって死んだのか」

 「ええ、有名な歌になっておりますので。――火を吹く寸前の”滅びの山”へと向かうヘルガ様の行く手を阻もうと、ヨートゥンの群れが立ちはだかる。内通者が、裏切り者がその道を教えた。罠にかけられた主人を救うため、かの英雄は露払いの役を申し出る。ただ一人、戦場に立ち、仲間たちを先へゆかせる。そして、すべての敵を打倒し、朱に染まる大地に立ったまま事切れる。――そういう、勇壮かつ悲劇的な歌です」

 「……。」

やはり、英雄シグルズは、フレヴナが族長を継ぐ以前に戦死したことになっているのだ。

 それなら、あの、剣につけられたルーンは?

 そもそも、シグルズとフレヴナにはほとんど接点は無かったはず。なのにどうして、彼女の与えた加護が、今も”熊”の氏族クランに受け継がれているのだろう?

 「ただ…」

ドゥリンは、声を潜めて付け加えた。

 「それとは別の伝承も、かつては存在しました」

 「別の?」

 「はい。シグルズ様の危機にフレヴナ様と従者の方々が駆けつけ、共に難局を逃れてヘルガ様を追った、という伝承です。…フレヴナ様の人気があまり無かったことや、この島では悲劇的な歌のほうが好まれたということもあって、ほとんど歌われることは無かったようなのですが」

ユーフェミアの胸の奥で、何かが高鳴った。

 (フレヴナが後から加勢したなのなら、筋書きに合うわ。そうよ…きっと、そっちの伝承のほうが本当に起きた出来事に近いんだわ。それなら、剣に付けられていたルーンがどこから来たのかだって分かる)

ビールを満たし終えた壺に蓋をして、ユーフェミアは、ドゥリンのほうに向き直った。

 「ドゥリンさん。あなたたちって、何か隠し事をしていたりしない?」

 「隠し事、とは?」

 「私が前に、食堂に掛けられていた絵のことについて尋ねた時、意図的にはぐらかしたでしょう。クリーズヴィ家の人たちがみんな居なくなってしまったのは何故なのか、他の人たちはどうなったのか、答えてくれなかったわよね」

 「それは…。」

小人は、困ったように髭を指で引っ張った。

 「私は、あなたたちのことを信用してもいいの? お祖父さんの時代から、報酬はビールだけで良かったのよね? この、”支配の腕輪”を使ってまで従える必要はないわよね」

 「滅相もない! そのようなこと。我々にとって”契約”は絶対です!」

ドゥリンの慌てたような叫びに、仲間の小人たちが振り返る。

 声を荒げすぎたことに気づいて、小人の執事は、少し調子を落とした。

 「…失礼しました。ですが、…偽りなどは申しておりません。我らにとっては、この”契約”は絶対のものなのです。火山の目覚めによって住処を失い、滅びるばかりだった我らをこの城に招き入れ、地下に住まいを設けても構わないと仰っていただいた…九つの種族の中で最も下位に置かれ、蔑まれる存在だった我らを救ってくださったのは、フレヴナ様だったのです」

 「…フレヴナが?」

それもまた、意外な事実だった。夢の中でも、霧の中でも、そんな光景はまだ見ていない。

 「我らは代々、その約束を、思い出を受け継いでおります。ですが人の世界では、…代々の族長ゴジたちの中では、フレヴナ様は常に悪者でした。我らにとっての恩人でありながら、一族を導くことに失敗し、衰退の呪いをかけた張本人だとして嫌われていたのです。百五十年前の…当時の族長ゴジであられたエイリミ様の時代に大勢の方々が不幸な死を遂げたのは事実ですが、我らはそれを、巷で言われているようなフレヴナ様の呪いとは認めたくなかった。それで、言えなかったのです…申し訳ございません」

 「そういう理由だったのね…」

ドゥリンの言葉には、嘘は感じられない。

 呪いを恐れている、という記述は、過去の当主であったエイリミの日記にも出てきていた。百五十年前には既に、「呪いの元凶はフレヴナだ」という言説が確立されていたのだろう。

 ただ、それは千年前からでは無かった。

 小人たちの伝承では、フレヴナは、虐げられた下層の民にも救いの手を差し伸べた恩人だったのだから。

 「ドゥリンさんは、三百年くらい生きてるって言っていたわよね? 覚えている範囲で構わないの。一族に呪いがかかってるって信じられるようになったのは、一体いつからなの? それがフレヴナのせいだって言われるようになったのは?」

 「さあ…はっきりとはわかりかねます。ですが、記憶にあるかぎり、私めがまだ見習いであった時代には、ヘルガ様を懐かしむ方はおられても、フレヴナ様を悪く言う方々は少なかったかと」

 「そう」

うっすらと思い描いていた仮説が、根拠を持ちつつある。

 誰かが、フレヴナを悪役に仕立て上げ、実際には存在しない”呪い”をデッチ上げて定着させようとしたのだ。

 ――でも一体、何のためにそんなことを?…

 「信じていただけますか?」

 「信じてもいいけど、もう隠し事はしないで。あと、嘘もつかないこと! 最初に、ビールの出し方を言わずにワインの出し方を教えてくれたでしょ。ああいう嘘は止めてね」

 「ええ…それは、かしこまりました…。」

 「それじゃ、今日の分の報酬は満たしておいたから。おやすみなさい」

ドゥリンは黙って頭を下げ、台所をでてゆくユーフェミアを見送った。


 書斎と寝室のほうへ向かおうとして、途中で食堂を覗くと、ローグたちの姿は消えていた。自分の寝床へ向かったか、どこかでまた剣でも振っているのかもしれない。部屋の中にいるのは、掃除道具を持って走り回っている小人たちの姿だけだ。

 (そういえば、小人たちはこの屋敷の地下に住んでる、ってドゥリンさんは言ってたわね)

ユーフェミアは、渡り廊下の端にある地下への階段のことを思い出していた。

 あれから結局、奥の方を確かめる機会がないままなのだが、もしかしたら、あの奥が小人たちの居住空間になっているのかもしれない。地下なら太陽の光は当たらないし、これだけ大きな丘の中、それも上には立派な城塞が建っているとなれば、誰も、彼らの住まいを邪魔することはしないだろう。

 小人たちは、そうして千年の間、自分たちの存在が伝承そのものとなるほどの長い時間を隠れ生き延びて来たのだ。

 だが、もしクリーズヴィ家が絶えてしまえば、庇護者はいなくなり、城塞そのものも維持されなくなってしまうかもしれない。

 彼らが、”呪い”をことさらに歓迎する理由は、どこにも無い。

 (その意味では…信じてもいい、はずよね…)

だとすると、分からないのは祖父の残したメッセージだけ。”小人たちを信じるな”と書いたのは、一体、何故なのだろう?


 あれこれと考えながら渡り廊下を歩いていた彼女は、ふと、部屋の前で足を止めた。

 そこに、カーラがちょこんと座って待っていた。

 「カーラさん…?」

 『ああ、悪いね。もう寝る所だっていうのに。あの子に、しばらく一人にしてくれ、とか言われちまってさ。それで――』

くすっと笑って、中庭の向こうの夜空を見上げる。

 『月が出てきたねえ』

 「…そうですね」

本題は何なのだろう。

 ユーフェミアの疑問に答えるように、黒い熊は、おもむろに口を開いた。

 『さっき言った通り、アタシ、千年前の戦いの最後の顛末は知らないんだよ。火山の入口で、あっけなく死んじまったからさ。あれは”蛇”の氏族クランの連中だったねー…待ち伏せだなんて、まったく。蛇の連中らしいクソッタレな戦法だよ。こっちはシグルズも居なかったし、毒を防ぐルーンの効果は切れかけてた。”狼”の氏族クランの連中にヘルガ様の護衛を任せて、あとはよく覚えてない。気がついた時には、シグルズの隣で死にかけてた。…あの子が介錯してくれたのか、無意識にあの子のところへ行こうとしてたのかは分からないけど』

 「それじゃ、やっぱりシグルズさんは、足止めの戦いでは死ななかったんですよね。フレヴナと従者たちが、後から追いかけてきたんでしょう?」

 『…そう、多分ね。シグルズは、その時にはもう、フレヴナ様の”守護”のルーンを持っていたから』

 「それなら、」

思わず、ユーフェミアは一歩踏み出して言葉に力を込めていた。

 「それならどうして、そのことをローグさんに教えなかったんですか? 知っている限りのことを教えていれば、あんなに悩まずに済んだんじゃないんですか。フレヴナが自分に呪いをかけた、なんていう誤解も…」

熊は、ゆっくりと首を振る。

 『アンタも自分で言ってただろ。魂を千年も縛る”誓い”は、”呪い”と変わらないんだよ。たとえ、本人たちにそのつもりが無かったとしてもね』

ユーフェミアは、はっとした

 「カーラさん、もしかして…本当は、ローグさんの”誓い”が何だったのか知ってるんじゃ…?」

 『んー、なんとなくは推測出来るんだけど、確かなことは本人じゃなきゃ分からない。本当は、ここに戻って来るだけで誓いを果たしたことになればいいと思ってたんだけど、甘かったみたいだし…。たぶん、本人が納得するかどうかが大事なんじゃない? 今の、フレヴナ様を憎んでる状態じゃ、きっと意味がないんだと思うよ』

ユーフェミアには、ただ唇を噛むことしか出来なかった。

 そう、きっとカーラは、本当は分かっている。単に言葉で伝えることでは状況を悪化させるだけだと感じているから、そうしないだけなのだ。


 霧の中で見た記憶…千年前のシグルズとカーラのやり取りからして、シグルズは、フレヴナに一定の好意のようなものを抱きかけていたらしい。そしてカーラは、そのことをからかっていた。

 もしも、その”好意”から生まれた”誓い”だったのなら、…確かに今の、フレヴナを恨んでさえいるローグには、決して受け入れられないだろう。


 僅かな沈黙のあと、カーラは、ふいに言った。

 『ねぇ、ユーフェミア。アンタ、フレヴナには似ていないよ』

 「え? …えーと、似てない、ですか」

 『えーえ、ちっとも。アンタ、もし自分の生き方が誰かに決められて、やるべきことを細かく決められていたら、どうする?』

 「それは…」

眉をよせ、しばらく考え込んだあと、ユーフェミアは、きっぱりと答えた。

 「…気に入らないです、そういうの。自分の人生って自分で決めることだと思うし、やるべきことはやるにしても、でも、最終的にどうするかは自分次第だと思う」

 『アハハッ、そう言うと思った~。そうだよねえ、アンタはそういう子だと思った。』

黒い熊は、遠い眼差しをおぼろげな月の輝きへと向ける。

 『…でも、フレヴナにはそれが出来なかった。優しい子だったんだよ、あの戦争だらけの時代に生まれるべきではなかったほどに。父親は幼い頃に戦死して、母親も病気で死んだ。誰よりも強い魔力を持ちながら、そのせいで誰かを傷つけることを恐れて使うことが出来なかった。でも、周りはそれを許さなかったんだ。一族の危機、アスガルドの破滅が迫っていたのだから。あの子には、選択の余地なんてほとんど無かった…』

 「……。」

 『そう、アンタは自分がフレヴナだって言ったけど、アタシからすれば別人だよ。だから逆に安心してるんだ。アンタがもしフレヴナの生まれ変わりだったとしても、フレヴナの記憶を持っているだけの別人だったとしても、アンタなら別の”選択”をすると確信を持てる』

 「私は…。」

 『それでも、あの愚弟はきっと、フレヴナと同じようにアンタのことも気に入ってる。表面上は違ってても、根本は同じってことなのかもね。アンタ、とぼけてるくせに、妙に芯の強いところがあるから…』

クックッと笑うと、熊は、のそりと体を起こした。

 『さーて、お喋りが過ぎたねぇ。それじゃ、そろそろ愚弟のところに戻るわ。おやすみ、お嬢さん』

 「…おやすみなさい」

月明かりの中、黒い影のような熊が、ゆっくりと中庭を横切ってゆく。その後姿が一瞬、赤毛の、霧の中で見た女戦士の記憶と重なった。

 (カーラさんは、きっと…本当に、弟のことが心配だったんだ。ただ、それだけの理由でずっと…。)

彼女は千年の間ずっと、一族の守護霊をしながら、”誓い”によってシグルズが転生してくるのを待っていた。

 彼がいつか、かつて果たせなかったそれを完遂できる日のために。誰にも言えない記憶を抱えたまま、守れなかった者たちのことを思いながら。

 それは、どれほど孤独で、どれほど長い道のりだっただろう。

 胸に込み上げてくるものを抑えたまま、ユーフェミアは、書斎の奥の寝室に戻った。カーテンの隙間からは、細く、月の光が差し込んでいる。

 今日は、子犬のフェンリスは居ない。丘のふもとの、ヘグニの小屋の前で眠っているのを、起こさずに戻ってきたからだ。

 (私は、どうすればいいんだろう…)

寝台の端に腰を下ろしても、彼女は、まだ迷っていた。

 ”呪い”の始まりに関係しそうな、千年前の出来事を覗くつもりだった。でもそれは、本当に見てもいいものなのか?


 『アンタなら別の”選択”をすると確信を持てる』


カーラの言葉が、今更のように胸に突き刺さる。

 それは、今までもずっと、薄々感じていたことだった。幻の中のフレヴナの言動は、自分とは重ならない。彼女の記憶と思われる光景を夢に見ても、それを自分のこととして捉えてはいなかった。

 家庭環境や立場こそ似ているところはあるけれど、考え方も、優先するものも別だ。

 フレヴナはきっと、”おまじない”の本で見つけたルーンを手当たり次第に試してみたり、分からないことを調べようとあちこち首を突っ込んだりはしない。残りの所持金を計算しながら切り詰めて生活することも、狭い寝台で目覚めた朝、頭を思い切り天井にぶつけることもない。


 島の外の世界を知らない。知ろうと思うことも、きっと無い。

 同じ状況に陥ったとしても、同じ行動はとらない、という確信がある。


 ――だからこそ、そんな自分がフレヴナの記憶を覗いていいのか、という疑問がある。同じ情景を見ても、彼女と同じ気持ちにはなれないのに。

 ――それでも…。


 (ううん。それでもいいのかもしれない。っていうか、そのほうが引きずられなくて気が楽、かもしれない)

迷いながら、髪を解いて寝台の上に手足を伸ばす。

 (私は、フレヴナじゃない。ユーフェミアだもの。違ってて、当たり前よ)

あちこち走り回って疲れていたのだろう。ほどなくして、意識は眠りの中に飲み込まれていく。

 静かな月夜に、彼女の眠りを妨げるものは、ひとつを覗いて何も無かった。 ――窓辺を密やかに歩く小さな影が横切った以外には、何も。



◆◆◆


 迷っていたはずなのに、いざ目を閉じれば、目の前に広がるのは、当たり前のように千年前の光景だ。

 馬たちが放牧されている牧草地。すぐ側には別荘らしき屋敷があり、振り返ると、見覚えのある丘が、墓所である塚が、少し離れたところに見えている。

 (ここって、…あのお墓の側に見えてた廃墟なのね)

今はもちろん、廃墟などではない。いくつかの塔と防衛用の城壁を備えた、立派な石造りの建物だ。一族にとって大事な場所である墓所を監視し、守るために作られた出城、といったところだろうか。

 ユーフェミア――今はフレヴナ――が立っている場所は、その城壁の上らしかった。

 「あの…」

側で、別の少女の声がした。

 はっとして、彼女は振り返る。

 すぐ側に、そばかすのある少女が立っている。粗末な織物の下女のような服を着て、羊の皮を縫いあわせた靴を履き、痩せっぽちの体は垢だらけだ。フレヴナの透き通るような白い肌とは対照的な、浅黒い色の肌。くすんだ色の髪の毛はひどい癖っ毛で、ろくに櫛を通したこともないのか、ぱさぱさに荒れて、辛うじて金髪らしいということが分かる程度。

 「連れてきてくださって…ありがとうございます。フレヴナ様」

前髪で顔を隠すようにしながら、少女は弱々しく頭を下げた。

 「ううん、気にしないで。それに、様だなんて。私たち、大して年も変わらないんだし、普通に呼んでもらって構わないのよ。私も、あなたのこと”ラウフェイ”って呼びたいし」

 「でも…。あたしは、次期族長のフレヴナ様とは違います」

ラウフェイと呼ばれた少女は、俯いた。

 「みそっかすの邪魔者で、どちらの一族にも仲間には入れてもらえません。…姿だって綺麗じゃないし、何の力もないし…。」

 「そうなの? でも、ルーンは使えるでしょう? この間、烏が羊の子をいじめていた時に、追い払っていたじゃない」

 「あっ! あれは…たまたま、で…」

痩せこけた少女は、ますます縮こまってしまう。

 「だ、誰にも言わないでください。お願いです。ルーンなんて…神々の末裔でなければ使えない力…あ、あたしみたいなのが勝手に描いたって知られたら、きっとまた叱られます…」

 「でも、使えるんでしょう? それなら、素晴らしいことだと思う。私なんて、いまだに使えないルーンがあるくらいだもの。きっと才能ないんだと思うな。叔母様が、早く諦めてくださればいいんだけど」

 「……。」

 「あっ、そうだラウフェイ。一緒に、練習しない? 従兄弟たちはルーンより武術のほうに夢中だし、練習相手っていないの」

 「あ、あたしで良ければ…。」

 「じゃあ決まり! 一緒に練習して、みんなを驚かせましょう」

初めて同じ年頃の友達に出会ったフレヴナの声は、これまで見てきた記憶のどれよりも明るく弾んでいた。対して、どこか影のある少女、ラウフェイのほうは、曖昧に微笑むばかりだ。

 「…ヘイズお兄様は、フレヴナ様に求婚されたと聞きました」

ラウフェイの言葉に、フレヴナの動きが一瞬、止まった。

 「お受けになるのですか」

 「ええと、それは…どうかしらね。もちろん、ヘイズ様は、いい人よ。あなたのことも気にされている優しい方だし…でも…叔母様は、あまりいい顔をされていない。ヴァニールとエーシルの通婚は珍しくないけれど、このままでは一族がエーシルの傘下に入ってしまうって…。」

 「羨ましい。フレヴナ様ほどのお方なら、いくつもの求婚を受けて、その中から相手を選べる」

 「そんなこと…。次の族長ってことになっているからよ。ほとんど政略結婚だもの」 

 「ヘイズお兄様は純粋に想いを寄せておいでですよ。それに、いつも連れておられるあの方も」

ちら、と視線を城壁の外へやったラウフェイの言葉が、誰を指しているのかはわかっていた。

 ――偉大なるエーシルの族長ヘリアンの末息子と、無高き狂戦士ベルセルクの英雄。

 どちらも戦場で名を馳せた有望な若者たち。

 「本当に、羨ましい…。」

浅黒い肌の少女は低く呟いて、顔を伏せた。


 光と影。

 望まれた正嫡と、望まれざる落とし子。

 二人は、全てが表と裏のように正反対だった。それでもこの時まではまだ、決定的な断絶は起きていなかったのだ。

 少なくともフレヴナは、ラウフェイと友達でいられると信じていた。


 城壁の上で声を弾ませているフレヴナのところへ、護衛らしきシグルズが近づいてくる。

 「フレヴナ様、そろそろ屋敷に戻らないと」

 「あっ、もうそんな時間? じゃ、ラウフェイ。また会いに行くわ」

 「…はい。あたしも自分の小屋に戻ります」

そばかすの少女は二人それぞれに頭を下げ、ちら、とシグルズのほうを見やってから、そそくさと城壁から降りてゆく。

 「……。」

熊の戦士は怪訝そうな顔で、片方の眉を跳ね上げた。そして、口調をざっくばらんなものに切り替えた。

 「なあ、フレヴナ。あの娘、あまり親しくしないほうがいいんじゃないか? どうにも良くない目つきだ」

 「え? でも、叔母様に仲良くしてあげてって言われたのよ。この間、ヘリアン様のところへお伺いした時、御子息のヘイズ様じきじきに頼まれたの、あなたも聞いてたでしょう」

 「まあな。だが、あの娘は半分ヨートゥンの血を引いてる。偽りの宴で母親もろとも親族を殺された恨みだってあるかもしれない。腹の中で何を考えてるかが読めん」

 「そんなこと言わないでよ、私の友達なのに。ヨートゥンだからってだけで蔑むのは良くないわよ。確かに見た目はちょっと怖い人が多いけど…でも、言葉は通じるんだし」

 「何でも話し合いで解決できるなら、こんな戦争だらけの世の中にはなってないんだがな…」

ため息まじりに、男は踵を返す。

 「まあ、いい。そういう優しさを持ってる奴も、一人くらいはいたほうがいいんだろう。あんたに何か悪さをするなら、あんたの護衛たちがただじゃおかんだろうしな。」

 「ヨルムとフェンリスだけじゃないわ、あなたもよシグルズ。ラウフェイに変な疑いをかけちゃダメよ?」

 「分かってるよ…。」

他に誰もいない城壁の上での二人の会話は親しげで、従兄弟たちと同じか、それ以上に近いものに感じられた。


 記憶を通して、フレヴナの甘酸っぱい、春の空気に似た感情が伝わってくる。

 それは、今のフレヴナの年齢を越えているはずのユーフェミアにとっては、いまだ一度も味わったことのないものだった。

 (やっぱり、そういうこと…よね…。)

このあとの悲劇は、予想がつく。きっと、その通りのことが起きたのだ。

 この気弱なフレヴナが自ら危険な戦場に出ていくなど、想いを寄せていた相手が危機に陥って瀕死になっているのでもなければ有り得ない。

 おそらく彼女は実際に、従兄弟たちを連れて戦場へ飛び出した。シグルズを救うために――彼に”守護”のルーンを与えたのも、その時なのだろう。


 そして、その後は?


 (分かっていることは、ヘルガが役目を果たせず力尽きたこと。エーシル族は全滅して、フレヴナに求婚していたっていう、あのヘイズって人もどこかで死んでしまったってこと。シグルズと、カーラさんも。フレヴナは…? 生き残ったのなら、途中で引き返した? それとも…。)

眠りが浅くなりはじめ、記憶の中の風景がかすれてゆく。

 もっと夢を見ていたいのに、何かが眠りを中断しようとしている。


◆◆◆


 しばし抵抗したあと、ユーフェミアは、諦めて目を開いた。

 そして、気付いた。

 「…あれ?」

枕の上に投げ出していた左腕が軽くなっている。

 慌てて起き上がり、周囲を見回した彼女は、嵌めていた腕輪がどこにも無いことに気づいて絶句した。

 (うそ、でしょ…?)

眠りに落ちる前には、確かに腕にあったのに。

 寝相が悪すぎてどこか吹っ飛んでしまったのかと毛布をめくり、枕を持ち上げて探し回ったあと、彼女は理解した。


 何者かが、寝ている腕から腕輪を抜き取って、持ち去ったのだと。

 ――この屋敷の中で、そんなことが出来る者は、小人たち以外にはいない。

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