第18話 冷たい雨の夜

 村を後に丘の上の屋敷へ戻る途中、ユーフェミアの足取りは、霧の中で見た幻のせいで重かった。背中には、まだ冷たい汗の跡が残っている。

 火山の噴火など、世界中を見渡せばそれほど珍しい出来事ではない。

 だが、目の前で起きた、島の半分も吹き飛ばすほどの大噴火は、予想をはるかに超える衝撃的なものだった。あの瞬間をひと目見ただけで、そのあとに破局的な破壊が起きると分かってしまった。

 (千年前、エーシル族とヴァニール族は、来たるべき大噴火に備えようとしていた…。溶岩を防ぐ大城壁を築き、いつ噴火が起きるか探るため斥候を送って。でも、それらはすべて無駄に終わったんだ)

丘の中腹で足を止めて丘から見えるフェンサリルの平原のほうを振り返ると、今まで気づいていなかったものが見えた。

 溶岩流の痕跡だ。

 平原の奥、火山のふもとから北西に向かって、溶岩の冷えて固まった黒い岩が、弧を描くようにして盛り上がっている。

 そこがおそらく、かつて築かれた大城壁の跡なのだろう。

 一部は機能し、現在のフェンサリル村と、ヴァニールの居城だった丘の上の城より東側は守られた。だが、火山に近いあたりや、火山の西側の海に続く地域は壊滅的だったはずだ。

 そして、今残っている火山が縦に細長く、千年前の姿からすればおおよそ半分ほどの堆積になっているところからして、火山の西半分も、島の南西部分ともに吹き飛んで海に沈んでしまったと思われた。

 ”エーシル族は全滅”、――それまで単なる大昔の出来事でしかなった情報が、一瞬にして「現実に起きた出来事」として迫って来る。

 多くの人が死んだのだ。

 予言の力によってそれを防ぐはずだったヴァニール族は、どういうわけか災厄を防ぐことに失敗した。

 協力関係にあったエーシル族は領地もろとも海に消え、侵略者だったヨートゥン族もまた死に絶えた。生き残ったヴァニール族も、力を持つ指導者を失い、衰えゆくさだめにあった。

 火山の大噴火は、まさに”滅び”をもたらす災いだったのだ。


 さっきの霧とともに押し寄せてきた分厚い雲が太陽の光を遮り、辺りには、なんとも言えない嫌な気配のする影を落としている。今朝はよく晴れていた空が、今にも崩れだしそうな色をして広がっている。

 魔犬の守る森の入口まで来た時、ちょうど、屋敷のほうからヘグニが降りてくるところだった。

 「おや、ユーフェミア様。いまお戻りですか? もしも昼食がまだでしたら、簡単なものは台所に準備しております」

 「ありがとう。…」

 「どうか、されましたかな?」

ユーフェミアに元気が無さそうなのを見て、老人は首を傾げる。

 「大昔の噴火の実感が湧いてきたら、なんだか怖くなってしまって…。」

 「博物館に、そんな展示でもありましたか」

ヘグニは、あごに生えたひょろひょろとしたヒゲを手でしごきながら、平原のほうに視線を向ける。

 「前回の噴火からそろそろ千年。最近は地震も多くなってますし、確かに、そろそろまた噴火が起きてもおかしくはない。とはいえ、自然のことはどうしようもない。わしらはここで生まれ、ここで死んでいくことを決めた民だ。何が起きようとも、受け入れて淡々と立ち向かう。それだけです」

 「でも、…」

舌がもつれた。

 「ええと、その。…昔の人たちも、ただ噴火を待っていたわけじゃなかったんでしょう? 今回だって、何か備えをしておいたほうがいいんじゃないんですか? 私に出来ることは…」

 「ふん、誰ぞが余計なことを言いおったんですかな」

ヘグニは低い声で呟き、すぐに、明るい声になる。

 「ご安心ください。火の山を鎮めるルーンがあるなど、過去の言い伝えです。エイリミ様の亡くなられた今となっては、知る者は誰もおりませんしな。今の時代には、族長ゴジを生贄のように滅びの山に送り込むなどという野蛮なことは、もう致しませんよ。」

 「……え?」

 「失ったものが大きすぎた。…そう、…ヘルガ様で最後なのです。”予言の巫女”を犠牲にしてしまったから、呪いが…ふりかかった…。」

後半はほとんど独り言のように言って、ヘグニは、ぶつぶつと何やら呟きながら山を降りてゆく。

 ユーフェミアはあっけにとられ、しばらくヘグニの後ろ姿を見送っていた。

 (生贄…? ”火の山を鎮めるルーン”?)

脳裏に、屋敷の屋上で見た決意を秘めたヘルガの姿と、父の手紙の内容がよぎった。

 あの時ヘルガは、まるで死地に赴くかのような悲壮な決意をもって、「我が命を賭しても」と言っていた。そして父の手紙には、祖父に充てて、「一族のルーンの秘密を明かして欲しい」と書かれていた。


 一族にかけられた呪い。女族長とその後継者。千年前に起きた大噴火と戦い。


 もしかしたらヘルガは、その秘密のルーンを使って、あの大噴火を何とかするつもりだったのかもしれない。もしかしたら、彼女は犠牲となって死んでお陰でヴァニールは全滅を免れた? それで、残された人々は自責の念を抱き続けていた?

 だとしたら、フレヴナは…彼女は一体、その件にどう関係してくるのだろう。

 そもそも、次期族長だったフレヴナは、噴火の時に一体どこでどうしていたのか。

 (火山が噴火した時、一体、何があったの?…)

海の方から吹いてきた風が、足元の夏草を揺らしてゆく。

 湿り気を含んだ風とともに、静かに雨の気配が近づいてくる。ぽつ、ぽつと雨粒が頬に触れる。

 胸のざわめきが収まらない。自分は何か、知っているような気がする。何か、とても大切なことを――思い出せそうなのに思い出せない…。


 だが、考えている余裕は、あまり無かった。

 雲から降りてくる雨のカーテンが静かに忍び寄っている。じっとしていたら、ずぶ濡れになってしまう。

 それに気づいたユーフェミアは、慌てて丘の残りの道を駆け戻っていった。




 屋敷の入口までたどり着いて一息つくのとほぼ同時に、玄関に、ざあーっと土砂降りの音が響き渡る。どうやら間一髪だったようだ。

 建物の中は、一気に夜かと思うほど暗くなる。そのせいか、小人たちが天井や壁の隙間からぴょこぴょこと湧き出してきて、いつもより早く仕事を始めた。執事の格好をしたドゥリンも現れて、ちょこちょことユーフェミアの足元に近づき、胸に手をやって一礼した。

 「お帰りなさいませ、ご主人様。お濡れにはなりませんでしたか」

 「ええ、なんとか間に合ったわ。」

答えながら、玄関に吊るされたガラス製のランプの表面に”灯り”のルーンを描く。足元が明るくなると、少しだけほっとした。

 どうやら小人たちが苦手なのは本物の陽光だけで、この魔法の灯りなら大丈夫らしい。明るくなっても逃げようとはしない。

 「ワン! ワン!」

留守番をしていたフェンリスが足元に駆け寄ってきて、尻尾を振っている。

 「昼食がまだでしたら、ご用意いたしますか?」

ドゥリンは、いかにも執事らしく尋ねる。

 「お願いするわ。ヘグニさんが何か用意してくれてるはずなの」

こちらも、報酬は支払っているのだから遠慮はしない。

 食堂に向かうと、ちょうど、ローグが中庭から戻って来るところだった。こちらは間に合わなかったらしく、少し濡れてしまっている。

 「戻っていたのか」

 「そちらもね。探し物は、見つかりそう?」

 「いいや。ただ、まあ、焦っても仕方のない問題だ。ぼちぼち探すさ」

何も言っていないのに、小人たちは二人ぶんの食器を運んでくる。昼食を一緒に取るのだと思ったらしい。

 「せっかくだし、座って話しましょう。ローグさんもお昼、まだなんでしょ?」

 「…そうだな。」

窓には滝のように雨が叩きつけ、外は真っ暗だ。

 このぶんだと村にいた三人組も、ホテルに戻れずに村の建物に避難しているか、戻る途中でずぶ濡れになっているかもしれない。

 「船で一緒だったあの三人、さっき、ふもとの村で会ったわ」

ユーフェミアが切り出すと、ローグは、拒否感を示すように表情を歪めた。

 「あいつら…。本当にフェンサリルまで来たのか。怖いもの知らずだな」

 「そういえば、知り合いじゃなかったんですよね? 確か、港町で警官の人がそう言ってました」

 「ああ。中央島セントラルの船着き場が初対面だ。俺の手配書を見たことがあったらしくて、同じ犯罪者同士、仲良くしようなどと言ってきた。小狡い詐欺師なんぞと一緒にされるのは不愉快極まりなかったんだが、ヘタに騒がれるのも厄介だったからな」

ユーフェミアは、きょとんとした顔で目をしばたかせた。

 「…”詐欺師”?」

そんな職業は、小説の中でしか見たことがない。

 ローグは頷いて、心底軽蔑しているような口調で付け足した。

 「正確には、詐欺やら空き巣やらで稼いでる連中だな。まだ手配書が出回らないうちに中央島セントラルを脱出して、辺境の島に身を隠すつもりでアスガルドへ来たらしい。この島なら、最新の情報が届くまでに一ヶ月はかかる。それまでに、島で手頃な潜伏先でも探すつもりなんだろう」

 「でも、あの人たちは学生証を持ってて――中央大学の学生だって…」

 「そんなもの、いくらでも偽造できる。詐欺師なんだからな。どうせ島の警官は、本物の学生証なんて見たこともないだろう」

 「えっ。じゃあ、警官も騙されていたってことですか? ローグさんだけ切り捨てられたってこと?」

 「そういうことだ。最初から信用なんざしてなかったが、俺が疑われたとたん知らばっくれやがって」

 「……。」

どおりで、最初からローグだけ浮いていたわけだ。それに、仲が良さそうには見えなかったのも当然だった。彼らは出会ったばかりだったし、島へ渡る目的も違っていたのだから。


 話しているところへ、小人たちが丁寧に盛り付けられた皿を運んでくる。器用に椅子に飛び乗り、背の足りないぶんは肩車をして、スープを零さないよう皿を並べていく。銀のフォークとナイフ。上等なナプキンと、年代物の器。

 食事自体はごちそうとまではいかないが、並べられた食器は、まるで貴族か王様の宮廷のようだ。

 「えーっと…。」

ユーフェミアは、ちらと小人のドゥリンのほうを見やった。

 「…もう少し、庶民的な食器は無いの?」

 「庶民的とは?」

 「安物、というか…地味なものというか。」

 「気がねする必要ないだろ。あんたの家の持ち物なんだし」

ローグのほうは、臆する様子もなく銀のスプーンを手に、さっさとスープに手をつけている。放浪生活をしていたわりには、随分と食器の扱いに慣れている様子だ。

 「だけど、割っちゃったらどうしよう…。今更なんだけど、もしかしてうちのお祖父さんって物凄いお金持ちだった?」

 「だろうな」

あっさりした言い方だ。

 「だろうな、って。」

 「クリーズヴィ家といえば、膨大な富を抱え込んだ”黄金の一族”の末裔だ。嘘か本当かは知らんが、神話の時代には魔法で石を黄金に変えたり、貴重な鉱山から湯水のように金を掘り出したりしていたらしい。この城のどこかに、宝物庫くらいあるかもしれないな」

 「ええっ…。それ、相続税ってどのくらいかかるの?」

 「知らん」

 「困るなあ…」

 「というか、あの三人のお目当ての一つが、その財宝伝説なんだ。この城が無人になってるって噂を聞いて、一山当てるつもりで宝探しに来たんだよ」

 「!」

パンでスープをすくおうとしていたユーフェミアの手が、ぴたりと止まった。

 この屋敷で、宝探し?

 確かに、博物館で出会った時も、「探検してみたい」などと言っていた。あれは、冗談ではなく本心からだったのか。まさか、本気でここに侵入を試みるつもりとも思えないが…。

 ユーフェミアの強張った表情に気づいて、ローグは口の端を釣り上げた。

 「何の心配がある? あの魔獣が守ってるんだ。ただのコソ泥に突破できるはずもないだろう」

 「そんなの分かってます。ただ、…ガルムがやりすぎてしまわないか心配なの。自宅の目の前で人が殺されて転がってたら、嫌でしょ?」

 「なら、そこの小人たちに片付けてもらったらどうだ」

 「死体をそのへんに埋められても困りますってば! …ああ、どうしよう。あとでガルムにしっかり言い聞かせておかないと」

 「ご主人様は、お優しいことで」

食卓の側に控えているドゥリンが苦笑する。

 「関わり合いになりたくないんだろ。ま、俺も、価値のない殺しはやりたくない。気持ちは分かる」

 「いかにも狂戦士ベルセルクらしいご意見ですなぁ」

クックッと小人が笑う。

 「…ところで、食後のお飲み物はどうなさいます? 紅茶か、薬草茶か。」

 「私は要らないわ。ローグさんは?」

 「俺も不要だ」

そう言って、さっと席を立つ。

 「おや、もうお食事はよろしいので? でしたら、お召し物のお洗濯をさせていただきたく」

 「はぁ? 何だ、洗濯って」

 「そのう、お客人には申し訳ないのですが、少々…匂いましてな」

言いながら小人は、大げさに鼻をつまむ振りをする。

 「雨の日は洗濯日和なのです。貯水槽に水もたっぷり溜まっておりますしな。お着替えは用意いたします。さ、こちらへ」

 「必要ないってのに…」

嫌がるローグを取り囲むようにして、小人たちは、使用人部屋のあるほうへ消えていく。

 「…貯水槽?」

ユーフェミアは首を傾げた。

 「屋上から雨樋いを引いて、中庭の下に流れ込むようになっているのです」

と、ドゥリン。

 「ご主人様も、シャワーをお浴びになられますかな? 先代の奥方が使われていたお召し物をお持ちしましょう」

 「でも私、女物ってなかなか合うサイズがなくて…。」

 「ご心配なく」

小人は、にいっと笑った。

 「この屋敷に住んでおられた方々は皆、大柄でいらっしゃいましたゆえ。合うものを探して参ります。」

 「そう? じゃ、お願いしようかな…」

ユーフェミアは心配になって、自分の臭いを嗅いだ。そういえば、しばらくシャワーなど浴びていない。最後にお風呂を使ったのは中央島セントラルの家を離れる前だから、一週間近く前になる。

 (確かに、そろそろ臭いが気になるかも…。服も、しばらく洗っていないし)

 「では、準備して参りますので、しばしお待ちを」

ドゥリンは一礼して、シャワー室のあるほうへ消えていった。


 雨はまだ降り止まず、窓を叩く音は変わらない。

 ユーフェミアたちと一緒に昼食を食べた子犬は、お腹がくちくなったからなのか、椅子の下で丸くなって眠っている。

 椅子に腰を下ろしたまま、ユーフェミアは、屋敷の中に響く雨の音を聞いていた。

 どこか遠くで、雷のような、低く天の唸る音がする。風も出てきたらしい。にわか雨かと思っていたが、どうやら、しばらく止みそうな気配は無かった。

 (…意外と、静かなものね)

魔法の灯りが白く降らしだす広い食堂を眺めやる。


 と、ふと、今まで気づいていなかった壁の絵画に視線が留まった。

 ずっと、ただの美術品だと思っていたのだが、そうではない。その絵は、威厳ある老人と、老人を取り囲む家族の肖像画になっていた。

 縁に刻まれた年代はおよそ百五十年ほど前。杖を手に、椅子に腰を下ろした老人は、当時のこの屋敷の当主だろうか。子どもたち、孫たち。二十人ばかりの血縁者に囲まれて、絵の中の老人は誇らしげに見える。

 絵の前に立って眺めていると、ドゥリンが戻ってきた。

 「お待たせいたしました…おや。」

ユーフェミアの視線に気づいて、僅かに口調を変える。

 「それは三代ほど前の族長ゴジ、お名前は先代と同じエイリミ様と仰る方の肖像ですよ。」

 「ここに描かれているのは家族よね? 子沢山だし、女性もいるみたいに見えるけど…」

 「女性は皆、三人の御子息の奥方です。末の娘ごは、九つの年に熱病でご逝去なさいました。」

 「よく知っているのね。」

 「覚えているのですよ。我々、ドヴェルグ族の寿命は長い。かつては五百年生きたという者もおりまして、わたくしめも、齢三百ほどになります」

 「…そんなに?」

驚くと同時に、少しがっかりもした。長い、とは言っても、ほんの数百年前のことまでしか知らないのだ。

 (そうよね。千年も昔のことなんて、誰も覚えてるはずがない…)

大噴火の時のことを知りたかったが、今のところ、まだ書斎ではそれらしい記録は見つけられていないのだ。覚えていそうな人たちももう他界しているという話だったし、小人たちも知らなければ、あとは霧の中で偶然見える風景に賭けるしかなさそうだった。

 「この絵の描かれた頃には、御子息夫妻とお孫様、それに親戚筋の方が何人か、こちらにお住まいでした。エイリミ様の三人の御子息のうち、次男ヴィリ殿のお孫さまにあたるお方が、先代エイリミ様でいらっしゃいます」

シャワー室のほうに向かってユーフェミアを導きながら、小人は語る。

 「他の人たちは、どうなったの? こんなに沢山の家族がいたのに、今は誰もいないのは、どうして?」

 「……。」

返事は、ない。

 沈黙のまま、シャワー室の前までやって来たドゥリンは、他の小人たちからタオルと石鹸を受け取ると、黙ってユーフェミアに差し出した。

 「あ、…えーと、ありがとう。」

 (答えられない、ってことかな…。)

もしくは、言いたくないか。

 ただ、分かったことはある。

 クリーズヴィ家の人々が死に絶えたのは、ここ百年かそこらのことなのだ。それまでは、女家長こそいないまでも女の子は生まれていたし、それなりの人数がこの屋敷に暮らしていたのだ。

 それが皆、いなくなってしまったのは何故なのだろう?


 小人たちが湯を沸かして用意してくれたシャワーで一息つきながら、ユーフェミアは、食堂にあった肖像画と、祖父の書斎にあった家族写真のことを思い出していた。

 書斎の写真には、祖父と祖母らしき夫婦、二人の子どもたちが写っていた。他の親族は誰もいなかった。

 (お祖父さんが次男の子孫ってことは、たぶん、百五十年前のご先祖様の時代から、お祖父さんまでの間に何かあったってことね。)

長い髪を解いて、丁寧に洗っていくのは時間がかかる。お湯を無駄にしないよう、桶に溜めて少しずつゆすいでいく間、考える時間は十分にある。

 (…”呪い”の話って、一体、いつからあるんだろう。皆は千年前の話をするけれど、とてもそんな昔からとは思えない…。)

顔にかかる水滴を振りはらい、長い銀の髪をひとつにまとめて垂らす。

 (だって、一族が滅びるように呪いをかけたのなら、一族が千年も続くはずが無い。女族長がいなかったとしても、女の子が生まれなかったわけじゃないし…。幼くして死んでしまってたのなら、運みたいなものかもしれないし)

シャワー室を出て、用意されていたタオルで髪の水気を払い、体についた水滴を拭い取る。

 「ふー。気持ち良かった」

思わず、声が出てしまう。

 シャワー室の外に出ると、籠の中に入れておいた服がなくなり、代わりに、着替えが入れられている。小人たちがやって来て、服を取り替えていったらしい。

 入っていた着替えは、…取り出してみると、ナイトドレスのような豪華なものだった。長さこそユーフェミアにぴったりだが、少しばかり派手すぎる。

 「…うわあ…。」

思わず、声が出た。

 年代物の、お伽噺のお姫様が着るようなヒラヒラしたフリルつきの、ゆったりとした袖口を持つドレス。それに、毛皮の縁取りのあるナイトガウン。とても着ているところを人には見せられない。

 迷った挙げ句、彼女は、一緒に置かれていた下着とガウンだけ手に取った。この年代ものの服を一体どこから持ち出してきたのかは、あとで小人たちに聞いて、着られそうなものを自分で探したほうが良さそうだ。

 髪をまとめ上げながらシャワー室を出ると、待ち受けていたドゥリンが、目をぱちぱちさせてユーフェミアを見上げた。

 「ご用意しておりました装身具は、お使いになりませんのですか」

 「装身具?…」

 「護符の腕輪と、首飾りと、耳飾りも。ヘビ除けの腕輪は、ぜひお持ちになってください。この辺りは、毒蛇が多いのですから」

ドゥリンも、ヘグニと同じようなことを言う。

 「他の装身具も、護符ってこと? そんなに沢山、必要なの」

 「ええ、ええ。それはもう。この地には、古い時代にかけられた呪いや災いが、いまだ多く残されております。火山から流れてくる毒の霧。地震で降ってくる石。鳥たちが運ぶ伝染病もありますし、果実でさえ、時おり毒の実をつけまする。お屋敷の中におられる限りは安全でしょうが、外にお出かけになるならば、是非ともお持ちいただかねば」

 「……。」

勢い込んで語る小人の言葉を、ユーフェミアは、信じられないように、信じたくないような思いで聞いていた。

 これでは、一族が呪われている、というよりは、このフェンサリルそのものが呪われた土地のように聞こえる。

 それとも、これが”ありのままの自然”ということになのだろうか? 都会化した他の島では消えてしまった、一昔前まで当たり前だった”自然”という危険が残されている、と解釈すべきなのか。

 (そういえば、昔の人たちは何かにつけてお祈りをしたり、お守りをつけたりしていたって、何かの本で読んだことがある。病気の原因も分からないから、悪い霊だと思っていた、とか…。)

使い込まれた護符を手にしながら、ユーフェミアは、少し考えこんだ。小人は真剣な様子だし、もしかしたら、本当に何か”呪い”のようなものから身を守る必要があるのかもしれない。

 「分かったわ、できる限りは身につけておく。でも、金属のはちょっと重すぎるし、もっと目立たない護符のほうがいいわね。…装身具は、どこから取ってきたの? 用意してもらった着替えもそうだけど、私にはちょっと派手すぎて…。別のがあるなら、見てみたいんだけど」

 「ああ、確かに。ご主人様はまだお若い。既婚女性のドレスは早すぎましたか」

 (そういう意味じゃないんだけどね…)

苦笑しながらも、ユーフェミアは頷いた。

 「それでは、衣装部屋へご案内致しましょう。お二階です。どうぞ、こちらへ」

小人について、階段を上がっていく。

 と、行く手の二階の方から、何やらローグの悲鳴にも似た声が響いてきた。

 「おい、やめろ! そんな道化みたいなものを着せようとするな!」

 「えっ? 一体、何の騒ぎ?」

声のするほうへ行って部屋を覗いてみると、ズボンだけを身に着けた半裸のローグが、立派な上着を着せようとしている小人たち相手に暴れているところだった。足元では、半透明な黒い熊が、ニヤニヤしながら様子見をしている。

 ユーフェミアが入口に立って見ているのに気づいたローグは、顔を真赤にして両手を振った。

 「うわっ! 覗きに来るんじゃねぇ」

普段はやたら冷静沈着な態度の彼が、こんなにうろたえているのは珍しい。ユーフェミアのほうは、一体何がそんなに慌てる要因なのかと首を傾げていた。

 「その服の何がダメなの? かっこいいじゃないですか」

 「んなわけあるか! 仮装パーティーじゃねぇんだぞ。なんだこの、ヒラヒラした袖は! しかもマントつきだぞ、マントつき」

 「うーーん…マントっていうか、それ、外套じゃないですか? 昔の貴族みたいでお洒落だと思うんだけどなぁ」

ユーフェミアは、ちらりと熊のほうに視線をやる。守護霊とはいえ、こうした命の危険のない事柄には知らんぷりを決め込んでいるらしい。小人たちは悪意があって着替えをさせようとしているわけではないし、当然といえば当然だ。

 「勝手に俺の服を洗いやがって…何が『屋敷に相応しい品格ある装いを』だ!」

 「確かに、今までの服ってボロボロだったものね。ひとまず、いつまでも半裸でいられると困るので、それを着てからほかの服を探してもらえませんか? 私も、着られそうな服をこれから探すところなの」

 「くそっ…あっこら、勝手に袖を通すな…! おい、ユーフェミア! こいつら、どうにか…!」

暴れているローグを無視して、ユーフェミアは、ドゥリンとともに隣の部屋に向かった。

 「どうぞ。こちらが衣装部屋でございます」

 「ありがとう」

部屋の中には、大きなタンスがずらりと並び、櫃がいくつかと、姿見の鏡と化粧台と椅子が置かれている。まるで、舞踏会の前に念入りにドレスを選ぶための衣装部屋のようだ。

 隣の部屋の大騒ぎは放っておいて、彼女は、目の前にあったタンスを開いた。意外にも、真っ先に目に留まったのは、子供用のスカートだった。

 (これは…。)

広げてみると、まだ新品同然で、雰囲気からしてそれほど古くない。

 はっとした。

 (もしかして、これ…ヘルガ叔母さんの?)

父の妹で、幼くして亡くなった少女。

 スカートの下には上着も、靴下も、衣装の一式が丁寧に畳まれて保管されている。ここにあるのは、家族の嘆きと、忘れ得ぬ痛みの記憶の残骸だ。

 そっと子供の服を元に戻し、すぐ隣のタンスを開いてみる。こちらは大人用の衣装で、女性用のスカートや、ゆったりとしたズボンなどがある。地味めのものも何枚かあり、ユーフェミアは、それらを選んで手に取った。

 (長さは、っと。…うん、大丈夫そうね。あとは…装身具)

引き出しを開くと、中には何種類もの飾りが揃っていた。どれも豪華なものばかりで、ユーフェミアは、くらくらしてきた。

 (ええっ…と…。)

刻まれている模様を見れば、それぞれが違う効果のあるものだとは分かる。ただ、こんなに沢山の装身具を見るのは、生まれて初めてだった。しかも、それらが全て自分のもので、どれでも自由に身に着けていい、などと。

 ユーフェミアは、首にかけていた安物の鎖をそっと引っ張り出した。鎖の先には、母の遺品である歪んだ形の指輪がぶら下がっている。

 中央島セントラルで母と暮らしていた頃は、首飾りの一つだって身につけたことはない。生活が苦しくて、不要なものなど買う余裕は無かった。

 母にしたって、飾りどころか化粧すら滅多にせずに働き詰めで、唯一持っていた装飾品が、この、むかし父に贈られたという手作りの指輪だった。

 店で買ったのではない。鉄か何かをメッキして作ったような、不器用な台座にガラス玉を載せただけの、まるで子どもの工作のような代物。

 それに比べれば、ここにある輝石をふんだんに使った骨董品は、あまりに高価過ぎる。

 (私には過ぎた財産ね。…)

ため息を付きながら、いくつかを手にとった。ずしりと重たい。金も銀も、純度の高いものが使われているせいだ。

 黄金の杯、膨大な蔵書、高価な食器に山ほどの装身具と衣装。

 きっとこの屋敷には、他にも、まだ確かめていない財宝が眠っているのに違いない。


 と、その時、ふと上げた視線の先に、髪飾りがまとめられているのに気がついた。リボンや櫛。その中にあった、、花飾りのように輝石のあしらわれた銀のピンが目を引いた。垢抜けたデザインで、都会の小物屋で売られていても不思議はないくらいだ。

 取り上げて、こめかみの髪の毛をまとめ上げて留めてみる。鏡に映して、少し首を傾げてみたり、角度を変えてみる。

 (これ、…いいかも)

ユーフェミアは、思わず微笑んだ。生まれて初めて、自分で選んだお気に入りの髪飾りだ。


 そのあとは、着替え用に何着かの服を選んで衣装部屋を出た。

 「お決まりですか? …おや」

ドゥリンは、目ざとくユーフェミアがつけている髪飾りを見上げた。

 「その髪留めは、お父上の妹君がお気に召しておられた品ですな」

 「ヘルガ叔母さんが?」

 「ええ。亡くなられた夜も…おっと」

小人は、慌てて口に手をやる。

 だが、ユーフェミアはもう聞いてしまっていた。

 「…聞かせて」

彼女は、誤魔化すように視線を逸らす小人の視線の先に回り込んだ。

 「ヘルガ叔母さんは、どうして亡くなったの? お父さんが島を出たのって、そのせいなの? 昔からこのお屋敷にいたのなら、知ってるんでしょ」

 「ええと…それは、その。ううん…ごほん」

何度か咳払いをして、目を泳がせていたあと、観念したように口を開く。


 彼から聞かされたことは、ユーフェミアにとって、思いもよらない重い事実だった。

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