第17話 生存の朝
犬の鳴き声で、ぼんやりと目を開けた。
「ワン、ワン!」
「うーん……うん?」
顔を舐め回している子犬を認識した瞬間、思わず、がばりと飛び起きた。
「あっ!」
反射的に両手で頭を抑えたのは、天井に頭をぶつけると思ったからだった。
だが、なんともない。
「…あれ?」
見上げた天井は高く、木目に何か彩色の施されたような跡がある。お屋敷の書斎――。
ここがアスガルドの奥地だということを思い出したユーフェミアは、思わず、安堵のため息を漏らした。
(家に居た頃は、いつも頭ぶつけてたからなあ…。)
十代になって身長が伸びてからというもの、
まず、自宅の寝室が狭く、親子二人で寝るためには、二段ベッドを置く必要があり、それが狭かった。長さが少し足りず、足元は窮屈だったし、なによりも天井部分が問題だ。
少しでも空間が広い方、ということで上の段はユーフェミアが使っていたのだが、それでも、起き上がるだけで頭が天井につっかえた。それが始まりで、お次は出かける時の玄関。通学のためのバスの乗降口。気を付けていないと、一日に数度は痛い思いをするハメになった。
それが、このアスガルドに来てから、特にフェンサリルでは、一度も頭をぶつけることもなく、危なげなく暮らせているのだから有り難い。フェンサリルの人はみんな背が高い、と港町の人は言っていたが、本当にそうなのだ。
(お祖父さんもきっと、背の高い人だったのよね。…寝台の長さにも余裕があるし)
大きく伸びをして立ち上がると、彼女は、書斎机の側のカーテンを開いた。時計は無いが、もうずいぶん日は高く昇っている。
「ちょっと、寝坊しちゃったかなあ…」
「ワン!」
「そうね、あんたもお腹が空いたわよね。朝ご飯を食べに行きましょう」
書斎の扉くと、待ちかねたように子犬が外へ飛び出していく。食堂のほうから、いい匂いが漂ってくる。
ユーフェミアが食堂に入ってみると、ちょうどヘグニがやって来て、せっせと皿を運んで来ているところだった。焼き立てのパンが何種類か、それと、ゆで卵。台所のほうからは、香草煮込みのような香りも漂っている。
「えっ、どうしたんですか。こんなに」
「どうしたも、こうしたも…。今朝、ここへお伺いしたら、台所にすべて用意してあったんですよ。竈には焼き立てのパンが用意されておりましたし、卵やスープは温めるばかりになっておりました。」
と、ヘグニ。
「以前の
「魔法…うーん、そうね。確かにあれは、そうなのかも。」
小人たちを従える魔法。というより、お酒の湧いてくる杯のお蔭なのだが、酔っ払った小人たちは、あのあと、きっちり自分たちの仕事はこなしていったらしい。
「お祖父さんが残しておいてくれたものを使ってみたの。たぶん、食事と掃除の心配はないと思うわ。ヘグニさんに負担はかけないと思います」
「そんな…。では、わしは用済みでしょうか」
「まさか。様子を見に来てくれるのは有り難いし、頼みたいことが出るかもしれないから。」
ヘグニがあまりにもしょんぼりしているので、ユーフェミアは、精一杯、気の利いたことを言おうと考えていた。
あの小人たちには、少し信用ならないところがある。それに、昼間は出てこられないし、人間の村に出ていくような用事は頼めない。
「お料理が多すぎるから、余ったぶんは持って帰って下さい。…あと、ローグさんは?」
「あの方は、わしと入れ違いにどこかお出かけのようでしたよ。お屋敷の周りを見てくる、とか」
「そう」
それならきっと、自分の探し物のほうに取り掛かっているのだろう。
ユーフェミアは席につき、まだ温かいパンを手に取った。出来立てのパンなど食べるのは、一体いつぶりだろう。匂いを嗅いでいるだけでも、食欲が湧いてくる。
「今日は、どうされます?」
と、ヘグニ。ユーフェミアは、パンの大きな欠片を飲み込みながら答えた。
「村に行ってみようと思うんです。雰囲気を見ておきたいし、博物館があるって聞いたので」
「博物館…ですか」
老人は、なぜか表情を歪め、吐き捨てるように言った。
「見る価値もない、つまらないところですよ。まあ、外の連中の、どうしようもない見栄を知っておくのは良いことだと思いますが」
「……?」
どうやら、港町の観光案内所で聞いた評判とヘグニの感想は、少しばかり違うらしい。
(昔話が聞ける、って話しだったけど、違うのかしら)
パンとゆで卵、それに、ヘグニがあとから運んできたスープで腹ごしらえをしてから、ユーフェミアは、ゆっくりと村に出かけることにした。
肩からカバンを提げ、屋敷から丘を下る坂道を歩いていく間、夏の日差しは心地よく足元を照らしている。
今回は、子犬のフェンリスは留守番として屋敷に置いてきた。さすがに、博物館の中までは連れて入れないと思ったからだ。
朝の爽やかな空気の中なら、丘を取り巻く鬱蒼とした森も上機嫌に見える。気持ちのいい森林浴だ。…その森を守っている恐ろしげな魔獣に襲われないのなら、だが。
その魔獣、忠実なる番犬は、今日は森の入口のあたりに腰を下ろして、ユーフェミアが屋敷のほうから降りて来るのを待っていた。
「お見送り? 大丈夫よ、心配しなくても夕方までには戻って来るからね」
「…グルル」
ガルムは低く唸る。こちらの言うことは、確かに通じてはいるのだ。どこかローグの連れている、あの熊に似た雰囲気も感じられる。
(そういえば、この番犬は元は人間かもしれない、ってローグさんは言ってたわね。…いつか、正体が分かる日が来るといいんだけど)
そうなことを思いつつ、ガルムの大きな鼻面を撫でてやってから、ユーフェミアは、ふもとの村へと向かって坂道を降りていった。
ヘグニの家の前の分岐点から続く道を辿り、途中、細い小川にかかる橋を渡ると、そこがフェンサリル村の入口だ。
数十件の家が集まっているだけの、ほんの小さな村。入口に手作りの「ようこそ! フェンサリル村へ」という看板が立てられている。
ざっと見た限り、店と呼べるものは雑貨店、酒場、観光客向けの小さな手芸品店くらい。あとは農家のようだった。村の周囲には畑が広がり、遠くのほうには牧場らしきものも見える。小川のほとりには水車小屋があり、いまでも現役で使われているようだった。
(すごい。いまでも、こんな村ってあるのね…)
都会暮らしだったユーフェミアにとっては、歴史の教科書に載っている数百年前の村に来たような感覚だ。きょろきょろしていると、雑貨店の前で煙草をふかしていた老人が、気さくに声をかけてきた。
「お嬢ちゃん、観光かね? 港町のほうから来たのかい」
「えっと…はい。ここに博物館があるって聞いたので、ちょっと覗きに」
島の外からの観光客だと思われなかったのは、きっと、ユーフェミアの容姿が島の外から来たようには見えなかったからだろう。
「それなら、この道を真っ直ぐだ。隣はお役所と郵便局だよ。入口に看板が立っとるからすぐに分かる」
「ありがとうございます」
礼を言い、そのまま歩いていくと、行く手に郵便局のマークが見えてきた。
その隣の建物の壁には、今までこの島ではほとんど見かけなかった
アスガルドは一応、島嶼連合に参加する島の一つ、ということになっている。
こんな辺鄙な村でももちろん、政治の手は届いているのだろう。それを示すための旗に違いなかった。
博物館の看板は、それらの建物のすぐ隣、広場に面した古めかしい塔の入口に建てられていた。
元は見張り塔か何かだったのだろうか、建物自体が歴史遺物のようだ。入口には、「入館料 五リセ」と書かれた張り紙がある。ずいぶん安いが、無料ではないらしい。
中を覗くと、壮年のやや小太りな男が床を掃き掃除している姿が見えた。どうせ誰もこないと思っているのか、鼻歌を歌いながら掃除に没頭している。
「あの、こんにちは」
声を掛けると、驚いたように振り返る。
「…ん? おっと、お客さん…かな?」
ユーフェミアを上から下まで見回して、にこりと微笑む。
「もしかして、村の誰かの親戚の子かい?」
「あ…えっと、はい。ヘグニさんのところにお世話になっています」
「ヘグニ爺さんの? 爺さんとこは息子さんもずいぶん前に亡くなってるし、他に親戚はいなかったと思ったけど…」
「あの、父が昔、お世話になっていたんです。遠い親戚みたいなもので…ずっと別の島に暮らしていたので」
「そうかい、そうかい。それじゃ、ここに”戻って”くるのは初めてなのかな? ゆっくりしていくといいよ」
男は、ごく自然に「戻って」という言葉を使った。ユーフェミアの容姿から、地元出身の同族だと最初から分かっているようだった。どこの誰、とも、名前も聞かず、ただ同族だというだけで、まるで親戚のような親しみを込めた態度で接してくれるのだ。それが、妙にくすぐったい。
「それじゃ五リセね。はい、チケット。どうぞ、ごゆっくり」
ユーフェミアが代金を渡すと、受付の男は、色褪せたチケットをユーフェミアに差し出した。にっ、と笑う恰幅のいい丸い顔は、確かに、港町の観光案内所にいた受付の女性とどこか似ている。
客の応対を終えてしまうと、男は再び館内の掃除に戻っていく。見学者は、どうやらユーフェミア一人だけのようだ。
中に入って展示物を見まわすと、すぐに、「アスガルドの歴史」と書かれたパネルが目に飛び込んできた。
――アスガルドの歴史。
火山島であるこの島に人が住み始めたのがいつかは不明ですが、先住民は「エーシル族」「ヴァニール族」と呼ばれていたようです。色白で背の高く、体格のよい人々だったとされ、千年ほど前までは島の西側を中心に栄えた王国を築いていたようですが、火山の大噴火により、そのほとんどが死に絶えました。
(以上、か。ずいぶん、あっさりしたものね)
まるで、教科書に出てくる一節のような淡泊さだ。肝心の「エーシル族」や「ヴァニール族」のことは、容姿以外に何も説明がない。
隣の展示を見れば、島の風景写真とともに同じような当たり障りのない説明が並んでいる。
――アスガルドの自然。
島嶼連合の他の島から遠く離れたこの島では、他の島にはいない多くの固有種が確認されています。火山の大噴火によって種類を減らしつつも、いまでも生息している貴重な動植物のために、島の西側、このフェンサリル地方は、国立自然保護区となっています。
――アスガルドの名産。
この地方は地形が複雑で冬が寒く、夏が短いため、穀物や農作物の生産には適していないとされます。かつては名馬の産地として知られていたこともありますが、疫病の蔓延後はかつての名馬の血統は途絶えてしまいました。現在では、ナースレンド山脈から採れる鉱石や、酪農産物、港周辺で栽培されているひまわり油などが輸出されています。
――アスガルドの行政区。
島の半分を占めるフェンサリル地方は
それらの説明文のほかには、発掘されたという錆びた剣や馬具、島の伝統的な衣装などの展示が少しあるだけだ。
(ヘグニさんが、”つまらないところ”って言ってた意味、分かった気がする…)
ユーフェミア自身、少しがっかりしていた。こんな展示なら、わざわざ見に来る必要もなかったかもれない。教科書的な歴史の概要だけで、あまり詳しいことは紹介されていないのだ。
むしろ、展示よりも建物自体のほうが気になっていた。
なんとなく壁の石組みを眺めていたとき、それが、屋敷の壁と似ている作りなのに気付いたのだ。もしかしたら、同じくらい古い時代のものかもしれない。
そう思った彼女は、掃除を終え、受付に戻ろうとしている男に声をかけた。
「あの、…この塔みたいな建物って、元は何だったんですか?」
「えっ」
思いもかけない質問だったらしく、男は一瞬、驚いた顔をして固まった。
「ずいぶん立派だなって思ったんですが…」
「ああ、ああ。よくお気づきで!」
動き出したと思ったとたん、男は、目を輝かせながら、さっきまでとはまるで別人のような早口でまくし立て始めた。
「実はですねえ、この建物! なんと千年前の、歌にある”最後の決戦”の時に防衛用の砦として使われた施設の残骸なんですよ! 元は城壁なんかもあったらしいんですが、石が他の建物やらなにやら転用されて残っていなくてですね。ただ、この塔だけは、サイロがわりに使われていので、こうして、ずっと! 残っているというわけです!」
「…は、はあ」
今度は、ユーフェミアのほうが引いてしまった。
歴史に詳しい…というよりは、歴史オタクとでも言うべきか。ただ、この人なら、何か重要なことを知っていそうな予感がする。
もう少し、尋ねてみてもいいかもしれない。
「ええと…その、”最後の決戦”って、どういうものなんですか? 千年前ってことは、火山が噴火した時のこと?」
「そうですよ! 火山の大噴火、予言された”滅び”の時です。エーシル族とヴァニール族は長らく”黄金の玉座”を取り合って争っていたらしいのですが、火山の目覚めを察知して、休戦協定を結んだと伝えられています。ですが異邦の巨人、ヨートゥン族は、そんな事情など知りません。仕方なくエーシル族が率先してヨートゥンと協定を結び、火山の噴火に備えて火の川を防ぐ大城壁を築くのですが、城壁が出来上がったとたん、ヨートゥン族を裏切ってしまうのです。怒りに燃えて復讐のためにエーシル族に襲い掛かる巨人たち。そこへ火の山がついに噴火し…!」
男は息を継いで、まるで壮大な叙事詩のあらすじを歌い上げるように、続きまで一気に語った。
「…崩れ落ちる大城壁、火を吹く山。そう、ヨートゥン族は、裏切られるかもしれないと恐れて壁に一箇所だけ、脆い所を隠していたのです! 溢れ出した溶岩を止めるため、偉大なるヴァニールの族長ヘルガは自らの身を溶岩に投じ、命がけの魔法を使って城と民を守ります。ですが、エーシル族とヨートゥン族はともに火の川の中。相打ちとなって、ともに滅びてしまったのです…。」
ぜいぜいとのどを鳴らし、語り終えた男は汗を拭う。
「と、まあ。こんなふうに、フェンサリルでは言い伝えられています。」
「な、…なるほど、ありがとうございます…。えーと…。それで、この村の人たちはヴァニール族の子孫なんですよね?」
「ええ、そうです。そうですとも」
男は胸を張った。
「丘の上にお城みたいなものがあるでしょう? あれが当時のヴァニールの本拠地で、最近に至るまで代々の族長の住まいだった城なんですよ。火山の噴火からも残ったんです。エーシルの城は海の底ですがね。エーシルもヨートゥンも滅びてしまったので、島の元の住民で残っているのは、我々、ヴァニール族の子孫だけです。まあ、島には他にも色々な連中がいたんですが…大噴火のあとは、みんな散り散り、ばらばらです」
「それじゃあ――」
ユーフェミアがさらに質問しようとした時、入口のほうから聞き覚えのある甲高い声が響いた。
「あーっ。ほら、ここだよぉ、博物館! あった~!」
顔を上げて見やると、ちょうど、三人組の若者たちが博物館の中に入ってくるところだった。少女を先頭に、ニキビのある若い男たちが、ニヤニヤしながら続く。
島に来る時の船にいた、あの若者たちだ。ユーフェミアと目が合うと、一瞬ぴくりと表情を動かしたものの、すぐに笑顔を作る。
「やだ、キミ、船にいた人じゃーん! びっくり、また会えるなんて」
「…そうですね」
どうやら彼らも、無事にフェンサリルに到着出来たらしい。ということは、ローグの件での取り調べはあっさり終わり、ユーフェミアたちからは一日遅れで貨物馬車に乗ったのだろう。
「チケット三枚」
「はい、はい。今日は若いお客さんが多くて嬉しいなあ」
小太りの男は、いそいそと受付に戻っていく。
その間に、ニッキーはユーフェミアの近くまで中に入って来た。
「へええ、小さいけど一応ちゃんとした感じの博物館なのね。マジメっぽそうな場所~」
さすがに無視するわけにもいかず、ユーフェミアは、当たり障りのない会話をひねり出す。
「”黄金のチェス亭”に泊まってるんですか?」
「そだよ~。びっくりするほど高いね、あそこ! いちばん安い部屋でも一泊二百もするんだよぉ。お金キツいし、この村でホームステイとかさせてくれるとこ無いかなぁって探しに来たの。」
あっけらかんとした口ぶりだ。
「ね、キミん家は? キミもここの人なんでしょお」
「…えーと、うちはダメです。すごく人見知りする番犬がいるから…。」
ローグが嫌がることが分かってる以上、受け入れるとう選択肢はない。それに、何か、この人たちからは信用できない匂いがする。
「そっかあ。じゃあ、野宿も考えたほうがいいかなぁ~。丘の上に、無人のお城があるみたいだしぃ、あそことか…」
「探検とか、してみたいよな」
チケットを手にした男たちも、話を合わせて笑っている。
だが驚いたことに、ユーフェミアが諌めようとするより早く、突然、受付の男が目を剥いて声を張り上げた。
「なんてことを! あれは、ただの城なんかじゃありませんよ」
チケットを受け取ったばかりの男たちも、少女も、ぎょっとした顔をしている。
「あれは…あれは、偉大なる族長ヘルガ様の時代に作られた、ヴァニールの遺産です! 今も古えの時代の加護を受けている。よそ者が近づいていい場所ではありません!」
「えー? なにそれ、言い伝え、ってコト? 呪われた城だって話は、聞いてるけどぉ…」
「観光くらいは出来るんだろ?」
「とんでもない。お屋敷を守る魔獣に排除されますよ! 危険ですから、絶対に近づかないで。いいですか、あそこは観光地じゃないんです。何が起きても知りませんよ!」
「……。」
過剰とも思える反応は、ユーフェミアにとっても新鮮なものだった。
(確かに、あのお屋敷は観光地じゃない、って、港町でも言われたわね…)
五年前までは祖父が住んでいたのだから、個人の住居、私有地という扱いだったのかもしれない。それに、番犬のガルムのことは、村の人たちにも認識されているらしかった。
「分かった、分かったよ。そんな怒らなくてもさぁ」
「ちぇー、面白そうだったのになあ」
若者たちはブツブツいいながらも、博物館の奥の方に向かっていく。
とはいえ、彼らには、歴史や文化などあまり興味は無さそうだった。単なる暇つぶしと、観光の一環としてここへやって来ただけなのだろう。
ユーフェミアのほうも、展示物は一通り見たあとだ。余計なことを聞かれないうちにと、新しい客と入れ替わるようにして、そそくさと外に出ようとする。
そこへ、博物館の受付の男が怪訝そうな顔で声をかけてきた。
「さっきの子たちは、知り合いなのかい…?」
「いえ。島に来る時、同じ船に乗っていたってだけです。名前も知りません」
それ以上詳しく聞かれないうちにと、ユーフェミアは急ぎ足に博物館の外に出た。あの三人と仲間だとは思われたくないし、関わり合いにもなりたくないと思っていた。
(ふう…。)
石造りの薄暗い建物から外に出ると、明るい日差しが足元に影を作った。
本当はもう少し話を聞いておきたかったのだが、あの三人が居る以上、今日は無理そうだ。また、日を改めてここに来よう。
博物館の入口の脇には、若者たちがホテルから乗ってきたらしい立派な馬が三頭、馬具をつけたまま繋がれている。
この程度の博物館なら、すぐに見終わってしまうだろう。そのあと、馬でどこかへ出かけるつもりなのに違いない。
(あの人たち、注意されたくらいじゃ止めない気がする。お屋敷に近づいて、ガルムに出くわしたら…。怪我させたりしないよう、手加減させなくっちゃ)
それに、ローグにも前もって話しておいたほうがいい。うっかり鉢合わせたりしたら面倒なことになる。
そんなことを考えながら歩き出そうとした時、ふいに、行く手を照らす光が陰った。
「…え?」
空を振り仰ぐと、さっきまで無かったはずの雲が、急速に空を覆っていくところだった。
雲――いや、それだけではない
。
煙のように南西のほうから押し寄せてくるそれは、霧なのだった。
周囲は、あっというまに白灰色の分厚いヴェールに包まれてしまう。自分の足元さえも見えない、昼なのか夜なのかも判別できない”白い闇”。
本来ならば慌てるべき場面なのだろうが、さすがにもう、何度も出くわして慣れっこになっている。それに、少し楽しみでもあった。
今度の霧の中では、一体、何を見ることが出来るのだろう。
◆◆◆
霧の中から、カツ、カツと馬の蹄の音が聞こえてくる。
視線をやると、壁の向こうに、こちらに向かって馬を進めてくる戦士たちの姿が見えた。一人は、以前の霧の中でも見た逞しい熊の戦士。確か、シグルズと呼ばれていた。傍らには、その姉たる女戦士を伴っている。
博物館だった塔の場所は、いつのまにか塔だけではなく、村全体を取り囲むような立派な城壁を持つ出城へと姿を変えていた。
さっき博物館の受付の男が言っていたとおり、かつてここには城壁もあったのだ。確か、防衛用の砦として使われた施設だと言っていた。
城壁の先は、小川のあたりまで続いている。ということは、ヘグニの小屋のあるあたりも、元は砦に隣接する建物だったらしい。
(丘の上に族長の住む本拠地、麓には出城。ずいぶんと固い防御を敷いていたのね)
それだけ、この島では、長らく戦争続きだったのだろう。
ヴァニールとエーシルは敵対して、長らく争いあっていた、と博物館の男は言っていた。二つの種族の争いに、あとから巨人族、ヨートゥンが加わって三つ巴となった。
今となっては、この海の果てのちっぽけな島を支配することにそれだけの価値があるとも思えないが、当時は、そうは思われていなかったのかもしれない。
戦士たちはユーフェミアの視線に気づいた様子もなく、塔の前で馬を降りると、待ちかねていたように、塔の中から若い戦士が二人、飛び出して来た。どちらも、以前見たことのある顔だ。フレヴナの従兄弟で、従者でもある少年たち。年かさのほうは弓を、もう一人は小ぶりな剣と盾とを装備している。
「シグルズ様!」
年長の少年ヨルムガルデが、息せき切って声を掛ける。
「火山の偵察に行かれるんでしょう。どうか、ボクらも連れて行って下さい。」
「お前たちを?…」
男は驚いて、目の前の少年たちをまじまじと見つめる。
「いや、しかし。ヘルガ様の御子息であるあんたたちを危険に晒すわけにはいかんぞ。」
「それに、足手まといはかえって邪魔になるしなぁ」
女戦士がニヤリと笑う。むっとして、ヨルムガルデは肩に掛けた矢筒に手をやりながら言い返す。
「これでも、ヴァニールの首長の家系に連なる者。戦いに必要なルーンは扱えます。火除けのルーンや、惑わしのルーンも」
「もう成人はしてるんです。お願いします、役に立ちたいんです」
弟のフェンリスのほうも必死に訴える。
「ふん。初陣もまだのくせに」
厳しい言葉だが、女戦士の口調はバカにしているというよりも、新兵をからかっているような雰囲気だった。
「で? どうするんだい、シグルズ。」
聞かれて、男はため息をついた。
「…勝手についてこられるよりは、連れて行く方がマシだな」
「やった!」
「ただし、実力が足りないと判断したら、すぐにも引き返してもらうぞ。お前たちは、ヘルガ様の大事な――」
少年たちを見回した男は、ふと、胸元に光っている金属の印に視線を留めた。
「その守護のルーンは…そうか。お前たちは、フレヴナ様の従者でもあるのか」
「はい。」
二人が頷くのを見て、男は微かな笑みを浮かべた。
「なら、少し鍛えてやってもいいな。馬を準備しておけ。俺たちは、見張りに状況を感にしたらすぐに出発する」
「分かりました!」
少年たちが勢いよく駆け出していくりを見送りながら、女戦士はなぜか、ニヤニヤしている。
「ふぅーん。あのお姫様が絡むとなったら、ずいぶん協力的になるもんねぇ」
「…何が言いたい」
「いーや、別にぃ~。ま、”黄金の部族”の一つヴァニールの次期族長ともなれば、うちら熊の
「カーラ…!」
「冗談だってば、そんなに怒るんじゃないよ。ま、姉としちゃぁ、お前のその感情が、戦場でヘンな迷いを生むことだけが心配なんだけどねえ…」
話しながら、戦士たちは塔へ入っていく。その背後を覆い隠すように、霧が押し寄せてくる。
しばらくは、何も見えない状態が続いた。
てっきり、いつものようにそのまま霧が晴れていくものと思われたのだが、今回は、そうではなかった。
霧の中、足元から突き上げてくるような感覚があった。次の瞬間、世界がぐらぐらと大きく揺れ始める。
「あ、わっ」
ユーフェミアは声を上げ、思わず地面に両手をついた。
(じ、地震?! しかも、大きい…)
くぐもったような、ドオーンという音が天を貫いた。
振り返ると、霧の向こうにうっすらと見えている三角形をした火山が、点に向かって火を吹き始めたところだった。雲を貫き、真っ直ぐに登ってゆく噴煙。赤い火柱は火口から幾筋もに分かれ、花が咲くように、あるいは大樹が芽吹くように、空に大きく広がってゆく。無数の死の枝が、稲光を伴って四方へと延びてゆく。
恐怖で体が強張ったまま、ユーフェミアは、ただ呆然とそれを見つめていた。
Ek man jötna
”私は覚えている,はるかなる時を”
(炎はきたる、地の底より。火は天に戯れる…。)
これは過去の情景なのだ。もう、ずっとむかしの出来事。
そう理性では分かっているはずなのに、体の震えが止まらない。地震とともに大地は割れ、そこからも火が吹き出してくる。山からは真っ赤な川が、蒸気を上げながら平原に迫っている。
”世界樹”が、滅びをもたらすものが目覚めてしまった。
逃げ切れない。間に合わない。
きっとこれから、大勢の人が死ぬ。戦士たちも、農民も、女性も幼子たちも、家畜たちも。
禍いは目覚めた。火の山から飛び立った黒い翼の死の竜たちは、毒の霧で出来た素早き者たちは、すべての
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