第5話 宮殿<フェンサリル>

 「本当に、ここまででいいのかい?」

フェンサリルの入口にある停車場、とは名ばかりの、屋根と床があるだけの粗末な小屋の前で、アトリは何度もそう尋ねた。

 貨物馬車から荷物を下ろし、ここに置いておけば、そのうち住民が取りに来るのだという。船着き場とは違い、ここには、期待に満ちた眼差しで荷物の到着を待ちわびている住民すらいない。

 ひび割れた石畳、隙間からひょろりと延びた草。誰もいない草原に、辛うじて人の往来のある証拠に、馬車のわだちの跡と小道が続いている。街頭などは何もない草っぱらで、日が暮れたら何も見えなくなりそうだ。

 「はい。ここでいいです。近くの村って、どっちですか」

 「どっち、って言われてもな…ううん…。」

アトリは、なぜか頭を抱えている。

 「なあ、お嬢さん。悪いことは言わんから、やみくもに歩き回るのはよしたほうがいいぜ。いつ霧が出るかわかんねえし、霧が出ちまったらいつ晴れるかも分からんからなぁ。ここじゃあ、霧に巻かれていなくなる観光客が多いんだ。せめて、村の誰かに道を聞いて――」

言いかけた時、どこからともなく軋むような車輪の音が聞こえてきた。

 「あっ…」

 「ん?」

わだちの向こうから、よぼよぼのロバに荷車を引かせた老人が、こちらに向かってくる。

 「あっ、ああ! ちょうどいい! おーい、ヘグニ爺さん! この子、連れてってやってくれよ!」

 「ヘグニ…?」

 「あの人、クリーズヴィ家の使用人やってたんだよ。お屋敷のあったところの近くに住んでてさぁ。荷物の受け取りに来たんだろう、ついでに乗せてってもらえばいい」

ほっとした顔で言うと、アトリは、二人のやり取りも見届けず、自分の馬車のほうに戻っていく。

 「それじゃ、俺はこれで…」

言い残して、ほとんど逃げるようにして馬車を走らせようとする。

 入れ替わりに、老人がゆっくりとロバを止め、荷車から降りてきた。怪訝そうな顔だ。

 「なんだい? お前さんは…」

 「ユーフェミアといいます。中央島セントラルから来ました」

ひとまずは、自己紹介をして頭を下げる。

 「エイリミ・クリーズヴィという人に会いに来たんですが…もう亡くなったと、さっき、貨物馬車で聞きました」

 「ああ。亡くなって、もう、まる五年になる。残念だったな」

言いながら、さっきアトリが下ろしていった荷物の中から、自分宛てのものを探し出して抱えあげる。油、小麦粉、新聞の束。それなりの重量になるはずなのに、年を取っていても全く足腰は衰えていないらしい。片足をすこし引きずっている以外は、頑強そのものの体だ。

 待っていても、次の言葉は返ってこない。どうやら老人は、無言のうちにユーフェミアに「帰れ」と言おうとしているらしかった。

 ここでは、よそ者は望まれざる客なのだ。

 そう感じたユーフェミアは、思い切って、父の名前を出すことにした。

 「…ヘイミルという人を知っていますか」

思ったとおりだ。その名を耳にしたとたん、荷車に向かおうとしていた老人の足が、ぴたりと止まった。

 振り返り、眉を寄せてじっとユーフェミアを見つめる。

 「あんた、どこで、その名を」

 「私の父です。」

どさっ、と老人の手から麻袋が落ちた。

 ロバが、主人の異変に気づいて不安そうに嘶く。それほどに、老人は狼狽していた。

 「そんな、…ヘイミル様の? だが…ヘイミル様は、もう二十年も前に家をでてゆかれて、消息不明に…とうに亡くなったものと…」

 「亡くなったのは事実です、私が生まれてすぐに。その、父のことは、あまり覚えていないのですが…」

 「一体、どこで。なぜ、お戻りにならなかった?」

老人は、食らいつくように前のめりになりながら尋ねる。その勢いに気圧されながらも、ユーフェミアは、なんとか状況を説明した。

 「亡くなったのは、中央島セントラルです。事故だった、としか聞いていません…手紙を、出そうとはしていたようなのですが…。」

言いながら、ユーフェミアは荷物の中から未開封の手紙を取り出してヘグニ老人に見せた。封筒の字を一目見るなり、老人は、悲鳴にならない声を上げて両手で頭を抱えた。

 「ヘイミル様の字だ、間違いない。本当に…。ああ、ああ。それなのに、あんたは戻って来てくだすったのか。よく見れば確かに、ヘイミル様によく似ておいでだ。その髪も、その瞳も…」

 (瞳?)

ユーフェミアは、思わず首を傾げた。色の薄い髪のことをからかわれたことはあっても、瞳について何か言われたことは、今までほとんど無かった。それに、真っ先に背の高さについて言われなかったのも、初めてだった。

 (そういえば、このヘグニお爺さん、中央島セントラルの人たちに比べたら背が高いかも)

フェンサリルの人たちは皆、”背が高い”と港町の人は言っていた。ここでは、ユーフェミアくらいの身長は珍しくもなんとも無く、当たり前なのだとしたら、誰もそれを指摘したりするはずはない。必然的に、それ意外の特徴で人を判別することになる。

 (瞳、…か)

もちろん、自分の瞳の色くらいは知っている。ほとんど黒に近い、深い藍色だ。

 それに、ほとんど白と変わらないほど色の薄い銀色の髪。アンバランスで珍しい色合いは、「巨人女」のあだ名を最もらしく響かせるだけで、ユーフェミア自身は、あまり好きではなかったのだが。


 そんなことを考えているユーフェミアの横で、ヘグニは涙を浮かべ、何やらブツブツ呟きながら祈るような仕草をしている。

 「若い連中は島から出ていくばっかりだと思っていたのに、戻ってきてくれる者がいるとは。族長ゴジが生きておられたら、どんなにお喜びになられたことか…。」

 (…知りたいことは沢山あるけど、あとにしたほうがよさそうね)

ひとまず、父を覚えている人、父の実家のことを聞けそうな人は見つかったのだ。

 どこか、腰を落ち着けられる場所を見つけたら、ゆっくり話を聞こう。

 ――予想していたとおり、父は、家出同然に故郷を後にしていた。

 その理由を、知りたいと思った。結局、亡くなるまで母にすら明かさなかった、その理由を。




 そのあとユーフェミアは、荷物とともにロバの引く荷車に揺られ、ヘグニが一人で暮らしているという家に向かった。

 行く手に続くのは、舗装もされていない田舎道だ。夏草の中を、馬車の通った跡がついている。それ以外に街灯や、道しるべとなりそうな看板などは何ひとつ残されていない。

 道中、ヘグニは自分のことを少し話してくれた。

 人間の家族や親族はおらず、ロバのスキムファンクシだけが唯一の家族だという。そして今は、かつての主人であるエイリミ・クリーズヴィの屋敷のある丘のふもとに住んでいる。

 「使用人が多かった時代には住み込みの者もいたんですが、ヘイミル様が出ていかれてからは、エイリミ様の人嫌いが加速しましてな。誰も側に近づけなくなってしまったんですよ。それで、族長ゴジが倒れられてたのに気づくのが遅れた。夜の間に調子が悪くなられたんでしょう。朝、いつものように様子見にお伺いした時にはもう、手遅れで…」

そう言って、老人は悲しげに首を振った。

 「族長ゴジは若い頃から気難しいお方でしてな。島の外から来るものを極端に嫌っておられたし、よそ者を屋敷に近づけることすら嫌がっておられた。それに、どこか不思議なところがあって、いにしえの技を受け継ぐ魔法使いだという噂すらあった。屋敷に飼われとった狼犬も、その魔法で呼び出された魔獣だとか、もっぱらの噂だったんです。そいつがまた人見知りのするやつで、族長ゴジが亡くなられてからは誰ひとり屋敷に近づけんのですよ。それで、あそこはもう何年も、誰も立ち入ることも出来ずに放置されておるのです」

 「…あの、どうして旦那様とかじゃなく”ゴジ”なんですか? というか…どういう意味なんですか」

ユーフェミアが尋ねると、ヘグニは、意外な質問だというような不思議そうな顔をした。

 「族長ゴジというのは、わしら一族の長という意味ですよ。わしらは別に、金で雇われているわけじゃない。いにしえの業に通じ、古い契約を果たす力を今も持っておられる。尊敬しておるからお仕えしてきたんです。それに昔は、あのお屋敷が役所であり、裁判所であり、病院とか…警察とか、ぜんぶの役目をやっていた。つまり族長ゴジは裁判官であり、癒やし手であり、揉め事や事件を解決してくださる方々でもあった。」

 「ええと…つまり、それって、フェンサリルの住民の族長ってことですか?」

 「そうです。わしら昔からの住民は皆、ヴァニール族という一族の末裔なのです。かつてこの島に住んでいた九つの種族のうちの一つ、島を統べた力ある者たちの名です。千年前までは、同じくらい力を持つエーシルという有力な一族もおりましたが、そちらは大噴火で全滅してしまいました。それ依頼、島を治めてきたのがヴァニールの族長ゴジ、クリーズヴィ家の方々なのです」

 「つまり…その、お祖父さんは、島の王様…みたいな感じだったんですか?」

 「まあ、少し意味合いは違いますが、それに近い存在ですな。…ただ、本来の族長は女なのですよ。クリーズヴィ家はいにしえの神々の血を引く家系で、あの家に生まれる女は、予言の力を持つ巫女でもある。それが、女の家長が生まれなくなって久しく、適切な予言も出来ず、島に訪れる変化にうまく対応出来なかった…」

声が消えいるように途切れ、ため息で終わる。

 「そう、ヘイミル様がおかしくなってしまったのも、妹のヘルガ様があんな死に方をしてからです。目と鼻の先で死なせて、助けられなかったと自分を責められて…。ようやく生まれた女の子だったのに。わしらも皆、クリーズヴィ家の呪いの噂は本当だったんだ、なんて、余計なことを言ってしまった…」

 「……。」

ユーフェミアは、黙ったまま荷台で膝を抱えていた。

 (ってことは、お父さんには妹がいたの…? そんなこと、知らなかった)

その妹、自分にとっては”叔母”にあたる女性は、事故か何かで若くして亡くなった、ということか。

 クリーズヴィ家の呪い。

 本来は女家長が立つべき家で、女の子が生まれず、生まれても早死してしまうということ。

 予言の力を持つ巫女が生まれなくなったせいで、島が衰退してしまったらしいこと。

 (アトリさんも言ってたな。『女は生まれてもすぐに死んじまう、男は気が狂う』って。…お父さんは、気が狂ってたわけじゃないと思うけど…。もしかして、お父さんが島を出たのって…)

ふいに、ガタン、と荷車が揺れた。

 「あぁっ?!」

同時に、ヘグニが素っ頓狂な声を上げた。

 「ええっ? ど、どうしたんですか」

 「あんた――いや、あなた様は、女だ!」

 「え、今さらですか? そりゃ、こんな格好してますけど、私――」

 「クリーズヴィ家の女だ!」

 「へっ?」

ヘグニはロバの手綱から手を離し、両手を空に向かって差し上げて笑い出した。

 「そうか――そうだ、本物の族長ゴジが戻ってこられた! ははは!」

 「ちょ、ちょっと待ってください。私、中央島セントラル生まれで、ここのことは何も知らないんですよ? 母だって、他所の人だし――よ、予言の力とか、無いですから!」

 だが、ユーフェミアの必死の訴えも、興奮した様子のヘグニには届いて居ない様子だった。

 今や老人は生き生きとした表情で、一気に十歳も若返ったような口ぶりでいた。

 「そうとなれば、一刻も早く族長ゴジのお屋敷にお戻りいただかねば。あの頑固者の番犬も、ヘイミル様の娘に牙を剥くような不遜な真似はするまい! ああ、良かった…これで、これでようやく、この土地を守ってきたわしらも報われるというものだ…」

 (困ったな…。そんなこと言われたら、断るに断れなくなっちゃう)

ユーフェミアは、ため息まじりに荷物にもたれかかった。

 とはいえ、中央島セントラルに帰る家はもう無い。身寄りを頼って何か仕事を見つけられば、などと考えていたのだが、まさか、「族長」という仕事に就かされるとは予想もしていなかった。

 そもそも、「族長」とは一体何をすればいいのか。

 裁判官? 癒やし手? 揉め事や事件を解決? どれも、自分には出来そうにない。

 (高校は卒業したけど、私…そんな勉強はしたことないし、この島のこともまだ、何も知らない…。)

悩んでいる彼女に追い打ちをかけるように、ヘグニが叫んだ。

 「ご覧あれ。あれこそ、クリーズヴィ家のお屋敷ですよ!」

 「…え」

振り返ったユーフェミアは、思わず絶句した。

 丘の上に見えている建物は、お屋敷というレベルのものではない。どう見ても「城」なのだ。

 黒ぐろとした森の木々に囲まれて日暮れの空に突き出す見張り台は、周囲の平原すべてを睥睨するかのようだ。

 しばらく人が住んでいないせいか廃墟の雰囲気を漂わせてはいるものの、それは紛れもなく、太古の昔から増改築を繰り返されてきた、古い城塞の系譜に違いない。

 かすかな目眩を感じた。あの”城”が祖父の住まいだった場所で、父の実家? あんなものを相続することになる…?

 「えーと…クリーズヴィ家は族長の家系だって、さっき言ってましたよね。あんな、大きなお城を作れるような家だったんですか…?」

 「そりゃあそうです。元は、フェンサリル全体が族長ゴジの持ち物だったんですよ。それが、正式な跡取りが出てこなくなってしまってからは、相続争いもよく起きるようになりましてね。外からやって来た連中に勝手に土地を売って島を出ていく連中まで出た。ふん、それで今じゃ、よそ者の立てたリゾートホテルとかいうものまである。本来、族長ゴジにお納めするべき土地のものを、勝手に島の外に売って金を貰う輩まで出てきた。嘆かわしい…」

 (つまり、”女の”家長が出てこなかったせいで、男兄弟で遺産を分割して揉めた、…ってところかな)

ユーフェミアにも、なんとなく事情が見えてきた。父が故郷を出たのは、もしかしたら、既に傾き始めた家を継ぐ重責に耐えられなかったのかもしれない。

 それとも、叔母が亡くなった事故のせいか。死亡の原因は分からないが、将来の女家長となるはずだった妹を死なせたのが自分のせいだと思っていたなら、故郷を飛び出しても無理はない。

 (なんだか、思ってたより大変だったんだな…お父さん)

今はまだ、すべてが人ごとのようだった。ここで何をすればいいのかすら、分からない。

 とりあえずは、この土地について知らなければ何も始まらない気はするのだが――。


 荒れ果てた、かつては畑だったと思われる土地が通り過ぎてゆく。

 年老いたロバの引く荷車の速度はゆっくりで、歩いたほうが早いのではないかと思うくらいだ。もっとも、そのおかげで、ゆっくり辺りを観察できる。

 畑の向こうには、遠くの方に集落が見える。城からはずいぶん離れた場所だ。

 「ヘグニさん、あれ、村ですか?」

 「ああ、そうですよ。この辺りじゃ唯一の村になっちまったんです。今は、あの村がフェンサリル村と呼ばれております」

ヘグニは、ため息をついた。

 「港街に他所からの大きな船が着くようになって以来、ここらは寂れる一方でしてな。フェンサリルの丘、というのが族長ゴジのお住みになるところの名前だったんですが、今じゃあ、丘も村もひとまとめにして、その名前で呼ばれる。…フェンサリルと宛名を書けば、手紙はあそこへ届く。役場も、郵便局も、あの村にありますよ。」

 「じゃあ、さっき停車場に降ろされていた荷物も、あの村の人たちのものなんですか?」

 「そうです。自分で注文したものは自分で引き取りに行くことになります。今日の、わしのように」

ヘグニの言葉通り、馬車のわだちは行く手で分岐して、一本が丘の上の城のほうに、もう一本は村のほうに向かっている。丘へ続く道は、かつては舗装されていたらしく、敷石の跡らしきものが見て取れる。だが、それはほとんど土と草に埋もれて見えなくなっていた。

 「そろそろ着きますぞ、族長ゴジ

 「…あの、ユーフェミアでいいです。その呼び方は、しっくりこないので。」

荷車が、石を踏んでゴトンと揺れた。

 行く手には、あばら家としか見えない粗末な小屋が見えてきていた。出迎えの子犬が、さかんに吠えながら小屋の前で走り回っている。

 (歓迎は子犬だけ、か)

何一つ実感は湧かないが、ともかく、父の故郷には到着したのだ。

 これからどうするかは何も決められていないが、祖父や父のことを知っている人は見つかったし、思っていたのちは違う意味でだが、歓迎もされている。

 話を聞きながらゆっくり考えればいい、と、その時は、気楽に考えていた。




 小屋の前でロバが、疲れ切ったため息とともに足を止める。

 子犬がはしゃぎまわりながら荷台に飛び乗ってきて、初対面のユーフェミアの手をぺろぺろと手を舐める。

 「こら、フェンリス。はしゃぐな。お客様だぞ」

 「ワン!」

子犬は、しっぽを振りながら、つぶらな薄青の瞳でこちらを見上げている。

 「ずいぶん人懐っこい子なんですね。」

 「少し前に死にかけとったのを拾いましてな。番犬代わりにちょうどいいだろうと飼ってるんですが、賢いやつで、留守番はきちんとこなします」

ユーフェミアは、ヘグニが自分の荷物を運ぼうとしているのに気づいて、慌てて手を出しかけた。

 「あ、自分で運びますよ」

 「お構いなく。こんなもんは、力仕事にも入りませんよ」

ヘグニは平然とした様子で、自分の荷物とユーフェミアの鞄を合わせて担ぎ、家の中に運んでゆく。

 (そんなに気を遣わなくてもいいんだけどな…)

仕方なく、後ろからついていく。客人というよりは主人の扱いをされるのは、少しばかり居心地が悪い。とはいえ、ヘグニが嬉しそうにしているので、あまり行為を無下にも出来ないのだが。


 ヘグニの一人暮らしの家は、飾りっ気もなく、質素そのものだった。

 整理はされているが、無駄な品がない。玄関を入るとすぐ、使い込まれた机と台所。いまどき珍しい、薪を使う古びた竈。その側に、使い込まれた鍋や、燃えさしを掻き出すためのスコップが吊るされている。といっても、仕事はあまり丁寧ではないらしく、床の端のほうに灰の山が作られたまま。

 (これじゃあ、この部屋で仕事するだけで”灰被り”になってしまうわね)

心の中で呟いて、ユーフェミアは、出来るだけ埃をたてないよう部屋を横切った。

 そして、すぐに頭に何かが引っかかるのに気づいた。

 見上げてみるとそれは、天井からぶら下げられた薬草や香辛料だった。付近で収穫したものを乾燥させている最中らしい。腰をかがめながら通り過ぎようとすると、足元に、くわや鎌などの農具が、無造作に置かれているのに気づいた。

 いかにも農村の家――といったところか。都会暮らしでは、なかなかお目にかかれないようなものばかりだ。

 「狭苦しいところで、申し訳ありませんな。明日には、お屋敷に行きましょう。何年も使ってないのを除けば、もっと広々とお過ごしいただけますよ」

 「はあ…」

 (あのお城に住むのは、確定なのね)

ユーフェミアは、窓から見えている丘のほうを見やった。

 いくら父の実家だと言っても、あんな立派な城にひとりで住む、というのは、生活が全く想像もつかない。中央島セントラルで母と二人暮らしだった時は、自分たちの家はおろか、部屋の一つさえ買い取ることができず、台所と寝室の二部屋しかない安い賃貸でずっと暮らしていたのだ。

 「ああ、そうだ。族長ゴジ

 「…ユーフェミアです」

反射的に訂正する。

 ヘグニは、目をぱちぱちさせたあと、渋々といった様子で言い直した。

 「ユーフェミア様、霧の話はご存知ですかな。この辺りじゃあ、頻繁に濃い霧が出る。霧が出たら、決して動いてはなりませんぞ。どこか建物の中に入るのが一番ですが、もしそれが出来ないなら、近くの安全な場所に留まって、じっとしていることです。」

 「知ってます。ここに来る間にも一度、その霧を見ました」

 (それに、…幻聴とか幻覚とかいうのも体験した)

戦場に赴く大昔の戦士たち。あれは、ただの幻というにはあまりにも鮮明で、まるで、だった。

 「ご存知なら、よいのですが…ここ最近、霧の出る頻度が上がっております。外に出られる際には、どうぞお気をつけて」

言いながら、ヘグニは奥の寝室の扉を開き、しばらく使われていないらしい寝台のカバーを外して、窓の外に向かって叩いた。埃が盛大に舞い上がる。ユーフェミアは思わず顔をしかめかけたが、ヘグニのほうはご機嫌だ。

 「普段は、この部屋は使っておらんのです。少々お待ちを。毛布を探してきますから…」

 「…ありがとうございます。」

礼を言いながら、ここを寝室にしていないなら普段はどこで寝ているのだろうと思いたくなったが、さっきの暖炉の側に長椅子があったことを思い出して納得した。

 (そっか、夜は冷えるから温かい暖炉の側で寝てるってことね)

このあばら屋に入った時から、隙間風が吹いていることには気づいていた。

 窓や扉はガタガタで、間に合わせの布や藁屑を詰めてあるだけ。寝室のガラス窓も端のほうが割れていて、板を貼り付けて形だけ塞がれている。毛布があったところで、夜はきっと冷えるだろう。

 (ベッドがあるだけ、いいけど…。あのお城のほうが、作りは頑丈そうだし、明日からはあっちに寝泊まりしたほうが良さそう)

ため息とともに、寝台の端に腰を下ろす。

 固い寝台は、粗末なことを除けばゆっくり足を伸ばして眠れそうなくらいには広い。しばらく洗ったり干したりしていなさそうなところだけが心配だが、…今夜一晩だけなら、灰被りにはならずに済むだろう。

 と、半開きの扉から、さっきの子犬が駆け込んできた。

 「ワン!」

寝台の端に足をかけ、さかんに尻尾を振っている。

 「よしよし。あんた、いい子ね」

温かな子犬を抱き上げると、灰で汚れた足の跡が膝の上についた。

 「…あんた、お風呂とか、入れてもらってないわよね」

 「クゥン?」

 (予防接種、とかも…。獣医さんすらいなさそう。ここは、都会じゃないものね)

都会ではないどころか、見たところ、このフェンサリルは、田舎の中でもかなり寂れた「秘境」とでも言うべき場所だ。

 さっきヘグニが停車場で受け取って運んでいた品が、小麦粉や油といった日用品だったところからしても、暮らしぶりはうかがえる。おそらくフェンサリルには、まともな小売店すら無いのだ。

 電気も水道も通っていない。竈で火を起こし、川か井戸で水を汲み、日の出とともに起きて日の入りとともに寝てしまうような、百年前の生活をいまだに続けている地方。

 観光で訪れるぶんにはいいが、実際に住むとなると大問題だ。

 (…これじゃ、人が出ていってしまうのも無理はないわね)

自分も、一体いつまで我慢できるだろう。

 一抹の不安を覚えながら、ユーフェミアは、子犬を抱いて窓の外をぼんやりと眺めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る