第4話 ”霧の島”の秘密
宿の主人が用意してくれた廊下の端の別の部屋で、一晩ぐっすり眠った翌朝、ユーフェミアは、予定どおり貨物馬車に乗るために乗り合い場所まで向かった。
貨物馬車は文字通り貨物を運ぶためのものらしく、荷物で満載された隙間に、取ってつけたように人が乗る隙間を設けているだけのものだった。
今日の乗客は自分一人だけだが、そのほうがかえって良かったのだ。昨日の四人も今日の便に乗るためにやってきていたら、誰かが御者台に出るか、ギュウギュウ詰めになっていたことだろう。
(あの人たち…どうなったんだろう)
ここに来ていないということは、追われている一人を除く残りの三人もまだ、事情聴取などで拘束されているのだろうか。
分からないことだらけだった。
けれど、彼らのことは、これから島の奥地へ向かう自分には当面、関係ない――おそらくは。
「それじゃ、出発するよー」
御者台から声がかかり、同時に、馬車がごとんと動き出した。
「わっ」
油断していたユーフェミアは、慌てて側の窓枠にしがみついた。
(ば、馬車ってこんなに揺れるの?! それとも、道のせい…?)
四頭立ての馬車は、街の敷石の上をガタゴトと揺れながら走る。馬車など、
「揺れるから気を付けてな。慣れないと尻が痛くなるぜ。我慢できなくなったら声かけておくれよ、休憩いれるからさ」
「は、はい…。」
馬たちを御するのは、縁のある帽子を目深に被った、そばかすの男だ。
若者、と迷いなく言えるほど若くはないが、中年と呼ぶにはまだ早い。
「一人でフェンサリルまで行くなんて、もの好きだよねぇ、お嬢さん」
男は、馬車を走らせながら陽気なナンパ口調で話しかけてくる。そのせいもあってか、どこか信用ならないという印象の人物だ。
「見どころの案内くらいはするよぉ。久しぶりのお客さんだしね。いつもは一人で馬車を走らせてて、誰とも話をしないんだよなぁ~」
「…そういうの、詳しいんですか? …あなたは、フェンサリルの人なんですか?」
「いいや、生まれはイーストポート。つまりは、この港町だよ。だけど、お客はフェンサリルにいるからね。船で届いた物資を、誰かが運ばなきゃならないだろ?」
そう言って、山積みの荷物を指さして、ニッと歯を見せて笑う。
「オレはアトリってんだ、よろしくなぁ。この馬車の荷物のほとんどは、『黄金のチェス亭』まで運ぶんだよ。あそこが一番の大口顧客でね。どうせお嬢さんも、あそこに泊まるんだろ。どうだい? 停車場から宿までは五十で運ぶよ。徒歩だと一時間はかかるんだ。馬車のほうが楽だから――」
「あ、えっと。私は、宿には泊まる予定はないです」
「うん? けど、フェンサリルには、宿はあそこしかないぜ」
「フェンサリルに…親戚が、いるので」
そこまで言って、少し不安になってしまった。その親戚には、一度も会ったことがない――泊めてもらえるかどうかさえ分からない。
ただ、フェンサリルへは観光で来たのではない。それだけは、確かだった。
「アトリさん、エイリミ・クリーズヴィいう人、知ってますか? フェンサリルに住んでいるはずなんですが」
「は? クリーズヴィだってぇ?!」
男は、素っ頓狂な声を上げた。
「え、ええ…」
相手の、予想外の反応に驚いて、ユーフェミアは少し体を反らす。
「お嬢さん、あんたまさか、”あの”クリーズヴィ家の人なのかい」
「いえ、…その、親戚ではありますが、会ったことはないっていうか…。有名なんですか?」
「有名っつうか、この島じゃ知らない奴はいないよ。フェンサリルの大地主様だ。なんでも、千年前に火山の噴火で島が吹き飛んじまう前は、王様だか、族長だかをやってた家の末裔だって話でねえ。はー、とっくに全滅しちまったもんだと思ったんだが…」
うっかり言ってしまってから、アトリは、ユーフェミアの眼差しに気づいて、はっとして口をつぐんだ。
「…全滅、ですか」
「あー…えっと、その。悪気はないんだ、すまんねぇ。あの家は、呪われてるんだ。とにかく不幸続きで、女は生まれてもすぐに死んじまう、男は気が狂う。で、最後の当主のエイリミ殿も、五年くらい前に発作で倒れてお亡くなりだよ。気の毒だがね、お嬢さん。」
「……。」
ということは、手紙の宛先である祖父は、既に他界していたのだ。そして、親族はもう、他には誰も生き残っていないらしい。
一瞬、頭が真っ白になりかけた。――だが、ここまで来て、そうですかと帰るわけにもいかない。
「その人のことを知っている人は、フェンサリルに残ってるでしょうか」
「そりゃあ…。まあ…。知らない者はいないだろうさ」
「行ってみます。父の、故郷なので」
それだけ言って、彼女は口を閉ざした。
アトリは、やれやれというように首を振り、馬たちの走る方向に注意を戻した。
表面上は平然としていたが、ユーフェミアの胸中は複雑だった。
何も分からなかった父の過去を知ることが出来たのは収穫だったが、父の親戚はもはや誰も生きては居ないという。
(…それに、お父さんの実家って、この島の古い名家だった…ってことよね。誰もが知ってるような…。だとしたら、島を出た理由って…。
「呪われた家」と言われるくらいなのだ。父が出自を隠していたのは親族と不仲で家を飛び出したからなのだろう、くらいにしか思っていなかったのに、実際は、もっと込み入った事情があったのかもしれない。
せめてフェンサリルで、そのあたりの事情を知る人を見つけて話を聞いてみたい。
そうでもしなければ、苦労してここまでやって来た意味がない――。
「げっ、やべえぞ。霧が出てきたぞ」
ふいに、アトリが独り言のように言って馬車の速度を落とした。ふと見れば、馬車の外の風景が白い霧に呑まれかけている。
「おい、お嬢さん。霧についての注意事項は、聞いてるよな?」
「え? …観光案内所では、霧が出てきたらすぐ建物に入れ、って言われましたけど、そのことですか」
「そうだ。霧が出てきたら動いちゃいけねえんだ、この島じゃあな。ここの霧は――」
言い終わらないうちに行く手のほうから、まるで毛布のような分厚い濃い霧の一群が押し寄せて来るのが見えた。
「くそ、間に合わんか」
アトリは、舌打ちとともに強く手綱を引いた。馬たちは嘶きなながら、渋々と停止する。ほぼ同時に、貨物馬車の周囲は一寸先も見えないほどの濃厚な”灰白”に包まれた。
「こんな町に近い場所で霧に出くわすとは…」
アトリの声だけは聞こえてくるが、御者台の上は全く見えない。馬車から差し出した自分の手すら、ほんの肘ひとつぶんの距離で見えなくなる。まるで、空気そのものが濃厚なミルクに変わってしまったかのようだ。
「すごい…これ、いつもなんですか?」
「ああ、いつもだよ! まったく、腹の立つ。これのせいで、しょっちゅう仕事が遅れるんだ」
腹が立つと言いながら、アトリの声は苛立っているというよりは、どこか怯えている様子でもある。
「いいか、外に出るなよ。霧がどのくらいで晴れるかは、まちまちなんだ。真っ白な中にずっといると幻聴とか幻覚でおかしくなっちまうこともある。実際、それで馬車から彷徨いでた観光客が行方不明になることもあって…。」
(行方不明。そう、確か観光案内所でそんな話もしてた)
これだけの濃霧だ。確かに、むやみやたらと動き回れば、方向感覚を失ってしまうだろう。目の前に崖があったって分からない。霧が出たら動き回るな、という警告は正しい。
御者台のほうは、いつの間にか静かになっている。アトリが口を閉ざした、というよりは、音が消えているのだ。
その証拠に、近くにいるはずの馬の嘶きや、身動きする気配すらしない。まるで、霧に包まれたまま、周囲の世界が消えてしまったような気がしてくる。
馬車の中にじっと座って、ユーフェミアは、ただ霧の晴れる時を待っていた。
――どれくらい、時間が過ぎただろう。
どこかから、ガシャン、ガシャンと金属のこすれるような音が響いてくるような気がした。
地響きのような重たい足音。大勢の人が行列を為して近づいてくるような。
最初は、あまりに静かなので幻聴でも聞こえ始めたのかと思った。けれど、その音はあまりにもはっきりと、しかも、だんだんとこちらに近づいてくる。
音がすぐ近くまで来ているような気がして、思わず馬車の外に目を凝らしたその時、唐突に馬車の進行方向の白灰の霧の中から、戦士たちの一団が姿を現した。
(…え?!)
それは、本当に戦に赴くかのごとく古めかしい鎧兜に身を包み、揃いの紋章の入った盾を背負い、槍や斧を手にした勇ましい男たちの姿だった。
彼らは馬車には目もくれず、ぽかんとしているユーフェミアの目の前を行進して、反対側の霧の中へ次々と消えてゆく。
何百人…いや、何千人はいるだろうか。皆、背が高く、金髪や銀髪の明るい色の髪をしている。徒歩の者も、馬に乗った者もいる。
そうした行列が過ぎていって、しばらく経った頃、どこか遠く、霧の奥から、角笛のような音が鳴り響いた。
戦いの始まりを告げる合図なのだ。
同時に、鬨の声が沸き起こる。地を揺るがすようなドドドっという音とともに、霧の奥から戦士たちのぶつかりあう咆哮と、武器の音とが響き渡った。馬のいななき、怒号。血の匂いさえ漂ってくるような気がする。
ユーフェミアは思わず両手で耳をふさぎ、馬車から飛び出したい気持ちになるのを辛うじて我慢した。
(これは、幻よね…? 本当に起きてるわけじゃ…ないよね…?)
なぜか、体が芯から震えてくる。
大昔の戦争のことなど知っているはずもない。それなのに、想像に過ぎないはずの戦場のことが、おそらくずっと過去のはずの時代の倒れてゆく戦士たちの姿が、はっきりと脳裏に浮かんでくるのだった。
胸が苦しくなる。
誰かが――とても大切な誰かが、この戦場で――たった今、死んでいこうとしているような、そんな気がしてくる――。
そのまま、どのくらい時間が経っただろう。
「…い、おい。お嬢さん、大丈夫かぁ?」
「え…はい…」
声をかけられて顔を上げると、目の前に、馬車の外から覗き込むアトリの、心配そうな顔がある。
ちょうど、視界を埋めていた霧が晴れて、うっすらとした靄の向こうに青空が見え始めているところだった。
「真っ青だぜ。何かあったのかい」
「あの…ええと、すいません。地響きみたいな音がして…」
それだけしか言えなかった。まさか、幻の大昔の戦士たちの姿を見たなんて、信じてはもらえないかもしれない。
アトリは、それを自分なりに解釈したらしい。
「ああ、地震だろうな。確かに、最後にグラッときたのは久々に大きかったからなぁ」
「…地震?」
「あんたの住んでたとこじゃ地震なんて無かったかもしれんが、この島じゃ日常茶飯事さ。何しろ、火山島だからな。まぁ、前回の大きな噴火から千年経ってる。そろそろまた噴火するんじゃないか、なんて言われてるが…ハハ、そうなったら、今度こそ全滅だなぁ」
男は、不安をごまかすようにわざとらしく笑い、御者台へと戻った。
「さあてと、先を急ぐぜ。今日中にフェンサリルに着きたいからな」
「……。」
貨物馬車が再び走り出す。ユーフェミアは、窓の外に過ぎてゆく風景を見回した。
当たり前だが、あの戦士たちの名残りや残像は、どこにも残っていない。見えるのは、何もない明るく開けた牧草地と、ときおり現れる小さな森。それに、壊れた建物の跡と思われる、草に埋もれた灰色の石だけだ。
(もしかしたらここは、大昔の戦場だったのかもしれない)
先ほどまでの濃霧が嘘のように晴れた空を見上げて、彼女は、漠然とそう思った。
(そんな気がする。…私のご先祖様たちが、ここで戦っていたのかもしれない)
馬車は走り続けている。
ここには、語られることのなかった物語がいくつも眠っている。過去のまま留められた島には、古い記憶がいくつも彷徨っている。
森を越え、小川を越え、山間の狭い道とトンネルを抜ける。美しいけれど、ほとんど無人の島。
廃墟となったいくつもの町や村の跡を越えて、その道は、最後に島の西の果て、――フェンサリルの入口にある、停車場へと辿り着いていた
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