第6話 最初の死

 ユーフェミアの予想したとおり、夕食は、日が暮れる前に始まった。

 灯りは、テーブルの上に置かれた煤で汚れたオイルランプだけ。電気の無い夜など初めての体験だ。

 自分の分の食料は街で買って持ってきたから、とユーフェミアが言うのも聞かずに、ヘグニは上機嫌で、おそらく「とっておき」なのだろう硬いパンを火で炙り、チーズを載せたものに、少ししかない茶葉を大事に使って淹れた色の薄いお茶を出してくれた。

 「ささ、どうぞ召し上がってくだされ。粗末な食卓で申し訳ないが、明日は、畑から野菜を取って来ますから」

 「はあ…。」

せっかくなのだ、断るのも申し訳ない。ユーフェミアは、何日も経っていそうなパンを、苦労して飲み込んだ。

 「あの…聞きたいことが」

 「何でしょう」

 「あの、丘の上のお屋敷…というかお城なんですけど。一体どうして、あんな立派なお城なんて作ったんですか? まるで要塞ですよね。誰かと戦争とか、してたんですか」

脳裏には、霧の中で見た幻影の戦士たちのことが浮かんでいた。もしも、あれがただの幻ではないのなら…。

 「戦争! おお、そうですとも。戦争があったのです。長らく打ち続く戦争が」

ヘグニは目を輝かせ、まるで吟遊詩人にでもなったように、朗々とした声で語りだした。

 「遥かなる昔、アスガルドにおわした神々の玉座。火の山のふもとにある黄金の玉座は座る者に万能を与える。その玉座を巡って二つの一族が争った。神々のすえなる一族、エーシルとヴァニールだ。そこへ海を越えて、かつて神々によりて追放されし不実なヨートゥンどもが戻って来た。時には同盟し、時に離反し…そして、争いは千年を越えて続いた。」

酒盛りの時に余興代わりに歌われる歌物語のような調子だ。

 実際、そうなのかもしれない。電気も通っていないこの島では、娯楽などそう多くは無いだろう。お伽噺に出てくるような”語り部”たちが古い物語を受け継いで、人が集まるたびに披露しているのだ。

 「あの丘の城は、その戦いのさなかに作られたのです。フェンサリルは偉大なる族長フリッカが作り、ヘルガへと受け継がれた不滅の城塞。族長たちは、予言の力によって未来を視、常に敗北を回避した。されど、おお、魔術に長けたエーシルの王たちの奸計を覆すほどにはならず、暴虐の力持つヨートゥンどもの武勇には勝らなかった。負けはしなかったが勝ちもせず、戦線は膠着したまま、世代を重ねた。されど我らの元には豊穣の恵みがあった。島の最も豊かな土地を占めていたのは、強大なるヴァニール一族だったから…」

聞きたいこともあるのに、話は全く途切れない。じれったくなって、ユーフェミアは話をぶった切るようにして言葉を挟んだ。

 「ということは、この島には有力な部族が二つと、他にも種族がいて、それぞれ争いあっていたってことですか?」

尋ねると、ヘグニは苦笑して首を振った。

 「かつて島には九つの種族がおり、神々の血を引く”黄金の一族”がヴァニールとエーシルの二つだったのです。その他の種族は、どちらかに、あるいはどちらにも仕えて戦いました。以前の族長ゴジ、エイリミ様なら、もっと詳しくご存知だったはずなのですが…そういえば、お屋敷には書斎がございます。わしは一度も立ち入らせてもらえなんだが、そこに古い記録も、蔵書もたくさんあったはず。ユーフェミア様。明日、行ってご覧になってはどうですかな」

 「そうします」

 (せめて、あのお城に何があるのかは確認したほうがいいわね)

粗末だが味は悪くない夕食を手早く胃袋に収めてしまうと、ユーフェミアは、まだまだ古い伝承について語りたそうな顔のヘグニに、疲れているから早めに休むと告げて、逃げるようにして奥の部屋へと引っ込んだ。

 (やれやれ…。)

扉の隙間からは、片付けをしているヘグニの鼻歌が聞こえてくる。ずっと一人暮らしで、話し相手もいなかったところへ、昔話を聞いてくれる人間が来たので嬉しいのかもしれない。

 (歴史のある島だってことは分かった。でも、ほとんど神話ね…。神々の血を引く、なんて言われてもピンと来ない)

父がクリーズヴィ家の直系で、伝承に謳われるヴァニール族の子孫だというのなら、自分にも、その”神々の血”とやらが流れていることになってしまう。中央島セントラルの大都会で困窮し、同級生たちに馴染むことも出来ず、誰かに尊敬されるどころかまともに友達さえ作れなかった自分が、だ。

 それはあまりに滑稽すぎる。


 大都会の中央島セントラルで暮らしてきたユーフェミアにとって、この島の昔話は、閉鎖された田舎ならではの迷信としか思えなかった。

 「魔法」や「神々の時代の遺産」など、本当は存在しない。

 口伝で伝えられた千年前の記憶が正しいはずもなく、むしろ、ほとんどがおとぎ話だろう。

 ――それが、彼女の知る”常識”だった。


 (だけど、こんな田舎の暮らしなら、まだ皆、神話の時代を信じているのかもしれない。お城があるんだし、大昔に戦争があったっていうのは事実なんだろうけど…それ以外は…どこまで本当のことなのか分からないわね。)

燻されたような匂いのする古い毛布の上に横になって、ユーフェミアは、ひとつため息をついた。

 (…そういえば、お父さんの手紙、どうしようかな)

ふと、そんなことが頭に浮かんできた。

 宛先である祖父エイリミは、もう、この世には居ない。手紙を届けることは出来ない。

 けれど、それを知ったからといって、捨ててしまうことも出来ななかった。父の肉筆である手紙は、今となっては、数少ない父の遺品でもある。


 手紙の中身は、見ていない。

 戸棚の奥から送られていない封筒を見つけたあと、開封しないままここまで持ってきたのだ。

 色褪せた糊付けを、勝手に剥がしてしまうことが悪い事のような気がして、ずっとそのまま。


 でも、渡すべき相手がもういないのなら――。


 (明日、夜が明けたら封筒を開いて見てみよう、かな…。)

父ヘイミルは、長らく離れていた故郷に、一体、何を書いて送ろうとしていたのか。

 幼い頃に亡くなったせいでほとんど記憶になく、母からも「不思議な雰囲気の人だった」くらいのことしか聞いていない肉親の、生の声に触れられる可能性があるのは、あの封筒の中身だけだ。




 いつしか、うとうとしかかっていたらしい。

 浅い眠りの中にあったユーフェミアは、犬が鼻を鳴らす声と、カリカリ扉をひっかく音で目を覚ました。

 「…ん?」

クンクンと悲しげに鼻を慣らしているのは、隣の部屋にいる子犬のフェンリスのようだ。

 「寝室に入れてくれ、ってこと? …でも…」

ユーフェミアは、夕食の前に子犬を抱き上げて汚れたズボンのことを思い出した。灰まみれの台所を走り回ったあとなのだ。寝室に入れて一緒に眠ったりしたら、きっと朝には、毛布も寝台も自分も、灰だらけになっているに違いない。

 「ごめんね、あんたはだめよ。ヘグニさんと一緒にお眠り」

 「クゥーン…」

扉と床の隙間に鼻をつっこんで、子犬は、悲しげに鳴いた。少し罪悪感が湧かないでもななかったが、仕方がない。

 ユーフェミアは再び寝台に戻り、今度こそ、朝まで眠ろうと横になった。

 既に、日はとっぷりと暮れている。カーテンもない窓の外は真っ暗で、明かりはひとつも見えなかった。

 少し風が強い。小屋の屋根がガタガタいっているし、窓の隙間から流れ込む風を感じる。


 犬の激しく吠える声で目が覚めたのは、それから幾らもしないうちのことだった。

 意識が浮上するのと同時に、腕に激しい痛みを感じた。

 「いっ…!」

まるで火をつけられたような強烈な痛みに、ユーフェミアは思わず飛び起きた。見れば腕に、紐のようなヘビが巻き付いて牙を突き立てている。暗くて色や模様ははっきりと分からないが、細身で、ひどくすばしっこい。

 見ている前で、そのヘビは、するりと腕から解けて床へ飛び降り、窓の隙間へ向かって逃げていく。

 「ワン! ワンワン!」

扉の外で、フェンリスが激しく吠え立てている。ヘビの気配を察知してのことに違いない。だが、一体どうして、家の中にヘビが? …どうして、寝台に寝ている人間を襲ったりする…?

 「こら、フェンリス。どうした、やめなさい。ユーフェミア様は眠っておられるんだぞ」

 「ヘグニさん! ヘビ…が…あれ?」

助けを求めるつもりで寝台から飛び降りたユーフェミアは、そのまま、へたりと床に座り込んだ。

 体じゅうの力が抜けていく。立ち上がれない。噛まれたところから体が冷たくなって、まるで血の気が引いていくかのように、目の前が暗くなる。

 「毒…? 毒蛇…嘘…」

 「どうされました、ユーフェミア様?」

扉の外の声に答えることすら出来ず、彼女は、床に横倒しになった。息ができない。体が動かない。

 (毒蛇に噛まれるなんて…。この辺りには、病院なんてない。あったとしても、血清なんて…たぶん置いてない…)

もう助からないのだ、と一瞬で悟った。

 こんなところで。

 まだ、やらなければならないこともあるというのに。

 …こんな、ところで…。



◆◆◆


 気付いた時、深い霧の中にいる自分に気づいた。

 「無理だった…私には、無理だった…ごめんなさい…」

すぐ側で、誰のものか分からない、すすり泣くような声がする。少女の声だ。

 聞き覚えがあるような、無いような。

 近くから聞こえてくるような、ずっと遠くから響いてくるような。

 「役立たずでごめんなさい。お父さん、叔母様、みんな…ごめんなさい…ごめんなさい…」

霧の向こうで蹲っている誰かの姿が見えた。背を丸め、体を震わせながら一人で泣いている。ユーフェミアが近づこうとしたとき、声がぴたりと止んだ。

 「…誰…?」

警戒したような声だ。

 「あなたこそ、誰なの」

ユーフェミアは返す。

 「私は…」

戸惑ったような、答えにくそうな沈黙。少しの間を置いて、ふいに少女は、自分で自分を納得させようとするように呟いた。

 「…いいえ…幻よね。こんなところに人がいるはずないもの。きっと、これは気のせい…」

 「え? いえ、待って。幻じゃないわよ。私、ここにいる。あなたは誰なの…?」

声は、届いたのか、それとも届かなかったのか。

 霧が押し寄せて、目の前を覆い尽くしていく。少女らしき人影も消えてしまった。辺りは、何も見えず、何も聞こえない真っ白な世界だ。


 その、真っ白な世界の奥から突然、轟音が響き渡る。

 空が、世界が黒い炎によって裂けてゆく。足元が大きく揺れ、ユーフェミアは、悲鳴を上げる間もなく地面に尻もちをついた。

 反射的に見上げた空に広がってゆく、炎と煙。火山から吹き出した煙と溶岩なのだと気づいたのは、ぱらぱらと降り注ぐ灰を体に感じた時だった。空高く、どこまでも延びてゆく火柱はまるで大樹の幹のようで、四方に広がる枝のような噴煙は、枝と生い茂る葉のようにも見える。

 それはまさに、火山の上に立ち上る、”死の大樹”とでも言うべき姿だった。

 (…”世界樹”…?)

唐突に頭の中に浮かんできた言葉とともに、激しい頭痛に襲われて、彼女は思わず両手で頭を抱える。

 (何、これ? 何なの? 私…これ、知ってる…)


 ”世界樹を、目覚めさせてはならない”


 (――ッ、…誰…?)

降り注ぐ灰が、足元にどんどん積もってゆく。蹲る背にも、髪の毛の上にも。

 息苦しい、いやな匂いのする風が迫ってくる。ここから逃げなければ、自分も死んでしまう。

 苦労して顔を上げ、立ち上がろうとした時、目の前に赤く燃え盛る溶岩が迫っていることに気づいた。

 だめだ、間に合わない。

 逃げ切れない――


 そこからのことは、はっきりとは覚えていない。

 夢の中でも死んだのか、それとも意識を失ったか何かなのか。

 長い長い旅路を辿ったような気もするし、ほんの一瞬だったような気も――。



◆◆◆


 「……!」

 ユーフェミアは声なき悲鳴を上げて、揺れる床の上に飛び起きた。

 (あれ? ここは…)

肩にかかるボサボサの長い髪をかきあげ、胸元からこぼれ落ちていた首飾りの鎖を服の中に隠しながら起き上がる。

 火山ガスも、溶岩もどこにも無い。そこは船の中で、辺りを見回すと、がらんとした船室の中の風景が目に入ってきた。

 乗客は他に四人だけ。甲高い声で喋る少女がひとり、他は男性。若者たちは地図を広げ、島で何をするか、どこに行くか楽しげに相談しあっている。

 しばらく考えたあとユーフェミアは、ここが、アスガルドへ向かう船の中なのだと思い出した。

 そう。自分は今、まだ見ぬ父の故郷を目指しているところなのだった。

 母が亡くなって、中央島セントラルの家財一式を処分して――


 「えっ、いや。ちょっと待って?」

思わず彼女は声を出し、両手でぴしゃりと自分の頬を叩いた。

 (痛い…。てことは、夢じゃない…よね…?)

ついさっきまでフェンサリルにいたはずなのに、まさか、あれが夢だったとでもいうのか。

 おそるおそる、ヘビに噛まれた腕を見下ろすが、当然、そこには何の跡もない。

 ふと、潮の香りがした。

 顔を上げると、四人組の中のひとり、細長い包みを抱えた黒髪の男が、むっつりした不満げな顔で船室の外へ出ていくところだった。

 (この場面…見たことがある…)

ごくりと、生つばを飲み込んだ。

 夢の――記憶のとおり。

 だとしたら、この先に起こることは…。


 思ったとおり、金髪の少女がこちらに近づいてくる。

 「ねえ、キミさあ。一人?」

 「えっ? …え、ええ」

 「ずーっと寝てたよね。船に乗った時からちょっと気になってたんだけどぉ」

 (やっぱりだ)

心臓がどきどきしているのを悟られないよう、できるだけ落ち着いたふうを装いながら、ユーフェミアは、ぎこちない笑みを作った。

 「疲れてたので…。あの、この島、入島許可書がいるのって知ってますか」

 「え?」

少女は、きょとんとした顔になった。

 「なあに、それ。知らない」

 「下船口のところに制服を着た人たちがいて、案内されると思います。行方不明者がよく出るので、よそから来た人は観光案内所で届けを出さないといけないんです」

 「へぇーー。詳しいんだぁ。ってことは、キミ、ここの人なの?」

 「…父が、この島の出身なので。里帰りです」

 「そっか、地元の人かぁー」

なぜか少女が、一瞬だけ残念そうな顔をしたような気がした。

 (……?)

 「あ、あたしはニッキーだよ。あたしたち、一ヶ月くらい大自然を満喫しようと思って来たんだ。火山とか見てみたくってさ。あんたもしばらくこの島にいるんなら、帰りの船とかで、また一緒になるかもねえ」

 「あの…聞きたいことが…」

言葉を続けようとした時、ボーッと汽笛の音が響いてきた。

 「おっと。そろそろ着くみたいだね。じゃ、まったねー」

ニッキーと名乗った少女は立ち上がり、連れのほうへ戻っていく。男たちも地図を畳み、荷物をまとめはじめていた。

 「ローグは? まだ甲板なの?」

 「そのうち戻って来んだろ。それより、降りたら…」

 「…うん、だね」

話をしながら、三人は連れ立って下船口のほうへ向かって歩き出す。

 (…同じだ)

ユーフェミアは、胸のあたりで拳をぎゅっと握りしめた。


 過去に遡った? それとも、未来を夢で見ていただけで、今いるここが現実?

 どちらも、にわかには信じがたい。というか、あり得ない。


 いや、あり得ないといえば、そもそも、島に着いた初日に民家の中で毒蛇に襲われて死ぬというシチュエーション自体があり得ない。そんな危険きわまりない島なら、最初から観光での入島など禁止されているだろうし、人が住むことすら出来ない。

 (というか、…あのヘビ、寝台まで上がってきて私を噛んだってことよね? 子犬のフェンリスでも、ヘグニさんでもなく…)

まるで、何かの意思を持った存在のように。誰かに、狙われた? まさか、そんなことがあるはずもないが…。

 (…呪い…クリーズヴィ家の…。女家長が決して生まれない一族…女はもすぐに死ぬ…?)

荷物を抱えあげ、下船口に向かいながらも、彼女は考え続けていた。

 (クリーズヴィ家の巫女…予言の力…。まさか、失敗した未来を覚えて過去に戻れる、とか、そういうことなの? だとすれば、確かに周囲からすれば未来を知っているように見えたはず…)

人でごったがえす船着き場。船で届く荷物を待ち、期待に満ちた眼差しで荷下ろしを見つめている住民たち。

 何もかも、全てが記憶のままだった。

 制服姿の人物がこちらに向かってやってくるのを見た時、彼女は確信した。


 これから始まるのは、――の世界なのだと。

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