〜10と0の約束と雲の作法〜
そして、白線は一度秋色へ戻る――始まりの少し手前、あの晩秋の話。
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0|白線のきもち
白線ってずるい。まっすぐなのに、胸の中で曲がる。
球場から歩いてすぐの場所に住んでいる。ちょっと変だと言われるけど、野球が好き。ランドセルよりスコアブックが似合うって、よくからかわれる。
近くで大きな大会があると聞いて、三連休の初日、ひとりで開会式を見に行った。
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1|開会式――列に立つ「10番」と「0番」
整列した列の中に、ひとりだけ背の高い子。背中の番号は10番。向かいの列の先頭近くに、0番。
ふたりは、ほんの短い唇の動きだけで何かを交わした。音はない。でも、約束の形だけはわかる。
(――戦うんだね。“次は決勝で”って、そんな合図)
(あの短い口の動き――“決勝で会おう”。あれが、わたしの白線の始点)
わたしは、その約束を見届けると決めた。
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2|準決勝――0番の背中
二日目。準決勝は、0番のいる赤×白のフェニックス対、黒×黄のゴールデンウィンズ。
最終七回、ここまで気迫のこもったピッチングでウィンズ打線を抑えてきた0番。二死から遊撃手のエラーと、外野と内野の間に落ちるポテンでウィンズに一点を先制される。七回裏、二死二・三塁。打席は0番。
鋭い打球――だけど、三塁手正面のライナー。アウト。試合終了。
(決勝で会う約束は、ここでは叶わないんだ……それでも、“叶えようとしている”背中は、まぶしかった)
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3|決勝――濃い青へ、白球
三日目=決勝。
「ゴールデンウィンズ 対 スカイホークス」
場内アナウンスと同時に、黒×黄の群れと濃い青の群れが白線の向こうで向かい合う。
10番は先発でマウンドへ。投げるたびに空気の粒がそろっていく。五回、六回……走者はひとりも出ない。時間が淡い色で積もる。
六回の表裏のあいだ。売店へ向かう人の波で通路がざわめいた。開けた視界の先に、昨日の準決勝で見た0番がいた。風で紙コップが転がってきて、0番がつま先で止め、柵の外へよける。つばの影が視界の端に落ちる。
0番は視線をマウンドに置いたまま、半歩だけさがって、わたしの前に細い視界を空けてくれた。
「昨日もいたよな」
「……うん」
「ここ、見える?」
「見える。ありがとう」
「10番、すごいだろ」
「うん。すごい。開会式からあなた達が気になってた。“決勝で会おう”ってところだけ、なんとなく分かった」
「ずっと前から、次に戦う時は“答え合わせ”するって約束してた」
「答え、もう分かったの?」
(小さく首を振って)「まだ言わない。あいつの姿を見届けてから」
それだけ。ふたりとも、また音のない観戦に戻る。
(答えは、10番の“間”と“音”の中にあるのかもしれない)
最終七回表、三塁線のイージーゴロがはじけて、初めての走者。スタンドがざわつく。
それでも10番は動じない。ベンチへ、ふっと笑う。
(白線が曲がったら、引き直せばいい――そんな笑い)
七回裏、二死。
10番のひと振り。高めの失投を、空のいちばん濃い青へ。
濃い青の胸に縫われた鷹が、風をすくうみたいに、白球は弧を描く。
やがて弧はゆっくり降りてきて、通路の端で――ころん。
白球は、わたしの足もとで止まった。一瞬の静寂から湧き上がる大歓声の中、拾い上げる。掌が、じわっと熱い。
スタッフさんが微笑む。「ホームランボールは打った選手にあげるね」
うなずくと、10番は遠くで少し照れて会釈をした。
その笑顔で、胸のどこかがぱっと明るくなる。
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4|帰り道――“声”の練習
帰り道、歩道の白線がやたらとまぶしかった。家に着くまでの短い距離で、決める。
(今夜から“練習”する。いつか、ちゃんと話しかけられるように)
鏡の前で、笑顔の角度と息の吸い方を確かめる。すぐ顔が赤くなる。
名前、聞けばよかったな――と少しだけ後悔して、でも、言葉を一つ選ぶ。
「ねぇ、長身くん?」
いつでも声をかけられるように。
その一言が、わたしの“白線”になった。
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5|メモの端――10番と0番、そして四角
机のスコアブックの余白に、短い走り書き。
・開会式/10番と0番――唇で交わす「決勝で会おう」
・準決勝/0番は負け。それでも背中はまぶしい
・決勝/10番のサヨナラ――白球、足もとへ
・返球、会釈。胸が明るくなる
・練習開始:「ねぇ、長身くん?」の言い方
ページを閉じる時、胸の真ん中に円が一つくっきり残る。10番と0番の約束が描く円。
そして、わたしの四角――“会いに行く場所”。(どこかはまだ決まってない。けれど、ちゃんと準備する)
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6|一週間後・富士見ヶ丘小
晩秋の風が、指先の体温をゆっくり奪っていく。ここはスカイホークスの練習場所――富士見ヶ丘小学校の校庭。白線は乾いて粉っぽく、踏まれるたびに「さらっ」と鳴る。
金網に指を添えると、夕方の冷たさが指先から肩まで細く登っていく。
先週のサヨナラとノーヒットノーランは、パン屋でも古本屋でも話題だった。わたしはその噂を地図みたいにたどって、フェンスの外から覗き込む。
グラウンドの中には背の高い10番と、サードの5番の子がいた。昨日、サードで一つ弾いたあの5番だ。
「前! 正面! 腰!」
短い指示が空気を切る。新チームの内野ノック。まずはお手本として、その5番が一歩、勇気で前に出て、低い打球を正面で止める。
「スパン」
ミットが鳴る。胸の奥が、まるくふくらむ音。10番はピッチングのお手本。
投げ終わるたび、右肩がほんの少しだけ先に落ちる――あの落ち方。わたしは背中で人を覚える。走る軌道、止まる角度、そして次の一歩。
この背中は、一度フェンス越しに見ている。開会式の列で10番と0番が唇で交わした短い約束。準決勝で0番が負けて、決勝で10番が空へ答えを描いた。
わたしは、あの背中を探して来た。
(……いた)
遠くのベンチに視線を落としたまま、校庭の音を数える。
土の擦れる「しゃっ」、スパイクの「トン」、指示の「前!」「正面!」「腰!」、それと、革の「スパン」。
音がそろっていく。背中が、音を束ねていく。
「そこ、いいぞ。もう一歩、前」
10番が、5番へ短く声を投げる。声は強いのに、とげがない。
5番が一歩分、勇気を出して、次のゴロを“前で”止めた。
(大丈夫。わたしは、背中で覚えるから)
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7|商店街へ――“一行”ずつ勇気を育てる
夕焼けがガラス戸に“橙色の白線”みたいに差し込んで、商店街の影が長くのびる。パン屋は甘くて、古本屋はインクの匂い。文具店の前は、紙がこすれるやさしい音。
自転車を押して歩きながら、声の練習を口の中で転がす。
――ねぇ、長身くん?
――背が高いと、雲って掴めるの?
“雲”の「く」で舌がふわっとほどけ、“長身”の「しん」で少しだけつまずく。
通りの先に自販機が三台、白い筐体を並べて立っていた。商品窓のガラスに空が四角く切り取られて流れる。
(ここ、言いやすい)
人は通るけど、足を止められるだけの余白がある。自販機の足元は平らで、落とした“きっかけ”が迷子にならない。
わたしは心の地図に小さな□をひとつ描いた。
“会いに行く場所”。“言える場所”。
家に戻ると、机にメモ帳を開く。ページの一番上に、今日の“勇気”を一行。
・場所:商店街・自販機の角
・合図:ねぇ、長身くん? 雲、掴める?
・きっかけ:何かを落とす
書いて、声にして、息の角度を確かめる。
“今日の分だけ”でいい。明日も一行、続ける。
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8|四角の選び方――落とす練習
ポケットの中身を机に並べる。ハンカチ、鍵、そしてパスケース。
指でパスケースの角を撫でると、丸い縁が「コト」と小さく鳴る。
(これ、にしよう)
鏡の前に立って、落とす練習。
視線を空へ――雲を一秒。
親指で縁を滑らせて、ポケットの口から“するり”。
足もとで「コト」。
しゃがまず、指で差しながら言う。
「じゃあ、これも掴める?」
声は小さく、でもまっすぐ。
今度は拾い上げられる側の練習――受け取る笑顔、角度、目線。
頬が少し熱い。けど、悪くない。
(“たまたま”は、案外、味方。タイミングって、たまに人の味方をする)
メモ帳の隅に、四角をもう一つ描いて、中に☁️をひとつ。
10番と0番の約束は、胸の中央で丸い円になっている。白線は、いつでも引き直せる。言葉も、勇気も。
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9|もう一度、校庭へ――背中の確信
翌日も、その次の日も、富士見ヶ丘小の塀沿いをゆっくり歩く。
「前! 正面! 腰!」
短い言葉が体を整えるのを見るのが好きだ。細かいことが分からなくても、空気が前に動くのは分かる。
10番の右肩は、やっぱり投げ終わりに少しだけ先へ落ちる。
捕球して、止まって、次へ運ぶ。
その一連の“間”が、等速で流れる。
準決勝の0番、決勝の10番。風の中で交わされた、短い約束。
その糸口を胸に巻いたまま、背中を見続ける。
(覚えた。だから、もう、見失わない)
5番がまた一歩、前へ出られた時――「スパン」。
革が鳴って、校庭の空気がひとつにそろう。
わたしは、自分の胸の中の小さな四角が「カチ」と嵌る音を聞いた気がした。
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10|商店街の角――四角い鏡と雲の作法
夕方の商店街。自販機のガラスが、雲を四角く切り取って流す。
手すりに指先を置き、深呼吸。昨日までの練習を、もう一度だけなぞる。
――ねぇ、長身くん?
――背が高いと、雲って掴めるの?
言葉の重さを、今日の分だけ量る。
パスケースの縁を親指でなぞる。
自販機の横に立てば、雲の色も、わたしの声も、きっとよく映る。
(会いに行く。いつかじゃなくて、“次”に)
スマホのメモに一行、追加。
・“今日の分だけ好き”――言える準備
言えるのは、たぶん春。
服が制服に変わって、白線の粉が冬の湿りから解放されたころ。
でも、勇気は今日から育てる。四角の中に雲をひとつ入れて、毎日、一行。
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11|夜――10番と0番と、明日の一行
ベッドに横になって、天井の模様を“雲”に見立てる。手を伸ばす。届かない。
でも、届くものはある。
枕元のメモ帳を開いて、最初のページを指でなぞる。
――開会式、10番と0番。
――「決勝で会おう」。
――準決勝、0番は負けたけれど、背中はまぶしかった。
――決勝、10番のサヨナラ。白球が足もとで止まった。
ページを閉じる時、胸の真ん中に円がくっきり残る。10番と0番の約束が描く円。
そして、わたしの四角――“会いに行く場所”。
(白線って、ずるい。まっすぐなのに、胸の中で曲がる)
だから、曲がった先に印をつける。
“ねぇ、長身くん?”と始まる印。雲の作法を、一行ずつ覚える。
明日の分の勇気は、また一行。
四角の中に雲をひとつ描いてから、目を閉じた。
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12|決意――春へ
そして、季節はめくれる。
春。商店街の角。自販機の前。
「ねぇ、長身くん?」
わたしの一言は、そこで初めて、ちゃんと声になる。
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(つづく)
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