〜探す声、街に響く〜
1|翌朝――空回りの青
翌朝。
目が覚めた瞬間、胸の奥がじわっとこそばゆい。名前も知らない“あの子”の声が、鼓膜の内側に薄く残っている。
(長身くん、か……)
台所には父のメモがマグネットで留めてあった。
「現場直行。カレー温めろ。食器浸けとけ。――父」
「了解、っと」
カレーを温め、米をよそい、食器を片づけ、鞄を背負う。手は勝手に動くのに、意識はずっと昨日の自販機の横へ戻ろうとする。
校門の桜はほとんど散り、花びらが白い帯みたいに歩道に積もっていた。
――白線。昨日も思った比喩が、もう一度胸に浮かぶ。スニーカーがその白い帯をシャッと切る。
(でも、俺はもう野球は――)
その“でも”の先、言葉が続かない。灰になったはずの場所で、指先ほどの熱が、確かにちろちろしている。
⸻
2|午前――教室の空気、引っかかる喉
朝のHR。担任の声、教科書の紙の匂い、チョークが黒板を擦る音。
席替えで前の席になった男子が小声で言う。
「なあタカってさ、背……いくつ?」
「え? たぶん百七十八、くらい」
「やべー。バスケ来いよ」
「はは、俺は――」
言い淀むと、斜め前の女子がくるっと振り向いた。
「声が大きい人は応援団が似合うよ?」
「いや、俺は……」
“俺はもう野球はしない”。昨日まで簡単に出せた台詞が、喉の奥で引っかかる。
(なんだこれ。何が引っかかってんだ、俺)
窓の外はからっと晴れているのに、胸の中は曇り気味だ。
昇降口へ向かう廊下の掲示板の端に、紙が一枚。
『富士野リトルシニア 見学会 週末実施――投手・捕手歓迎』
視界の端に入った。俺は視線を外した。ポスターの角が、制服の袖にカサッと触れた。
⸻
3|休み時間――ナツミの「勘」点灯
二時間目と三時間目の間。連絡帳に走り書きしていた手が、つい雲の形をなぞる。余白には四角を一つ――小さなパスケースみたいな落書き。
「……アンタ、にやけてる」
斜め後ろから、低い声。振り向く前に分かる、ナツミだ。俺のノートに視線が落ちる。
「雲と四角。ふーん。“事件”の匂い」
「事件じゃねえよ」
「じゃ“出来事”。――顔に出てる」
「出てる、のか」
「出てる。目が少し遠く見るやつになってるし、耳、赤いし」
「耳?」
「照れてる時だけそうなるの、昔から知ってる。――昼、事情聴取。逃げるなよ、長身」
指で俺のノートの四角をコン、と叩いて、ナツミは前を向く。
胸の奥で、観念と安堵が半分ずつ、ため息みたいに混ざった。
⸻
4|昼休み・前半――ナツミに“昨日の話”を白状
昼休み。校舎裏のベンチ。パンの袋を開けたところで、影が落ちた。
「はい、事情聴取はここで。座れ、長身」
「お前、昼飯時から刑事ムーブだな」
「幼なじみ科・感情犯罪捜査課。で、供述」
「……自販機の横で、声をかけられた。『ねぇ長身くん? 雲、掴める?』って」
「は? 詩? 突然のポエム?」
「続きがあってさ、『じゃ、それも掴める?』って、足元の――」
「待って。クイズ形式やめて。で、掴んだの?」
「パスケース。落としたやつ渡した」
「はーい、重要物証入りました。で、顔は? 雰囲気は?」
「黒髪、目が不思議。遠くと近くを一緒に見てるみたいだった。……なんか、笑い方がやわらかい」
「ほー。で、名前は」
「そこまでは。けど――チラッと中身見えちゃって。富士野西中の生徒証、一年二組って印字。校章が藤のマーク。だから隣の中学の子」
「お隣さん来たー。距離的に詰めやすい。作戦名:商店街見回りを提案」
「言い方よ」
「事実。放課後は昨日の場所を中心に捜索。私は監視役兼ツッコミ担当。あとこれ」
ナツミがチョコを差し出す。渡す手が、ほんの少しだけ力む。
「糖分が下がると判断力落ちるから。――勘違いしないで、別に応援とかじゃない。アンタがうじうじしてると目障りだから、前だけ見て進みな」
「ありがとな」
「……礼は一回だけ受理。次は結果で」
「はいはい」
「これぐらいで調子に乗るな。報告義務は帰りまで続く。以上」
ほとんどツン、その中にあるほんの少しの優しさ。
でも、そのほんの少しが地面みたいにしっかりしてるから、俺は前に足を出せる。
⸻
5|昼休み・後半――ヒデの決意、アユミの一歩
校庭脇。ヒデはバスケ部体験で、胸の前でのパスの受け方を教わっていた。
ボールが胸にドンと来るたび、ヒデの足はタタンと自然に前へ出る。
「ヒデ、どうだ」
「楽しい。怖いけど、楽しい。――小さくても、やれるって証明したいんだ」
「……そうか」
「タカは?」
「俺は、まあ。考え中」
ヒデは何も言わない。ただ、前髪を指で上げてにこっと笑う。
その笑顔は、俺の“燃え尽き”に向けて、やさしく火打石を打ってくる。
フェンスの向こうでは、アユミがソフト部の体験でゴロ捕球。
腰を落として、前・正面・腰。短い合図で身体を作る。
こちらに気づいたアユミが、両手をぶんぶん振る。
「タカー! 見ててよ!」
「お、おう。ナイスキャッチ!」
「へへっ。……怖いのもあるけど、やる。あの時のタカ達みたいに前に向かって進む!」
怖いけど前へ。その芯の強さが、胸に灯を足してくれる。
⸻
6|放課後――ナツミの“監視”宣言
昇降口。靴を履き替え終える前に、すでに隣に来ているナツミ監視官。
「で、見回りルートは」
「“見回り”言うな。昨日の自販機起点、商店街をゆるくスキャンだ」
「いいね。私は後方警戒。目撃したら即報告。――はい、出発」
コツコツとスニーカーの音を揃えて、商店街へ。
⸻
7|商店街――“長身くん”を探す足音
アーケード。パン屋の甘い匂い、古本屋のインク、駄菓子屋の砂糖。
昨日の自販機を起点に、同心円みたいに範囲を広げて歩く。富士野西中のジャージを着た男子が二人、コーラの缶をカンと蹴りながら横切っていく。
(駅側は違う。図書館は遠い。公園は夕方――)
「お兄ちゃん、また来たのかい。さっきもここ歩いてたろ」
パン屋のおばちゃんが笑う。
「……えっと、ラスクください」
「恋の燃料ね。おまけしとく」
恋って言葉にむせそうになる。そんなに出てるのか、俺。
自販機の並びの角を曲がる。文具店の前――紙とインクの匂いをさらって風が抜ける。コツ、と軽い足音――やわらかな声。
「長身くん?」
反射で振り返る。
昨日の茜色を小さなフィルムに閉じ込めて、そのまま歩いてきたみたいな彼女が、立っていた。
⸻
8|再会――「やっぱり探してたんだ」
黒髪が風で揺れて、光を細い糸みたいにほどく。
瞳は、遠くの何かと近くの何かを同時に見ている色。
「……探してた?」
彼女が、いたずらっぽく片眉を上げる。
「……まあ、ちょっと」
「ちょっと、ね。――顔は“すごく”って言ってる」
「パン屋のおばちゃんも言ってたけど――そんなに顔に出てる?」
「うん。長身くんは、だいたい正直」
ふわっと笑って、昨日のパスケースをひらひら。
「ちゃんとお礼、言えてなかった。ありがと。長身くんの近くに落として良かった」
「いや、俺もたまたまあそこにいて――」
「たまたまは、案外、味方。タイミングって、たまに人の味方をするから」
投げられる言葉が柔らかいのに、芯に小さな重りが入っていて、すとんと胸に落ちる。
「ところで、昨日の続き。雲は掴めた?」
「今日の雲は、速すぎる。手を伸ばす前にどっか行った」
「じゃあ、代わりにこれ掴んで」
差し出された手。
“言葉”を差し出されたみたいで、息を吸ってから軽く握る。
――体温、俺よりすこし高い。脈は、俺より落ち着いてる。
「うん、掴めたね」
「……確認方法、独特」
「そう?」
首を小さく傾げるだけで、胸がドクン。
⸻
9|自己紹介――「今日の分だけ」
「ちゃんと自己紹介、してないよね」
彼女が背すじを伸ばす。
「ユキノ。富士野西中・一年二組」
――ユキノ。名前が内側から光るみたいに胸に灯る。
「俺は、タカ。富士見ヶ丘中・一年三組」
「知ってる。背の高い、タカ」
「名前で覚えてくれ」
「もちろん。タカ。――長身くん」
“タカ”と“長身くん”。彼女の声帯を通ると、どっちも甘くなる。
「野球、してたでしょ?」
来た。昨日の続き。
親指の付け根を見せる。硬くなったところ。
「……してた。今は、してない」
「うん、知ってる顔」
「知ってる顔?」
「投げてる人の背中って、不思議と覚えてるもの。――それから、投げ終わった人の顔も」
それ以上は言わない。でも、確かに何かを知ってる目。
「さっきから気づいてたけど、歩くとき右肩が少し先に落ちる。投げ切った肩の落ち方」
「……見てんな」
言われて意識すると、右肩の後ろがじんと重い。昨日まで気づかなかった残響。
「背中は、覚えるから。やらないの?」
「今は、分かんない。燃え尽きたって思ってた――んだけど――」
「んだけど?」
「昨日より、今日の方が……ちょっとだけ、胸がうるさい」
ユキノは春の風みたいに笑った。
「ね、タカ。言っていい?」
「な、なにを」
「好き、って言ってもいい?」
――心臓が二拍飛んだ。
間が落ちる。顔、熱。耳、熱。言葉、消失。
けれどユキノは慌てず、距離を半歩だけ詰めてくる。
「“全部”とか“ずっと”とかじゃないよ。大きい言葉はまだいい。今日の分だけ。――今日の私、タカのこと、好き」
“今日の分”。
毎日更新されるみたいな期限つきの宣言が、今の俺にはむちゃくちゃちょうどいい。
「……ありがと。俺、こういうの、慣れてなくて」
「知ってる顔」
「いや、知ってるの範囲が広い」
「ふふ。じゃあ、交換条件。タカも何かひとつ、今日の分だけ教えて」
「今日の分……」
野球、仲間、母ちゃんの約束――全部混ざってすくいにくい。だから、ごく小さいやつを選ぶ。
「――今、俺、雲よりも近いものが掴めた」
ついさっき握った手の温度。
ユキノは一拍置いて、ゆっくり頷く。
「うん。今日の分、受け取った」
⸻
10|連絡先交換――“今日の分”の証拠
「ね、タカ。今日の分を忘れないように――印、つけよ?」
ユキノがスマホを胸の前で持ち上げる。画面にはQRの四角。
「お、おう」
俺も慌ててポケットからスマホを出す。カメラを向けると、ピッ、と小さな音。
「交換、完了」
ユキノの表示名は『ユキノ❄︎(1-2)』。アイコンは薄い雲の上にちいさな雪の結晶。
俺の登録名を、彼女がすばやく打ち替える音がする。
「……『タカ(長身)』、保存」
「カッコの中いらんだろ」
「大事な特徴。雲に手が届く人、って意味」
「届かねえよ」
「じゃ、いつか。――既読は急がなくていいよ。返事は短くていい。そのかわり、続けてね。今日の分を」
通知音が一拍遅れてなり、心拍とズレた。
ユキノが試しに一行、送ってくる。
『☁️ またね』
俺は親指で迷って、たった三文字を返す。
『掴んだ。』
既読がついて、すぐに一行。
『じゃ、明日の分は“返信一行”ね』
彼女は小さく笑って、画面をポケットにしまった。
⸻
11|帰り道――報告会
商店街の出口で、コツコツとスニーカーの音。振り向く前に分かる、ナツミ。
「で? 中間報告忘れてただろ? 最終報告は?」
「名前、ユキノ。富士野西中の一年二組」
「隣、確定。クラス番号も把握。情報戦、優位。ほら、徘徊の成果、出たじゃん」
「それから――今日の分だけ好きって言われた」
ナツミの眉が一瞬だけ跳ねて、わざと視線を外す。
「ふーん。へぇ。ま、まあ、よかったじゃん。アンタがニヤけてると町の治安が悪くなるから、ほ・ど・ほ・ど・に」
「褒めてないよな、それ」
「褒めるわけない。――ほら、昼のチョコの残り、没収」
「やだ。半分な」
「七割」
「六割」
「……交渉成立、半分こ」
取り合いの末に、結局半分こ。
甘いものって、緊張のあとに効く。ナツミ、ありがとな(とは言わない)。
⸻
12|夜――小さな火、確かに
風呂、飯、洗い物、宿題。全部終わって布団に入る。
天井の模様が雲みたいに見える。手を伸ばす。届かない。
(でも今日は、届いたものがある)
“ユキノ”。
口の中で何度も転がしてしまう。
“今日の分だけ好き”。
その言葉は、今日の俺を“終了”じゃなく“保存”にしてくれた。
スマホに通知。
——ナツミ「顔、ニヤニヤして寝るな。虫歯になる」
——ヒデ「明日も一歩『前』へ。タカ、学校で」
——アユミ「ソフト、入部届出した! タカも“何か”決めたら教えて!」
——ユキノ「今日の分だけ好き。明日の分は、一緒に探そ。おやすみなさい」
画面を暗くして、目を閉じる。
冷たかった灰は、もう冷たくない。
まだ燃えてはいない――でも、火は、いる。
明日も“今日の分”を、ちゃんと積もう。
そんなふうに思えた夜だった。
眠りに落ちる刹那、耳の奥でスパンと小さく革が鳴った気がした。
⸻
白線は、今日も引き直せる。
恋の線も、同じだ。今日の分だけ、まっすぐに。
そして白線は、一度、秋色へ巻き戻る――。
(つづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます