第2章 尾張に差す影

永禄三年、初夏。

尾張国(おわりのくに)の宿場町は、戦国の世とは思えぬほどの活気に満ち溢れていた。

東海道を行き交う商人たちの威勢のいい声、荷を運ぶ馬のいななき、そして茶屋から漂う香ばしい団子の匂いが混じり合う。

子供たちが土埃を上げながら駆け回り、母親に叱られる声が響く。

そこには、人々が確かに生きている証である、温かな喧騒があった。


月読夜凪(つくよみよなぎ)は、そんな光景を町外れの大きな楠の木陰から静かに眺めていた。

陽光にきらめく町の営みと、自分がいる日陰。

その間には、決して越えることのできない深い溝が横たわっているように感じられた。

あの賑わいは、かつて彼が持っていたはずの、しかし今では遠い記憶の彼方にあるものとよく似ている。


(平和、か……)


彼の唇から、自嘲めいた呟きが漏れる。

故郷を焼かれ、一族を皆殺しにされたあの日から、夜凪の世界は色を失ってしまった。

この目に映る鮮やかな日常も、彼にとってはただの背景に過ぎない。

心を満たすのは、冷たく燃え続ける復讐の炎だけだった。


その時、町の入り口がにわかに騒がしくなった。

人々の会話が途切れ、皆が同じ方向へと視線を向ける。

地鳴りのような足音が、大地を揺らしながら徐々に大きくなってくる。

町の男衆が、慌てた様子で道の両脇へと人々を誘導し始めた。


やがて姿を現したのは、整然と隊列を組んだ、おびただしい数の兵士たちだった。

天に突き立つように掲げられた旗印には、今川家の家紋が染め抜かれている。

駿河の大名、今川義元が率いる大軍勢だ。

その数、まさに蟻の行列のごとく、どこまでも続いているように見えた。


「今川の軍勢か……」

「いよいよ、この尾張に攻め入る気だな」

「織田の若様は、どうなさるおつもりだろう……」


人々が固唾を飲んで見守る中、軍勢は町の中を通り過ぎていく。

その行軍は一糸乱れず、見事なまでに統制が取れていた。

だが、夜凪はその光景に、強烈な違和感を覚えていた。

兵士たちの顔に、表情というものが一切ないのだ。

まるで、精巧に作られた人形の行列を見ているかのようだった。


(……おかしい。何かが、おかしい)


誰もが皆、虚ろな目をしている。

戦に向かう高揚も、故郷を思う憂いも、死への恐怖すらも感じられない。

ただ、命令に従って足を動かしているだけの、魂の抜け殻。

そのあまりに不気味な光景に、町の喧騒は完全に沈黙していた。

先ほどまでの活気が嘘のように、冷たい緊張が場を支配する。


夜凪の視線が、ふと街道沿いにある旅籠(はたご)の二階へと吸い寄せられた。

開け放たれた窓辺に、二人の人影がある。

一人は口元に蛇のような笑みを浮かべた小柄な男。

もう一人は、深い編み笠で顔を隠した大柄な男だ。

彼らは、まるで自分の駒の動きを確かめるかのように、眼下の軍勢を満足げに見下ろしている。


「くくく……見事なものだな、朽葉(くちば)よ」

「これだけの数を揃えれば、儀式は滞りなく進むでしょう、鉄斎(てっさい)殿」


小柄な男――朽葉の声は、粘りつくように湿っている。

夜凪の鋭敏な聴覚が、その声に含まれた微かな霊力の残滓を捉えた。

間違いない。

あれは、闇御門の術者だ。

あの兵士たちは、術によって心を奪われているのだ。


「この尾張の地は、古くから良質な霊脈が走っている」

「今川の兵どもを生贄に捧げ、その霊脈の力を根こそぎ吸い上げてくれるわ」

「すべては、あの方の悲願のために」


大柄な男――鉄斎が、感情の篭もらぬ声で応じる。

霊脈。

その言葉に、夜凪の眉がピクリと動いた。

土地に眠る生命エネルギーそのものを利用する。

それこそが、闇御門の行う呪術の中でも、特に大規模で邪悪な儀式に他ならない。


(こいつら、この地で何かを始める気だ)


夜凪の全身に、冷たい怒りが音を立てて駆け巡る。

一族を滅ぼした者たちと、同じ匂い。

この者たちもまた、多くの命を何とも思わぬ外道なのだ。

夜凪の存在に気づく様子もなく、術者たちの会話は続く。


「して、織田の小童(こわっぱ)はどう動く?」

「さて……我らの筋書き通り、籠城してくれれば手間が省けますが」

「まあ、どう動こうと結果は同じよ。この地は間もなく、我らが主の御手(みて)に落ちるのだからな」


男たちは、下卑た笑い声を上げた。

まるで、この世のすべてが自分たちの思い通りに進むと信じきっているかのように。

やがて、今川軍の最後尾が町を通り過ぎていった。

二人の術者はそれに満足したのか、すっと窓から姿を消す。

おそらく、儀式の準備へと向かったのだろう。


後に残されたのは、再び日常を取り戻そうとしながらも、どこかぎこちない空気が漂う宿場町と、一人佇む夜凪だけだった。

兵士たちの瞳から感じた、あの生命の光がない虚無感。

それは、今の自分とよく似ているのかもしれない、と夜凪は思った。

だが、決定的に違うものが一つだけある。


(俺の心にはまだ、復讐の炎が残っている)


夜凪は、闇御門の術者たちが消えた旅籠を、氷のように冷たい瞳で見据えた。

彼らが何を企んでいようと、知ったことではない。

だが、その先に闇御門の本家がいるのならば、見過ごすわけにはいかない。

これは好機だ。

奴らの計画を叩き潰し、本家へと繋がる情報を引きずり出す。


「……見つけた」


ぽつりと呟かれたその声は、これから始まるであろう新たな戦いの狼煙(のろし)だった。

歴史が大きく動こうとしているその裏で、一人の復讐者の物語もまた、静かに、そして確かな熱を帯びて動き始めていた。

夜凪は静かに木陰から出ると、人々の喧騒に紛れ、術者たちの気配を追って歩き出した。

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