第3章 月下の刃、舞うは不知火
闇御門の術者二人の気配を追い、夜凪は鬱蒼とした森の中へと分け入っていた。
宿場町を抜けて半刻ほどだろうか。
月明かりすら届かぬ木々の合間を、彼は音もなく駆け抜ける。
梟(ふくろう)の鳴く声と、風が葉を揺らす音だけが、彼の孤独な追跡行に寄り添っていた。
奴らの気配は、この森の奥深くへと続いている。
(儀式の場所は、ここから近い)
確信があった。
粘つくような邪悪な霊力の残滓が、そこかしこに漂っている。
夜凪は、懐から取り出した呪装刀「孤月(こげつ)」の柄を強く握りしめた。
刀身が、主の闘気に呼応するように、ほのかに月光を反射する。
その、まさに次の瞬間だった。
「――ッ!」
殺気。
背後から、風を切る鋭い音が夜凪の鼓膜を震わせた。
彼は咄嗟に身を翻し、孤月でそれを弾き返す。
甲高い金属音が闇夜に響き、火花が散った。
弾かれた凶器――苦無(くない)が、傍らの木に深々と突き刺さる。
夜凪の視線が、苦無が飛んできた方向、木々の枝が密集する暗がりへと向けられた。
そこに、一つの人影が静かに佇んでいた。
月光が木々の隙間から差し込み、その姿をぼんやりと照らし出す。
夜着(やぎ)のような黒装束に身を包んだ、小柄な人影。
その手には、逆手に構えた苦無がもう一本握られている。
顔は面布で覆われているが、覗く瞳は強い意志の光を宿していた。
くノ一、か。
「闇御門の手先め。ここで仕留めさせてもらう」
凛とした、鈴の鳴るような声が響く。
だが、その声音に含まれた敵意は本物だった。
どうやら、こちらも闇御門の一味だと誤解されているらしい。
夜凪は、弁解するつもりも、その必要も感じなかった。
この女から放たれる気は、これまで対峙してきた術者のそれとは明らかに異なっている。
(こいつ、できる……!)
夜凪の全身に、緊張が走る。
くノ一は、言葉を発するのと同時に、枝を蹴って夜凪へと襲いかかった。
その動きには一切の無駄がない。
まるで、黒い燕が夜の空を舞うかのような、しなやかさと鋭さ。
夜凪は、迫りくる刃を孤月で受け止める。
キンッ!
再び、金属同士がぶつかり合う音が響いた。
至近距離で、二つの瞳がかち合う。
夜凪の氷のように冷たい瞳と、くノ一の燃えるような強い瞳。
互いの実力を、互いが瞬時に理解する。
「……なかなかの腕だ。だが!」
くノ一は一度後方へ跳躍すると、懐から数本の苦無を抜き放った。
それらが、寸分の狂いもなく夜凪の急所を狙って飛来する。
夜凪は、最小限の動きでそれらを叩き落とし、あるいは紙一重で見切った。
だが、それは陽動だった。
「そこっ!」
苦無の雨に気を取られた一瞬の隙を突き、くノ一は夜凪の懐へと深く踏み込んでいた。
体術。
闇に紛れる速さではなく、純粋な武技としての速さだ。
夜凪は、咄嗟に孤月の柄でその体当たりを受け止める。
衝撃に、足が僅かに地面を滑った。
(こいつ……!)
これまで、夜凪の敵となり得たのは、異能の力を持つ闇御門の術者だけだった。
純粋な人の技が、ここまで自分を脅かしたことはない。
この女は、一体何者なのだ。
夜凪の心に、焦りと共に、ほんのわずかな賞賛にも似た感情が芽生える。
「なぜ、我らの邪魔をする」
「……それはこちらの台詞だ」
「問答無用!」
夜凪は、これ以上の時間の浪費はできないと判断した。
術者たちに逃げられては元も子もない。
彼は、静かに息を吸い込み、その唇を開いた。
世界から、音が消える。
彼の口から紡ぎ出されるのは、ただの言葉ではない。
事象そのものを支配する、呪いの言霊。
「……止まれ」
絶対的な命令が、くノ一へと放たれる。
だが、彼女の反応は夜凪の予想を裏切った。
言霊の力が彼女の全身を縛ろうとしたその瞬間、彼女は自らの身体を無理矢理に捻り、回転させたのだ。
術の束縛を、驚異的な身体能力で強引に振りほどいたのである。
完全には逃れられなかったのか、その動きは僅かに鈍っている。
だが、致命的な一撃を放つには、十分すぎるほどの抵抗だった。
「なっ……!?」
初めての経験に、夜凪の表情が凍りつく。
自分の言霊が、ここまで明確に破られたのは初めてだった。
その動揺を見逃すくノ一ではない。
彼女は体勢を立て直すと、再び夜凪との距離を詰めてきた。
「今の術……あなた、一体何者?」
「……お前こそ」
再び、刃と刃が火花を散らす。
だが、先ほどまでとは明らかに空気が違っていた。
互いの瞳に宿るのは、純粋な殺意だけではない。
相手の正体を探ろうとする、疑念と、そしてわずかな好奇心。
「闇御門を追っているのではないのか」
「あなたも……?」
くノ一の動きが、ぴたりと止まった。
夜凪もまた、孤月を構えたまま、それ以上踏み込むことはしなかった。
森に、再び静寂が戻ってくる。
月明かりが、緊張を解いた二人の間を静かに照らしていた。
互いに、相手が本当の敵ではないことに、ようやく気づき始めたのだ。
「……私は、不知火桔梗(しらぬい ききょう)」
「……月読夜凪(つくよみ よなぎ)」
桔梗と名乗ったくノ一が、面布をゆっくりと外す。
現れた素顔は、まだあどけなさを残しながらも、強い意志を感じさせるものだった。
夜凪が「月読」の名を口にした瞬間、彼女の眉がかすかに動いたのを、夜凪は見逃さなかった。
(この名に、聞き覚えがあるのか……?)
だが、その疑問を口にする前に、桔梗が森の奥へと視線を向けた。
「しまった……!追っていた奴らの気配が遠のいていく」
その言葉に、夜凪も我に返る。
目的は同じ。
ならば、ここで争っている意味はない。
かすかな安堵感が、夜凪の心をよぎった。
「……儀式を止める。それまで、手を組むか」
「……ええ。それが、一番のようですね」
月明かりの下、二つの影が並び立つ。
こうして、復讐に生きる孤独な少年と、闇に抗う一人の忍びは、奇妙な共闘関係を結ぶことになった。
まだ互いのことを何も知らないままに。
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