日ノ本を喰らう者 -黒き血の宿命-

酸欠ペン工場

第1章 呪いを吐く少年

月が、死んでいた。

湿った夜の森を、月読夜凪(つくよみよなぎ)は音もなく進んでいた。

獣道を駆けるその足取りに、木の葉一枚たりとも揺れることはない。

まるで夜凪という存在そのものが、この夜の闇に溶け込んでしまったかのように。

彼の気配は、あまりにも希薄だった。


「……そこか」


ふいに、夜凪の足が止まる。

漆黒の瞳が、僅かに細められた。

視線の先、木々の影が不自然に蠢(うごめ)いている。

一人、二人……いや、三人。

夜凪の唇から、温度のない吐息が漏れた。


「見つけたぞ、月読の生き残り!」


茂みから躍り出た男が、獣のような声で叫んだ。

手には奇怪な文様の呪符が握られている。

続いて現れた二人も同様に、常人ではない異様な霊力をその身にまとっていた。

闇御門(やみのみかど)の術者。

夜凪の一族を滅ぼした、呪われた者たちだ。


「こんなガキが最後の一人とはな」

「一族の無念を、その身で晴らすがいい」


男たちは侮蔑の笑みを浮かべる。

その目は、夜凪をただの獲物としてしか見ていない。

哀れな子供を嬲(なぶ)り殺す、容易い仕事だと信じて疑っていない。

彼らの放つ殺気と呪詛が、夜の空気をじりじりと焦がしていくようだった。


対する夜凪は、ただ静かに佇んでいる。

腰に提げた呪装刀『孤月(こげつ)』に手をかけるでもなく、表情一つ変えない。

その凪いだ水面のような瞳は、男たちの姿を映してはいても、その奥にある魂には何の興味も示していなかった。

彼の心にあるのは、たった一つの目的だけだ。


「小僧、なぜ何も言わぬ!」

「我らが恐ろしいか?」


痺れを切らした一人が、印を結ぶ。

その指先から、赤黒い炎の玉が撃ち出された。

夜の闇を切り裂き、轟音と共に夜凪へと迫る。

呪術によって生み出された業火は、触れるものすべてを骨まで焼き尽くすだろう。


「ふん、避けられまい!」


術者は勝利を確信した。

だが、夜凪は迫りくる炎を前にしても、なお動かない。

ただ一歩、最小限の動きで身体を横にずらしただけ。

炎の塊は夜凪の着物の袖をわずかに掠め、背後の大木に激突して激しく燃え上がった。


「なっ……!」

「偶然か?」


男たちが驚愕に目を見開く。

偶然ではない。

夜凪は、術の発動から着弾までのすべてを完璧に見切っていた。

その動きには一切の無駄がなく、まるで未来を知っているかのようだった。


「調子に乗るなよ!」

「次だ!」


別の術者が地面に呪符を叩きつける。

すると、夜凪の足元から土の槍が何本も突き上げてきた。

しかし、それも夜凪を捉えることはできない。

彼は槍が生まれる僅かな予兆を読み取り、ひらり、と蝶のように舞ってそれをかわす。


「くそっ!」

「ちょこまかと!」


男たちの攻撃は、どれだけ放っても夜凪に届かない。

まるで、最初からそこに存在しない幻を相手にしているようだ。

彼らの顔に浮かんでいた余裕の色は、いつしか焦りへと変わっていた。

この少年は、ただの子供ではない。


「……もう、終わりか?」


夜凪が、初めて口を開いた。

その声は、冬の夜空のように澄んでいて、底なしに冷たい。

声を発しただけだというのに、術者たちの身体がびくりと震えた。

本能的な恐怖が、背筋を駆け上がってくる。


「何を……」

「馬鹿なことを言うな!」


虚勢を張って、リーダー格の男が前に出る。

懐から取り出した呪符は、これまでとは比べ物にならないほど禍々しい霊気を放っていた。

切り札なのだろう。

男はにやりと口の端を吊り上げる。


「貴様のその力、もはや我ら闇御門のものだ」

「月読の秘術、ありがたく頂戴するぞ!」


男が呪符を天に掲げ、呪文を唱え始める。

周囲の空間が歪み、濃密な霊力が男の元へと収束していく。

大気を震わせるほどの強大な術。

他の二人が、恐怖と歓喜の入り混じった表情でそれを見守っていた。


「さあ、終わりだ、小僧!」


男が、完成した術を夜凪に叩きつけようとした、その瞬間。


「……滅びろ」


夜凪の唇が、静かに呪いの言葉を紡いだ。

それは、誰に言うでもない、ただの呟き。

だが、その一言が放たれた瞬間、世界の法則が書き換えられた。

絶対的な言霊の力が、術者たちの運命を断ち切る。


「―――え?」


リーダー格の男が、呆けた声を漏らした。

彼の指先から、身体がゆっくりと塵に変わっていく。

痛みも、苦しみもない。

ただ、存在そのものが、この世界から消し去られていく。

自分が死ぬことさえ、理解できていないようだった。


「あ……あ……?」


男は、自分の身に何が起きているのか分からぬまま、灰となって崩れ落ちた。

後に残ったのは、地面に落ちた一枚の呪符だけ。

あまりにも静かで、あまりにも呆気ない、絶対的な死だった。

その光景を目の当たりにした残りの二人は、声も出せずに凍り付く。


「ひっ……!」

「ば、化け物……!」


恐怖に顔を引きつらせ、一人が脱兎のごとく逃げ出した。

だが、その背中に向けて、夜凪は再び冷たい言葉を投げかける。

彼の瞳には、何の感情も浮かんでいない。

ただ、そこにいるから、消す。それだけだ。


「逃がさぬ」


言霊が、逃亡者の足をもつれさせる。

男は無様に転倒し、地面に突っ伏した。

夜凪はゆっくりと歩み寄り、その震える身体を無感動に見下ろす。

命乞いをする声も、もはや夜凪の心には届かない。


「やめ……」


男の言葉は、最後まで紡がれることはなかった。

夜凪がただ一度、刀の柄で男の首筋を打つ。

それだけで、男はぐにゃりと崩れ落ち、二度と動くことはなかった。

最後の一人は、その場で腰を抜かし、恐怖に声も失っている。


静寂が、森を支配する。

燃え盛っていた大木の炎も、いつの間にか消えていた。

夜凪は、最後の一人にゆっくりと視線を移す。

男はただ、許しを乞うように小さく震えるだけだった。

その瞳を、夜凪は感情のないガラス玉のような目で見つめ返す。


「……眠れ」


慈悲も、侮蔑もない。

ただ事実を告げるようなその一言で、男の意識は永遠の闇に沈んだ。

夜凪は男たちの亡骸に一瞥もくれず、空を仰ぐ。

雲の切れ間から、蒼白い月の光が差し込んでいた。

その光が、夜凪の虚無を湛えた横顔を静かに照らし出す。


(……また、何も感じない)


復讐を果たしたはずなのに、彼の心は満たされない。

喜びも、達成感も、憎しみさえも、今はどこか遠い。

ただ、ぽっかりと穴が空いたような、冷たい空虚さだけが胸の内を満たしていた。

まるで、自分という存在が、少しずつ削り取られていくような感覚。


その時、ずきり、と夜凪のこめかみに鋭い痛みが走った。

同時に、全身を鉛のような倦怠感が襲う。

強力な言霊を使ったことによる、僅かな代償。

今はまだ微かなものでしかないが、この力がただで使えるものではないことを、夜凪は知っていた。


「……行かねば」


誰に言うでもなく、夜凪は呟く。

痛む頭を軽く振り、再び闇の中へと歩き出した。

目指すは、すべての元凶、闇御門が本拠を構える呪われた都。

この身がどうなろうと、構わない。

一族の無念を晴らす、その時までは。

孤独な復讐者の道は、まだ始まったばかりだった。

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