死化粧
@shinryuoh_VFD
死化粧
棺に横たわる祖母の姿を美しいと感じたのは、7歳の頃でした。
祖母の訃報が届いたのは10月の初めでした。
祖母は私の家から電車で3時間ほどかかる片田舎に住んでおり、正直に言って生前の祖母に関する記憶はほとんどありませんでした。
祖母の娘に当たるはずの母は既に祖母の死が近いことを受け入れていたらしく、訃報を聞くと「少し忙しくなるね」と私を安心させるような笑みを浮かべていました。
葬儀の準備はとても大変そうでした。葬儀場との打ち合わせ、親族への連絡、役所手続きなど、大体一週間ほどは忙しない日々が続いていました。といっても母はテキパキとした女性だったので、いずれ来るこの日のために着々と準備を進めていたようでした。そのため、一般的な葬儀に比べて準備がスムーズに進んでいたようです。
通夜の当日も母は忙しそうで、幼く引っ込み思案な私にできることは母の横で行儀よくお辞儀をするくらいでした。私自身ほとんど見たことのない親族の方ばかりでしたが、それは母の方も同じようで、どうにも他人行儀な挨拶が交わされ続けていました。
その後も滞りなく式は進みあっという間に通夜が終わると、参列者が帰った後に母は、「おばあちゃんの顔、見にいこっか」といって私の手を取りました。
私たち以外誰もいなくなった会場に戻ると、そこは凍り付いたように静まり返っていました。部屋全体は綺麗に片付いていながらも鈍重な暗い空気で満ちており、この時私は初めて『人の死の空気』を感じ取りました。
部屋の前方に目を向けると、飾られている供花の彩りの美しさや光を受けて輝く祭壇の豪華さがまず目に入りました。ただそれでも、その下に鎮座する棺から発せられる死の空気を隠すことはできておらず、その光景はなんだかとてもアンバランスに映りました。
棺に向かって一歩ずつ進むごとにその空気は強まり、私は理由の分からない恐ろしさと興奮がないまぜになった気持ちを抱えながら母の後ろに付いていきました。
棺の目の前まで進むと、天井からのライトアップと美しい祭壇に目を引かれ、私の鼓動は不自然なほどに早く打ち鳴っていました。
母は私が足を止めたのを見て、きっと祖母の死を悲しんでいると思ったのでしょうか。私を安心させるように頭をなでてくれました。
そしてそのまま棺の近くにまで近づくと、私は言葉を失いました。
その亡骸は、美しかったのです。
あれから何十年とたった今でさえ、私はあの時の美しさを表す言葉を知りません。
生きているままでは到底表れない肌の白は死の気配と共に死装束の白と溶け合い、まるでそのまま空間に溶けこんでしまうかのような儚い神聖さを秘めていました。誰もが黒に身を包む空間で、祖母だけが神聖な白に身を包むことを許されていたのです。
私はその祖母の遺体を見て──ただ、彼女のようになりたいと、このように死にたいと、祈りにも似た憧れを抱きました。それは、例えば幼い子供が、テレビの中で踊るアイドルに憧れるような、ウェディングドレスに身を包んだ花嫁に憧れるような、そんな純粋な羨望でした。
その時の私は、興奮も高揚もせず、ただ神からの啓示を受けたかのように畏れにも似た感動に包まれていました。そしてその感動を、私の価値観を決定づけるような悟りを、誰かに伝えたいと強く感じ、まず母に伝えよう、この感動を共有しようとして母の方に勢いよく振り返りました。
しかし母はその亡骸から目を背け、自らの顔を覆い隠すようにして泣いていました。
気丈な母が声を震わせて泣くところを見るのは、これが最初で最後でした。
その時私は、人が死ぬというのはどういうことなのか、理解できていませんでした。きっと今でさえ、理解できていないのだと思います。
子どものように泣きじゃくる母を見て何か言わなければならないと思いましたが、かといってなんと声をかけていいのか分からず、私はただ立ち尽くすことしかできませんでした。
そして、私しかいないこの部屋でパソコンを立ち上げたこの瞬間まで、この気持ちを、私の心と人生を支配するこの気持ちを、ほとんど外に出すことはしませんでした。
この気持ちと感動は、ずっと変わらずに私の心を支配しています。幸せな人生を送り、最後には美しい死体となって死ぬ。それがずっと、私の生の根幹をなす哲学でした。
私の伴侶となる人と出会ったのは17歳の頃でした。
その頃の私は、自分の死に対する捉え方が他の人とは違い、それは他の人に理解してもらえないということを知っていました。そのため、私にはいわゆる『心から通じ合える』ような友達はいませんでした。
でも私の周りにはいつも人がいて、客観的に見ればクラスの中心人物であったといっても差し支えない立場だったと思います。
私は、死というただ一点を除いて他の人の主張を否定するようなこだわりはなく、それでいて他の人との深いつながりも求めていない、言ってしまえば風見鶏のような人間でした。
心から分かりあうことを初めから放棄しているためにコミュニケーションにおいて相手に何の要求もせず、「すごい」「嬉しい」「分かるよ」といった言葉を適切に打ち返してくれる人物は、きっと悩みの多い思春期の高校生にとって都合のいい存在だったのだと思います。
他者と心から分かりあうことを求めず、だからこそ周りと円滑に関係を築くことができる、そんな私は、周りの友達と近づけば近づくほど、どんどんと孤独を深めていくような気がしていました。
今の夫となる同級生の男の子と出会ったきっかけは、同じクラスで隣の席になったというだけでした。
中学生の頃、私は初めて『孤独死』という概念を知りました。
今考えると可笑しい話ですが、私にとって『死』とは絶対不変の神性を帯びたものであり、その死体が誰にも気づかれず、腐ってしまうという可能性には全く思い至っていませんでした。
そして私は、いつか死ぬ時に必ず傍に居てくれる誰かが必要であるということに気づきました。そうすれば私の死も捨て置かれず、自分の死もより多くの人に見てもらえるのですから。
高校2年生の時に同じクラスだった彼は、大人しくてクラスの中では目立たない方でしたし顔も整っているというわけではありませんでした。ですが勉強ができて人助けをするところをよく見かけたので、恐らく私の方がある程度の努力を欠かさなければ生涯のパートナーたりえるだろうと考えました。
私は幸いにも母譲りの整った容姿をして、美容や外見には人一倍気を使っていたので、他の男子生徒から告白されることもしばしばありました。そこで、クラスの中でも人気のあった運動部の男子からも告白された際、それを断ってクラス内にそれとなく噂を流しました。
そしてその年の修学旅行の時に今の夫である彼を呼び出し、私と結婚を前提に付き合って欲しい、と短く告げました。
その瞬間から今までずっと、彼は私のことを愛してくれましたし、私も彼のことを愛していました。結局私は彼に心の最奥部を見せることはしなかったので、私の心にある孤独が彼によって満たされることはありませんでした。しかし彼と過ごした日々はどれも尊く、互いの愛に満ちた美しい日々でした。
二人の間に子どもを授かったのは私が32歳の頃でした。
生まれてから3歳ごろまでは手のかかる時期と聞いていましたが、夫は育休を取得して私のサポートをしてくれましたし、50代に差し掛かった母も仕事の合間を縫って私の様子を見に来てくれたので、あまり育児の上での苦労はありませんでした。
娘は、全く手のかからない子どもでした。夜泣きや癇癪を起こすこともほとんどなく、かといって私や夫に過剰に甘えようとするわけでもなく、とにかく大人しい子供でした。夫がボール遊びをしようと小さいボールを目の前に持って来ても、母がおもちゃ屋さんで探してきた可愛らしい人形をプレゼントしても、意に介さないように視界のどこかをぼーっと見つめていました。
そんな娘の様子を見て母は、「小さい頃のあなたに似ているわ。そっくりね」と私に言いました。
『あなたに似ている』。私はそんな言葉を、生まれて初めて言われたような気がしました。
確かに彼女は、私の血を分けた娘である彼女は、客観的に見て私と似ていました。
目元、口元、鼻筋など、パーツで見れば夫の面影を残している部分も多かったのですが、それらのパーツが全体として顔の形を成した時、彼女は不思議と、私と同じような、世界から切り離されたことを悲しむような儚い雰囲気を纏っていました。
私は娘の顔をもう一度よく見ました。そして確実に私の面影がある、ということを再び確認した時、気づけば私は彼女を強く抱きしめていました。
母と夫はそんな私の唐突な行動を見て驚きましたが、次見た時には私たちに温かい微笑みを向けていました。
腕の中の小さな体は小さなうめき声を上げ、それでも私を抱きしめ返してくれました。じんわりと胸から広がるその温かさを感じた時、私は母になったのだ、と初めて理解しました。
それから彼女は、私の好きだったおもちゃを気に入り、私の好きだった絵本を何度も読み、私の好きだったおやつをねだりました。
私は彼女のことを愛していました。それは今思うと、母に対する尊敬を含んだ愛や、夫に向ける信頼を込めた愛とは全く異なる、自己愛にも似た歪な愛でした。
彼女と私の共通点を見つける度に嬉しくなり、まるで自分の人生が、存在が肯定されているような安心感に包まれました。
きっと彼女は、これからたくさんの人と出会い、困難を乗り越え、幸せな人生を送り、美しい死体となる。そんな彼女の人生を想像すると自然と頬が緩んでしまいました。
母が心不全で入院したのは、私が39歳の頃でした。
私が家で洗濯物を畳んでいると、母が呼吸困難で緊急搬送されたと連絡を受けました。
私は一般女性に起きうる主要な死因をほとんど把握していたので、彼女のそれが恐らく過労による心不全だろうということは容易に想像が出来ました。
若くして私を授かり、親戚や家族の支援も得られないまま女手一つで私を育ててきた母が迎える最期としては納得の理由でした。その一方で、尊敬する母がこんな凡庸であっけない死を迎えることをなんだか拍子抜けに感じました。
その日娘は小学校の夏休みで家にいたので、二人で一緒に母の病院に向かうことにしました。
病院に着くと担当医から母の現状を聞かされ、既に体はボロボロで生きているのが不思議なほどの状況だということ、現在は小康状態にあるが恐らく長くはないことを知りました。
一週間ほど前まで娘と一緒に遊んでいた母の姿を思い出し、唐突に日常が終わることに対する戸惑いを強く感じました。同時に、心不全であれば綺麗に死体が残るだろうと思い、安堵しました。
そして母の病室に向かうと、そこには上体を少し起こして横になる母の姿がありました。呼吸が苦しいようで息は浅く、顔は青ざめていて全身にうっすらと汗をかいていました。
それでも母は私たちを見つけると苦しそうに微笑み、「来てくれて、ありがとう……」と掠れるような声で私たちに話しかけました。
私はそんな様子に痛々しさを感じ、頷くだけして椅子に腰かけました。娘も同様にして椅子に腰かけ、大人しく母の様子を見ていました。家を出てから押し黙ったようにしてほとんど口を開かない彼女が何を考えていたのかは、その時の私には分かりませんでした。
母に対する最後の親孝行としてできるだけ一緒にいた方がいいのだろうと思いましたが、いつ容体が急変するかも分からない状態で面会時間終了まで居座るのもあまり気乗りしないように感じ、どうするべきか思案していました。
黙りこくっている私の様子を見て母は、悲しそうな、寂しそうな、申し訳なさそうな、どうともつかない顔でただ静かに天井の一点を見つめていました。そんな静寂が5分ほど続いていたと思います。
「おばあちゃん」となんの前触れもなく、娘が口を開きました。
「死ぬって、どういうこと?」それは芯のある、凛とした声でした。
奇しくもその時、私の娘が7歳であることに気づきました。私が祖母の死体を見た歳と同じ、7歳でした。この奇妙な同期に、私は運命じみたものを感じました。
「どういうことだと、思う……?」母は弱った手を伸ばし、その頭を撫でました。「よく考えてごらん……」慈しむような優しい眼でそう言いました。
すると娘はそれ以上何も言わず、また元のように黙ってしまいました。
死ぬとはどういうことか。それは、私のほとんどの人生で浮かんでこなかった疑問でした。人生の中で最も純粋な美しい姿となってそのまま消える、人生の最初で最後で最大の晴れ舞台。それが私にとっての死でした。
死者と二度と会えなくなるのは寂しい。これから先一緒に過ごせなくなるのは悲しい。その感情は理解していつつも、それらは私の中で死の美しさに塗り潰され、死の絶対性や神性を彩るアクセントになっていました。
今は彼女も寂しいかもしれない。悲しいかもしれない。でもきっと彼女も、私と同じ彼女も、いずれ死に惹かれるだろうと直感していました。
その日娘はそれ以上口を開きませんでした。
仕事が終わった夫がそのまま病室に来ると、母の弱った姿を見て泣き出してしまいました。そして彼が落ち着いたころにはもう面会時間が終了になり、その日はそのまま3人で帰宅しました。
次の日の朝、母の容体が急変したとの連絡を受けました。私たちが病院に着いたときには既に、母は永眠していました。
母の遺体の顔には白布がかけられており、その顔を見ることはできませんでした。私自身も、まだ整えられていない母の死に顔を特に見たいとは思いませんでしたし、せっかくなら娘にも綺麗な死に顔を見てほしいと思ったので、あえて白布を取るようにお願いすることもありませんでした。
葬儀の準備は思っていたほど忙しくありませんでした。母に連絡が取れるような親族はいないので連絡はそこまで手間はかかりませんでしたし、何より私自身が葬儀に関する知識を十分に持っていたので、初めての喪主も滞りなく務めることが出来ました。
私はもちろん母の死を悲しんでいましたが、それと比べ物にならないほどの強い使命感を胸に抱いていました。母は強く美しい人でした。私は結局最後まで母に本心を打ち明けることはありませんでしたが、それでも母を心から尊敬していました。だからこそ、彼女の最期は美しく彩りたい、彼女の晴れ舞台を私が完璧なものにしなければいけないと強く確信していました。母が死んだことで初めて、初めて母に本心で接することが出来たように思い、私は嬉しくなりました。
夫は私に「辛い時なんだから、僕ももっと手伝うよ」と言ってくれましたが、「大丈夫、最後の親孝行だから」と言うと夫は少し涙ぐみ、私に促されるままに仕事へ向かいました。
母の死から数日は準備に追われ、気づくと通夜の当日になっていました。
誰かの葬儀に参加するのは、実はこれが人生で二度目でした。静謐な空気、部屋を満たす線香の香り、参列者が身を包む黒一色の装い、その全てが私に36年前のあの日を思い出させました。
喪主の仕事は当日も山積みで、私は少ない参列者の一人一人に対して丁寧に挨拶を続けていきました。
参列者の多くは、一週間前まで元気に過ごしていた母の死に少なからずショックを受けていることや、同時に残された唯一の遺族である私を気遣うような言葉を口々に伝えてくれました。「辛いだろう」「大変だろう」「無理をしないように」、そんな的外れな心配を聞くにつれて私の心は静かに冷めていきました。私と同じように母の美しさを鑑賞するためにここに来た人はいないのだと思うと、久しく感じていなかった、世界から切り離されたような疎外感を強く感じました。
娘はその日も口数が少なく、隣にいる私に合わせて行儀よく礼をしているだけでした。彼女が何を考えているのか、私には分かりませんでした。母の葬儀の中で、私と娘だけが世界から切り離されていました。
母の死に顔は、通夜が終わるまで見に行きませんでした。もちろん葬儀の準備でそんな時間がなかったのは事実ですが、母の死体とその美しさを味わう時間は可能な限り誰とも共有したくなかったのです。
やがて大きなトラブルもなく通夜が終わると、夫には先に帰っていてほしいと告げ、会場に向かいました。彼は眉を寄せ、「一人きりにならない方がいい……と思うよ」と心配そうに止めましたが、私が笑顔で返すとそれ以上は何も言わず私を見送りました。
人生で二度目の葬儀で、棺を覗くのもこれが二度目。そんな状況に反し、会場に向かう私の足取りは落ち着いていました。
36年前のあの日、私は興奮と感動で早まる鼓動を感じながら、祖母の棺を後にしました。ですが、その日は、まるで巡礼者のような清らかな高揚を胸に抱えながら、母の棺に向かう階段を踏みしめていました。
「おかあさん!」階段の踊り場に差し掛かったころ、娘が私に声をかけてきました。娘は私に追い付くと、「わたしも行く」と言って、私の手を控え目に掴みました。私は頷き、そのまま二人で歩き始めました。
実のところ私は、娘に、もう一人の自分である彼女に、母の死に触れさせるべきかどうか迷っていました。もしここで彼女が、私と同じように母の遺体を見れば、きっと私と同じような孤独を抱えることになる。それは嬉しくも悲しいことでした。
自分の心の一番深い部分が、人生で最も大きかった感動が、価値観を変容させるような魂を揺さぶる経験が、誰にも理解されないと知った時、私は世界から取り残されてしまいました。そんな経験を彼女にもさせることは、とても残酷だと思いました。
それでも彼女は、私と一緒に母の姿を見ることを選んだ。その事実に私は、その場で叫びだしてしまいそうなほどの喜びに打ち震えました。それは、一人しかいない、死ぬまで一人ぼっちだと思っていた世界のドアが開いた瞬間でした。
私は迷わず会場へと歩みを進め、その扉をくぐりました。閑散としたホールに満ちる死の気配は、私の思い出の中にある祖母のそれと寸分違わず一緒でした。
すると彼女は、私の手を離れて棺の方に向かって小走りに駆けていってしまいました。私はそんな彼女の姿に自分の幼少期を重ね合わせ、思わず頬を綻ばせました。
会場の真ん中を貫く赤いじゅうたんを一歩ずつ踏みしめ、今日までの母との思い出を振り返っていました。彼女の強さや美しさ、私に対する愛情を示す数々を思い出すほど、母がどんな顔で眠っているのかと期待に胸が膨らんでいきました。
あっという間に部屋の奥部までたどり着き私が棺を覗こうとすると、その前に立ちはだかるようにして娘は私に抱きついてきました。彼女の方から私に甘えてくるのは非常に珍しく、私は親として嬉しくなりました。
彼女は私と違って一人じゃない。少なくとも私がいる間は彼女の心を理解してあげられる。そう思って私は彼女の肩にそっと手を置き、微笑みかけるようにして次の言葉を待ちました。もしかすると今は悲しみや喪失感でいっぱいで心が整理できていないのかもしれないと思いましたが、いずれそんな感情も死の美しさを彩る要因となることを知っていたので、どんな言葉が来ても親として、理解者として、私は受け止める気持ちでいました。
「おかあさん、おばあちゃんは死んじゃったの?」
「そうだよ、死んでしまったの。」
「もうおばあちゃんとはお話できない?」
「そうだね、もうお話できない。」
「もうおばあちゃんと会えない?」
「うん、会えないんだよ」
「おかあさん、私──」
彼女は顔を上げ、もう一度私を強く抱きしめました。
「──私、死ぬのが怖い」
そう言うと彼女は小さい体を震わせ、途切れ途切れの息とともに涙をこぼし始めました。
死ぬのが、怖い。
私は彼女に対して何を言えばいいのか分からず、あの日のようにただ立ち尽くすことしかできませんでした。
私は『死ぬのが怖い』という言葉の意味が分かりませんでした。
私は、死ぬということがどういうことなのか、全く理解していませんでした。
36年前のあの日から、私はなにも変わっていませんでした。
私は抱き着いてくる娘を引き剥がし、肩を掴んで聞きました。
「怖いってどういうこと?言ってみて」強く尋ねてもそれに応じず、ただ泣きじゃくるだけでした。私は舌の奥が熱くなるような感覚を覚え、思わずはっきりと言い放ちました。
「だっておばあちゃんの死体、綺麗だったでしょ?」
その言葉を聞くと彼女は顔を上げて大きく目を見開き、私を置いて出口へと走り去っていきました。私は物理的にも精神的にも彼女に置いていかれたような気持ちになりました。
どうして泣いていたのか、どうして私から逃げるようにしてこの場を離れたのか、私は彼女を追いかけ、そのまま外に出ました。式場の外は強い雨が降っており、街灯の少ない郊外は深い闇に覆われていました。
家の方に向かって一心不乱に逃げようとする娘を、音を頼りにして私は全速力で追いかけました。
追い付いた後に何を言えばいいのかは分かりませんでした。これほど決定的なすれ違いをしておきながら、私の手から離れていく彼女を、私が閉じ込めた世界から逃げようとする彼女を、自分のそばに置いておこうとするのは親心だったのでしょうか。
やがて交差点に差し掛かるところで、私は彼女の手を取りました。
「離してっ!」彼女は取りつく島もなく、私の手を離れて横断歩道へと弾けるようにして逃げ出しました。
最後に私が覚えているのは、前も見ずに走り出す少女の足が絡まりその場に転んでしまう姿と、交差点に迫るトラックのけたたましいブレーキ音、そして反対側から少女を眩しい光で照らしだすヘッドライトの光でした。
私がこれを書いているのは、その一週間後になります。
面会時間が終わって名残惜しそうに娘と夫が帰り、病室が消灯した21時からずっと、持ち込んだノートパソコンに私の人生を書き続けています。夏の夜は短いので、既に夜が白み始めています。私の回想もエピローグといったところでしょうか。
五日前、私の目が覚めるとそこには涙で目を腫らした夫と娘が並んでいました。
きっと病で床に臥せた姿が母と重なったのでしょう。私が体を起こすと彼女は飛び込むようにして私に抱き着き、そのまま大きな声で泣き始めました。ごめんね、ごめんねと何度も何度も呟く彼女の様子を見て、愛する祖母の死体を鑑賞物扱いしようとした恐ろしい母の姿は彼女の記憶から消えたのだろうと直感しました。人生における最初で最後の告白がなかったことにされた。私にとって、それは何よりも悲しいことでした。
私は、私の娘が大人しい無表情な子だと思っていました。そして私はそんな彼女の姿を自分と重ね合わせ、私と同じように世界から切り離された存在だと思っていました。
しかし彼女は私とは違いました。彼女は祖母の問いかけを真正面から受け止め、その死を理解しようとし、死の悲しさ、寂しさ、恐ろしさに自ら向き合いました。彼女は死を思って泣き、生を知って喜ぶことが出来る、普通の女の子でした。
私にはそれが出来ませんでした。きっと私は、祖母の死体を見たあの日から、誰よりも死を恐れていただけの臆病な少女でした。死を恐れ、人は死ぬという事実に真正面から直面することが出来ず、死を賛美することで死への恐怖を和らげることしかできなかった。私が人生で抱えていた疎外感の正体は、ただそれだけのことでした。
さらに朝が近づき、病室内も心なしか明るくなってきたように思います。ベッドテーブルに置いてある鏡に目を落とすと、顔に大きな傷跡のある女性の姿が映っていました。
通夜が行われたあの日、娘の命を奪おうとしていたトラックはそれを回避するために進路を逸らし、私のいる歩道へハンドルを切りました。
ガードレールや防護柵に阻まれ、幸運にも私の命は助かることとなりましたが、どれほど手を尽くそうとも完全に消えることのない深い傷が私の顔に刻まれました。
その事実に気づいた瞬間、私の身体は言い様のない恐怖に襲われました。きっとこれが、私が人生で感じることのないと思われていた『死への恐怖』なのでしょう。
そして私は、その時、自ら人生を終わらせることを決意しました。
この恐怖が私の心を支配する前に、死の恐怖を覆い隠す死化粧が私の顔から剥がれ落ちる前に、この人生を終わらせなければいけないと確信しました。
私は世界のだれからも理解されず、その代償として得た死への虚飾も失って、理想の死のために浪費したこれまでの時間を思いながら、少女の頃よりも眼前に迫った死について少女のように考えなければいけない。そんな人生をこれ以上生きることはできないと思いました。
そういえば、私は母の亡骸を見ていませんでした。
生涯のほとんどを家族である私のために費やしてくれた母の亡骸は、その苦労と美しさが混ざり合って、きっととても美しい死に顔だったと思います。
これを読んでいるあなたは、私の亡骸を見てください。
私はそのために、人生における最初で最後で最大の晴れ舞台のために、人生を費やしてきました。
私の人生の全てが、努力も感性も愛情も感謝も後悔も苦労も悲哀も、私の死を彩る死化粧となることを切に願っています。
死化粧 @shinryuoh_VFD
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