第三話 ヒルマモチの憂鬱
その1 悪夢と、神様のおしゃれ革命
重苦しい。
黒く濁った澱のようなものが私を押しつぶそうとしている。
甘ったるい、それでいてどこか…… 腐った肉の匂いだ!
叫ぼうとしても声は出ない。
やがて、その澱は、かつて母親だった女の顔になっていく。そして口を開いて私の名を呼ぶ。
「チカエ」と。
私は飛び起きた。息が荒い。取り乱し大声を出す寸前にそれを押し留められたのは、すぐそばで眠そうな目をこする早穂を見たからだ。
ああ、夢だった。
暗い部屋の中で、私は安堵の息をついた。早穂は心配そうな顔をしている。
「ごめんね早穂。起こしちゃったね」
そう言って私は再び横になった。早穂も横になる。
--夢で良かった。本当に。
そう思い心からほっとしたが、あまり深く考えなかったのは何故だったのだろうか。
神様の加護のもとに居ながら、なぜ悪夢を見たのか、ということを……
カーテンから差し込む朝陽で、私はいつものように目が覚めた。昨夜は嫌な夢を見たような気がしたが、今朝の目覚めはとても良い。早穂と暮らすようになってから、目覚めの悪かった日はなかったことに改めて気が付く。
--神様効果だね
私はにこやかに言った。
「早穂、おはよう」と。
パジャマ姿でキッチンに立っていた早穂は振り返り、少し笑って、しゃもじを持った手を挙げた。
寝るときはパジャマを着るものだと、どこで覚えたのか、ある日を境に自宅ではパジャマ姿になる早穂。いや、それは寝るときだけであって、起きたら着替えるもんだよ。まあ、かわいいから許すけど。
ところで、炊飯ジャーはまだご飯が炊けたとは言っていないが、早穂はいつからしゃもじを持って待ち構えているのだろうか。少し謎だったが、私は顔を洗うために布団を出た。
少し肌寒かった。
顔を洗って洗面所から出てくると、例によって布団はきれいに片付けられていた。そもそも早穂は、あの小さな体でどうやって布団の上げ下ろしをしているのだろうか?
不思議に思った私は、いつか覗いてみようと密かに思ったが、いや、見てはいけないものを見るのは、昔話でよくある悪いパターンじゃないか。やめておいた方が良いのでは、とも考えてしまう。
--うん、神様のやることを覗き見したら、きっと罰が当たるぞ、やめておこう
そう思い直した。
肉球の付いたミトンをはめて、グリルから焼鮭を取り出す早穂を見ながら、私はにんまりしていた。うん、あのミトン、やっぱり買って良かった。早穂に似合って大変によろしい。
そもそも早穂には市販のものを使う必要は全くなく、必要だと思えば、いつの間にか身に着けているのだ。
だが、近所の小間物屋で一目見た私は、これは是非にも早穂に使ってもらいたい、と衝動買いしてしまったのだ。
そして、早穂には使い方を実演しながら、
--お願い気に入って
と祈っていたのだが、どうやら、神様に祈りが届いたのだろう、早穂は機嫌よく使うようになってくれた。
この場合、祈りを聞き届けてくれた神様はどこに居るんだろうか? まあ、あまり考えないようにしよう、と私は思った。
食事が終わって、私は食器を洗っていた。以前、早穂が、自分が洗うと言うそぶりで、申し入れてくれたのだが、流石に神様をそこまで便利使いするのも良くない気がしたので、これは自分の仕事だ、と、私が突っぱねたのだ。
そもそも家事は分担するものだ。早穂がいくら居候だとしても、今となっては私にとっては家族なのだ。
と、しばらく手持無沙汰にしていた早穂だが、やがて私の本棚から国語辞典を引っ張り出して読み始めた。最近、暇があるとちょくちょく読んでいるようだ。でも、いったい何を読んでいるのだろうか?
今度、古本屋さんで広辞苑でも買って来ようかしら。などと考えてしまう。
そう言えば私の部屋にはテレビもなく、つまりあまり娯楽と呼べるものは無いが、それでも早穂は退屈そうにはしていない。
早穂がどう思っているのかは知らないが、なにか用意してあげても良いのかもしれない。彼女が人間社会の事を学びたいと考えているなら。
食器を洗い終えた私は、早穂に言った。
「さて、早穂。今日はデパートへ出かけるわよ。心配しなくてもデパ地下にもちゃんと行くから」
早穂がびっくりしたように顔をあげて、たちまち嬉しそうな顔になった。
以前も、デパートへ連れて行ったことがあったが、早穂は大喜びだった。
特にデパ地下がお気に召されたようで、まったく動かなくなってしまった。
熱心に、いろいろな食材や料理を見て回り、欲しそうな顔をしたり、嫌そうな顔をしたり、と、様々な表情を見せていた。
私としては、それをきっかけに、早穂にも好き嫌いがあるのだという事を知ったのだ。
と、言うか、神饌として供えられるものとそうでないものの違いだろうか。
たとえば、早穂はなぜかカレーには反応が薄かったりする。香辛料の塊は神饌としては不適切なのだろうか? もしかすると、いろいろと勉強しなくてはいけないのかもしれない、神様と暮らすためには。
不思議なことに、教えなくとも早穂は炊飯ジャーを使った。またグリルで鮭を焼くこともできた。しかし、フライパンで炒め物をしたり、フライヤーで揚げ物をすることは教えなければならなかった。覚えたとしても、炒め物は苦手なようだ。揚げ物に至っては苦手、というよりも、作るのも食べるのも、どうやら「嫌」らしい。
早穂の反応が非常に悪いため、とんかつなどは常に出前かテイクアウトになっている。
教えなければできないことと、教えなくともできることの違いは何だろう? これは私の中で、ずっと謎な事なのだが、いずれそれがわかる頃には、もっと早穂と仲が良くなっているのだろうと、少し楽しみでもあるのだ。
アパートから駅まで歩き始める。早穂はいつもの、お気に入りの白いワンピースに、白いカプリーヌハットを被っている。うん、早穂。いつもどおりかわいいよ。だけどね…… もう秋真っただ中なんだよ。それは夏コーデだよ。見ていて寒いよ。
そう思う私は、今日はデパートで早穂に秋コーデを見てもらい、早穂自身の認識に、新たな刺激を受けてもらおうと目論んでいるのだ。
さて、ご機嫌な早穂を伴って大きな駅で降りた私は、たくさんの人ごみの中、早穂の手を引いてデパートへ向かう。しかし、なにやら途中から早穂の様子がおかしくなってきた。やたらときょろきょろと周囲を見渡し、特に同じ年頃の(早穂の「姿」と同じ年頃の)女の子とすれ違う時には、かなり熱心に見ている。そして自分の姿を見て、だんだんと元気がなくなってきたのだ。
つまり、道行く少女たちの装いと、自分の装いが違うことに気が付いたようなのだ。
--これは!
と私は感激した。
--気が付いたのね、あなたもついに!
どうやら他人と比較してようやく自分の姿を認識できるという、いかにも日本的というか農耕民族の神様らしい姿に、私は納得しながら、デパートへ突入する。
相変わらずきょろきょろと周囲を気にしながら、心持ち元気のない早穂の手を取りながら。
--婦人服売り場や子供服売り場で、秋コーデをたっぷりと見るが良いぞ、早穂さん。そしておしゃれに変身するが良い
にまにましながら婦人服売り場へ向かった私だったが、ここで致命的なミスに気づく。
すでに売り場は冬コーデ一色である! というミスに。
早穂はなんだか戸惑っている。ダウンジャケットやウールコートを見ながら、なんかさっきの女の子たちの服とも違う、と目で訴えかけている。
--これはまずい。せっかく早穂がその気になっているのに
そう思った私は、本屋へ急いだ。そしていくつかのファッション雑誌を手に取り、子供服の秋コーデが載っている頁を繰ってみた。早穂が興味深そうにのぞき込んで来る。かなり関心を持っているようだ。
私は数冊の雑誌を抱えてレジへ向かった。
--ウインドウショッピングで済ませられると思ったのに。思わぬ出費だ
そう思うが、早穂のためなら惜しくはない。
本屋を出た私は、雑誌の入った袋を大事そうに抱える早穂と家路に就いた。
早穂はデパ地下へ行こうとは言わなかった。
もう忘れているのかもしれない。
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