第41話 これから
どれほどの時間、抱きしめ続けていただろう。
既に夕日が街から消え、しかしそれでいて微かに夕日の残滓が窓から入り込んできている。
僕の腕から離れた瑠々は、その残滓のような赤らんだ目で僕を見つめる。
僕も目を逸らさず、瑠々を見つめる。
「私は、あなたのそばにいたい。男の子でも女の子でもどっちでもいい。ただ、あなたのそばにいさせてほしいの」
「僕も瑠々の傍にいたい」
瑠々が女の子になった僕に向け続けた想い、それは彼女の葛藤すべてだった。
僕を縛ったのも、彼女が苦しんだのも、すべては彼女を縛っていた過去と、そこから今を守ろうとした彼女の葛藤ゆえだった。
もちろん、僕もそれが苦しくもあった。
でも、その葛藤の意味を知った今、ただ僕の中に溢れるのは彼女への想い。
そっと手を握る。
その熱に、僕は応えるように言葉を紡ぐ。
「ありがとう、瑠々。僕を愛してくれてありがとう」
その日の夜。
僕は瑠々の家で彼女のお父さん、お母さん、そして弟と食卓を囲んだ。
最初に会った時と違い、お父さんもお母さんも上機嫌で、いろんなことを話してくれた。
瑠々の家に戻ってすぐに、彼女は過去を受け入れられたことを家族に伝えた。
皆、泣いていた。
それほどこの家族を苦しめていた過去だったと、改めて僕は胸が苦しくなった。
そんな過去の呪縛から解き放たれた家族の笑顔は、どこまでも素敵だった。
僕はそんな笑顔に囲まれながら、話に聞き入った。
瑠々が小さい時、泣き虫だったこと。
弟想いでいつも遊んであげていたこと。
中学生になると少しだけおしゃれをし出したこと。
そして、転校した後、出会えた人たちのおかげで楽しく過ごせているとよく話していたことを。
瑠々は恥ずかしそうに、でもどこか嬉しそうにしていた。
ちなみに、瑠々を苦しめた男子生徒は、瑠々の転校の後、この街に居場所をなくしてどこか遠くへ家族とともに引っ越していったらしい。
二時間ほど続いた楽しい晩御飯は終わり、皆お風呂や片付けにと動いている。
僕は客人だからということで、役割を与えられなかった。
少し外の空気を吸いたくて縁側に座り、景色を眺める。
暗闇の中に浮かぶ坂の上の人々の灯は、どこか儚げに、しかしそれでいて確かな力強さも秘めながら輝いている。
遠くで、汽笛の音が聞こえた。
「薫君」
僕の横に瑠々が腰を下ろした。
既にお風呂に入った瑠々の髪の隙間を縫うようにして空気が入り込んでいく。
軽やかにその空気を掴みながら、瑠々の髪は揺れる。
僕はそれらを見ながら、そこに過分な幸せが含まれていそうだなと思った。
「ほんとに今日はありがとね」
「ううん。瑠々がこれまで抱えてきたものをちゃんと知ることができてよかった。僕の方こそ、ありがとう。これからはその重さを僕も一緒に背負っていきたいって思ってる」
僕は再び届く汽笛の音に耳を向ける。
どこか、僕の想いを後押ししてくれるように聞こえた。
「あはは。薫君は優しいね。もっと、早くに話をしていればよかったな。ううん、打ち明けるべきだったんだよね」
言って、瑠々は僕の隣ではにかむように笑う。
「あっ」
その笑顔が、僕の記憶を心の底からふわりと持ち上げる。
「どうしたの?」
顔を覗き込んでくる瑠々。僕は思わず目を背ける。
「えー、なに、気になるじゃん」
「いや、さ、思い出したんだ。瑠々を好きになった日のことを」
「え?」
「瑠々さ、転校してしばらくは僕が話しかけてもツンとしてたじゃん?」
僕はあえてマイルドな言い方を選ぶ。
「まあ、お恥ずかしながら」
「でも、しつこく話しかけ続けたら、ある日、さっきみたいにはにかんだ笑顔を見せてくれたんだ。もうこいつしつこいな、ってちょっと困った感じで。それが、なんというか、すごくかわいくて、それで好きになったんだ」
思えば、その後から瑠々をちゃんと異性として意識して見るようになったんだ。
じんわりと、僕の中に広がる熱。
瑠々との過去が、僕の心を男の子へと引き戻していく。
ああ、やっぱり男の子に戻って瑠々と一緒にいたいな。
そう、心が揺れ動く。
今の瑠々ならきっと受け入れてくれる。
でも、もちろんそこで終わりじゃない。
瑠々もこれからも過去が襲い来る日がくるだろう。
男の子を選択した僕を拒絶してしまう日も出てくるだろう。
もしかしたら、女の子を選んだ方がよかったと思える日が来るかもしれない。
でもだからこそ、僕は瑠々と出会った僕として向き合っていきたい。
生きていきたい。素直にそう思えた。
いや、ていうか僕も僕だな。
彼女の内面が好きとか言いながら、思い返せばシンプルに笑顔を見て好きになっている。
瑠々のことは言えないな。
「それはちょっと恥ずかしいかな。でも、嬉しい。その時はまだ苦しい時だったけど、私は、あなたが惹かれてくれるほどの笑顔を向けることができていたんだね」
瑠々の瞳が潤む。
確かな過去の煌めきがそこには存在していた。
それを誤魔化すように、ううん、と瑠々は喉を鳴らす。
「それでさ、薫君はこれからどうしたい?」
「どうって……」
「誠のこと。薫君さ、最近誠に惹かれてたでしょ?」
鋭い瑠々。
やっぱりバレていたのか。
申し訳なさと恥ずかしさが入り混じる。
「……ごめん」
「謝ることはないよ。だって、女の子になった薫君に優しくしてたのは誠の方だし。私はただあなたの気持ちと体を利用して、縛り付けてただけだもん」
そんなことない。
そう言おうとして僕は言葉を呑み込んだ。
嘘になるから。
瑠々の過去を知り、彼女の想いを知った今、ここで取り繕うことはしてはいけないと感じた。
「薫君の気持ちを教えて?」
ふわりと僕の手に重なる瑠々の手のひら。
その温かさが僕の心を溶かしていく。
「僕は……誠のことも知りたい。誠はさ、僕に『俺はお前が思っているような奴じゃない』って言ったんだ。もう十年近くも一緒にいる僕に」
うん、と瑠々は小さく頷く。
「今回、瑠々の抱えてきた過去と想いを知ることができてよかったって思ってる。だって、これからはもっとまっすぐに、そして何よりも、瑠々の想いを大切にしながら向き合っていけるって信じてるから。でも、誠はそうじゃない。僕にも見せなかった面があるんだとしたら、誠は苦しんでいるのかもしれない。そうだとしたら、僕は誠に会って、誠の苦しさも一緒に抱えてあげたい。もし拒絶されたとしても、僕はそうしたい」
「ふふっ。やっと薫君らしくなったね。誠が来なくなってからいつ連絡来てもいいようにってずっとスマホ握りしめてたし、私と話をしててもどこか上の空だったもの」
「それは、ほんとにごめん」
「だから、謝らないでって」
「ご、ううん。ありがと」
「うん。じゃあ、あっちに帰ったら早速動かないとね」
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