矛盾解答録 File.03:至高の料理人、沈黙の食材
料理界にその名を知らぬ者はいない、伝説の料理人・紫藤(しどう)。彼の手にかかれば、どんな粗悪な食材も、泥中の石ころでさえも、至高の一皿に生まれ変わるという。人々は彼の技術を「万物を制する**『神の矛』**」と呼んだ。
ある日、そんな紫藤のもとに、美食家として知られる老富豪が一つの桐箱を携えて現れた。
「紫藤シェフ。あなたが『神の矛』を持つというなら、この食材を料理していただきたい」
箱の中にあったのは、深海の圧力で宝石のように結晶化したと言われるキノコ、『静寂(しじま)』。それは、あらゆる味を拒絶し、無に帰す特性を持っていた。塩を振れば塩辛さを消し、砂糖を加えれば甘さを打ち消す。どんな出汁で煮込んでも、ただの白湯のような味になってしまう。
富豪は言った。
「この『静寂』は、料理人の技術も、情熱も、すべてを無に帰す。まさしく**『神の盾』**です。さあ、あなたの矛で、この盾を貫けるかな?」
厨房に立った紫藤は、あらゆる調理法を試みた。焼く、蒸す、揚げる、煮る。世界中から取り寄せたスパイスも、秘伝のソースも、この『静寂』の前では意味をなさなかった。食材はただ黙って、全ての味を吸い込み、消し去っていく。弟子たちは「もう諦めましょう」と首を振り、厨房には絶望感が漂い始めた。
数時間が経過し、約束の時間が来た。富豪が悠然とダイニングの席につく。
やがて、紫藤が一皿の料理を運んできた。
中央に、『静寂』をただ薄切りにして冷やしたものが置かれているだけ。何の変哲もない。
「…ふん。やはり白旗か。ただ切っただけとは」富豪は嘲笑を浮かべ、それを口に運んだ。
味は、ない。無味無臭。予想通りの結果だ。
富豪が紫藤を詰問しようとした、その時。
「お客様。どうぞ、次の一皿を」
紫藤がすっと差し出したのは、超濃厚な熟成チーズのソースをかけた、最高級和牛のステーキだった。富豪がそれを口に入れた瞬間、目を見開いた。
「なっ…!?」
いつも食べているはずのステーキ。しかし、味わいが全く違う。肉の旨味、脂の甘み、チーズの芳醇な香りが、普段の何倍も鮮烈に舌と脳を駆け巡る。まるで、生まれた初めて「肉」というものを味わったかのような衝撃だった。
「どういうことだ…?」
戸惑う富豪に、紫藤は静かに語り始めた。
「私は、『静寂』に味を『加える』ことを諦めました。代わりに、その『全てを無に帰す』という究極の特性を、そのまま活かすことにしたのです」
「『静寂』は、それ自体は何も生み出しません。しかし、それは**『究極の口直し(パレットクレンザー)』**として機能します。先ほど『静寂』を召し上がったことで、お客様の舌は、これまでの人生で蓄積された全ての雑味や味覚の記憶から解放され、完全にリセットされたのです。いわば、赤ん坊のような『始まりの舌』に戻ったのです」
紫藤は続けた。
「私の矛は、食材を無理やり貫くためのものではありません。食材の真の役割を見抜き、最高の舞台を用意するためのもの。この『静寂』の役割は、他の料理を『史上最高に美味しくする』ことでした」
矛は、盾を破壊しなかった。
矛は、盾が「史上最強の盾」として輝くための、最高の舞台を創り上げたのだ。
富豪は言葉を失い、ただ震える手で次の料理を待っていた。
彼の前では、矛盾は対立ではなく、至高の調和(マリアージュ)を生み出していた。
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