森に捧げられた神子 ⑤

 精霊は、ほんとうにいた。


 その事実だけで、目の前がぱっと明るくなった気がした。

 霧が晴れて、視界が開けたような――そんな感覚。


 リディアはもともと、どんなときも前向きに考えるほうだった。

 神殿で叱られても、「じゃあ次は褒められる番だな」と思えるような人間。

 泣きながら掃除をしていても、翌朝には鼻歌を歌っているような性格だ。

 だから今も、恐怖と孤独のなかで、彼女の心の奥では小さな希望が芽吹いていた。


 ――精霊は、怒ってなどいなかった。

 ――この森は、まだ優しい。


 そう思えた瞬間、胸の中にふっと温かいものが灯った。

 ああ、私、まだ生きていていいんだ。

 生贄としてじゃなく、“生きる者”として、この森にいることが許された気がした。


 リディアは震える手で果実を抱きしめる。

 甘い香りが鼻をくすぐり、思わず小さく笑ってしまった。


(……そうだ、泣いてばかりじゃ、だめだ。)


 せっかく生きてるんだもの。だったら、生きることを頑張ろう。

 彼女は、よろよろと立ち上がり、エリオーンの前へと歩み寄った。

 足元はふらついていたが、その瞳だけはしっかりと前を見ている。


「わかりました、精霊様!」


 声が少し上ずった。


「私、ここでお仕えします!

 お住まいの整頓も、掃除も、ぜんぶやります!

 お茶を入れるのも得意です!

 神父様に褒められたんです!」


 あまりの勢いに、エリオーンが目を瞬かせた。

 森の主たる存在が、わずかに呆気にとられたような顔をしている。


「……君は、何を言ってるんだ?」


 静かな声。けれど、リディアは怯まない。

 むしろ、勢いづいた。


「お役に立てます! お掃除も、歌も、あと、祈りもちゃんとできます!

 毎朝の鐘つきも任せてください!」


 エリオーンのまぶたがぴくりと動く。

 どう見ても、“生贄”として差し出された少女の発言ではない。


「……いや、私は別に、使用人を探しているわけじゃ――」

「がんばりますっ!!」


 食い気味の返事。

 リディアの頬には、すでにうっすらと血の気が戻っていた。

 あの絶望の夜の面影は、どこにもない。

 エリオーンは思わずため息をつく。

 そして、ほんの少しだけ、唇の端をゆるめた。


「……人間というのは、本当に……予想外だね」


 その声は、呆れと困惑を滲ませていたが、声音は優しい。


 風がひとすじ、ふたりのあいだを抜けていく。

 森が静かにざわめき、リディアは胸の奥で希望を膨らませた。


 ――この森で精霊様にお仕えするのが、私の使命なのかもしれない、と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る