森に捧げられた神子 ⑥

 本来、エリオーンの住む森の深奥は、人の踏み入る場所では無い。

 この地に満ちる魔力はあまりに濃く、普通の人間であれば、空気を吸うだけで衰弱してしまう。そんな、人を拒む性質がある。


 ――けれど、神子リディアは違った。


 供物として選ばれた神子。その身には、わずかだが確かに「守護の加護」が宿っていたらしい。それが、彼女をこの場所での存在を許していた。


 エリオーンが住まう小屋の敷居をまたいだ瞬間、リディアの視界がふっと揺れた。

 胸の奥がきゅうと締めつけられ、軽い吐き気がこみあげる。

 濃密な魔力の奔流にくらくらして、身体が酔っている感覚。

 だが、不思議と、その感じは長くは続かなかった。

 やがて、体の奥で何かが静かに馴染んでいく。

 まるで荒れた波に浮かぶ小舟が、やっと穏やかな流れを見つけたように。


「……私、大丈夫みたいです」


 小さくつぶやいて、リディアは息を整えた。

 彼女の中の加護が、この空間の力を受け止めている。

 それは奇跡のような調和だった。


 改めて小屋の中を見渡すと、そこは不思議な場所だった。

 見た目は質素な木の小屋なのに、棚に並ぶ瓶や道具のひとつひとつが、淡い光を帯びている。

 乾いたハーブと花弁の香りが混ざり合い、空気そのものが魔法のようにキラキラと輝いている。とても静謐な雰囲気の場所だったが、小さな狭いに反して、とても物が多かった。


「ここが……精霊様の住まい……なんか、ごちゃごちゃしてますね?」


 思わずつぶやく。

 空気は澄んでいる。だが、天井から吊るされたハーブの束や、テーブルの上に所狭しと並んでいる小瓶。花柄のサッシュ。

 雑然としているが、埃臭さは無い。だけど、足の踏み場に困るありさまだった。

 

 エリオーンは、リディアを好きにさせながら、ひょいひょいと小屋の奥へと進んでいくとおもむろにお湯を沸かせ始める。


 「まぁ、好きに過ごすと良いよ。水が欲しければ裏手の川にいけばいい。

 籠の果実は……君なら食べても平気だろう」


 しばらく迷ったのち、リディアはおそるおそる動き出した。

 テーブルの上を拭き、散らばった花弁を集め、床を丁寧に掃き清める。

 その動作は不思議と手慣れていて、まるで以前にもここで働いたことがあるかのようだった。


「精霊様……ここ、少し掃除しておきました。お茶もいれましょうか?」


 リディアの声は、畏れよりも自然な親しみに満ちていた。

 神殿で鍛えられた勤勉さが、彼女の仕草に迷いなく表れている。

 エリオーンは湖面のような青緑の瞳を細め、ひょうひょうとした口調で言う。


「ふむ、よく働くねぇ。使命感というより、好奇心の産物のように見えるけれど」


 リディアは少し首をかしげて、にっこり笑った。


「だって、精霊様のお住まいなんて初めてで!

 それに……もともと、私はこつこつやる方ですから。放っておかれるより、動いていた方が安心するんです」


 エリオーンは微かに口角を上げると、指先を唇ん下に当てながら思案気に唇を開く。


「へぇ、蟻みたいな性質なんだね。森の中でじっとしていろと言われても、君はそうはいかない、と」


 その言葉に、リディアは笑って肩をすくめる。


「だって、じっとしてたら考えちゃいますから」


 彼女は自然な仕草で、エリオーンの小屋をぐるりと見渡すせば、部屋の片隅には、奇妙な品々があった。

 棚に並ぶ、魔道具……だろうか?

 白い骨が入った小瓶、骨細工のペーパーナイフ、見たこともない紋様を刻んだ石。

 何かの動物の一部が干からびた、よくわからないものもある。

 普通の人間ならおののくような物ばかりだが、リディアはただ淡々と眺めていた。


「精霊様、あれは……?」


 声には恐怖よりも、素朴な好奇心があった。

 王都では見たことも無い、ものすごい魔力のこもった品だ。

 エリオーンは、リディアが見ているものに気が付いて視線を和らげた。


「ああ、あれは友人からの贈り物だよ。少し変わった趣味の持ち主でね」


 精霊様に友達がいる――。

 その響きが可笑しくて、リディアは小さく笑った。


「ふふ、そうなんですか。大切なものなんですね。お顔が優しくなりました」


 エリオーンは、目を瞬かせると目元を緩ませる。


「……うん、そうだね。あれは宝物だよ」


 リディアは小さく頷き、再び小屋の外に目を向けた。

 窓から見えるハーブガーデンが、風に揺れている。


「ハーブも素敵ですけど……ここにお花が植わったら、もっと華やかになりますね」


 エリオーンは、片目を細めた。


「ふむ、君は私の庭に色を足したいのか。

 だが、草花を育てるのは私の趣味だ。私の楽しみを奪わないでくれるかな?」


 その言葉には、ほんの少しの茶目っ気が混じっていた。

 魔力に満ちたハーブの成長は、エリオーン自身の力と時間によって保たれている。

 人の手では真似できない、彼だけの“趣味”だった。

 リディアは少し考えてから、にっこり笑う。


「じゃあ……隅っこに、ひとつだけ植えさせてくださいませんか?」


 彼女の指先には、小さな花の種が握られていた。

 白い花弁に淡い紅を差す――亡き母が愛したルミナスローズの種。

 リディアはペンダントに忍ばせて持ち歩いていたそれを、そっと取り出す。


「この花、亡き母が好きだった花なんです。いつか、花壇に植えてあげたいって思ってずっと持っていたんですけど……教会ではなかなかできなくて」


 森の空気が、ひととき静まった。

 エリオーンはゆるやかに微笑み、軽く手を動かす。

 魔力の風がそっとリディアの指先を包み、種を包み込むように浮き上がらせた。


「なるほど……なら、あそこの一角に咲かせてみようか」


 エリオーンが軽く手をかざすと、足元の土がやわらかくうねり、小さなうねが生まれた。

 森の息吹そのものが脈動しているかのように、土はふかふかと温かく、微かに光を宿している。


 「ありがとうございます、精霊様!」


 リディアは嬉しそうに駆け寄り、両手でそっと土をすくう。

 小さな指先が穴をあけ、掌に包んだ種をやさしく置いた。

 その仕草は、まるで祈りのようだった。


 ――母も、昔こうして花を育てていた。


 遠い記憶の中、春の陽だまりの匂いがふと蘇る。

 リディアは静かに息を吐き、種の上に土を戻した。

 その瞬間、土の下からかすかな光が滲む。


 日が傾き、夜が訪れるころ。

 闇の中から、ひとつ、またひとつと光の粒が芽吹いた。

 それはやがて、夜空に溶けるような淡い輝きをまとい――

 “ルミナスローズ”と呼ばれる大輪の花を咲かせた。


 白く透ける花弁が風に揺れ、月明かりを受けて淡く輝く。

 その光景を見つめながら、リディアは胸の奥が温かくなるのを感じた。


 「きれい……」


 思わずこぼれた言葉に、エリオーンは微笑を浮かべる。

 風に金の髪がそよぎ、彼の声が静かに森を満たした。


「なるほど……悪くないね。森に、人の色が混ざるのは、ずいぶん久しい」


 リディアは、泥のついた手をそっと握りしめ、嬉しそうに笑った。


「よかった……きっと母はびっくりすると思います。

 大好きだった花が精霊様のお庭で咲いているなんて知ったら」


 嬉しそうなリディアの声が森の風に乗って、花を揺らした。

 精霊の住む静寂の中に、薄紅色の花が調和するように共存している。


 それはまるで、リディアが森に受け入れられた証のように感じられた。

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